古い自分は小さく・新しい自分は大きく2010年06月26日 21時20分

 母教会の高津教会HPの掲示板に投稿した文を掲載します。

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 お祈りとサポートに感謝いたします。

 来週中には夏期実習で奉仕する教会が発表になることと思います。 今年はどこに派遣されるのか全く予測がつきませんので、心静かに発表の時を待ちたく思います。
 さて、この心穏やかな土曜日のひとときを利用して、私がこのところ思い巡らしていることを、ここに文章としてまとめてみたく思います。

「古い自分は小さく・新しい自分は大きく」

 日本人が仏像を見る時、なぜ平安を感じるのか。私自身の経験から言えば、それは仏に宇宙規模の大きさを感じ、そこに心を寄せることで安心感が得られるからではないでしょうか。さらに、その大きな仏が自分という小さな存在を憐れみ、慈悲を下さる、そんなふうに感じるからだと私は思います。
 一方、イエス・キリストの愛は宇宙規模を上回ります。なぜならイエス・キリストご自身が宇宙をお造りになったからです。しかし、イエス・キリストの愛が人知をはるかに越えるほどに大きいことが、日本人にはほとんど伝わっていないように思います。それは、日本のキリスト者に「小さい者」への志向があるから、と言うことができないでしょうか。

 自分は取るに足らない「小さい者」であると謙虚になることは、とても大切なことだと思います。しかし、より謙虚になるために、より小さい者になろうと思うのは方向性が間違っているように思います。キリスト者はキリストの証人になることが求められています。小さくなっていては証しをすることができません。キリストにあって、キリスト者はもっと大きくなる必要があるのではないでしょうか。
 1980年代に韓国人が書いた『「縮み」志向の日本人』(李 御寧・著)という本が話題になったことがあります。韓国のクリスチャン人口が驚異的に伸びた一方で、日本人のクリスチャン人口がさっぱり伸びないのは、もしかしたら「縮み」志向、つまり「小さい者」へのこだわりが関係するのかもしれません。
 
 こんなことを考えるのは、ローマ6:3「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」の英訳(NIV)に心が留まったからです。

All of us who 【were baptized into】 Christ Jesus 【were baptized into】 his death.

 洗礼を意味する言葉が日本語ではバプテスマという名詞なのに対して英訳ではbaptizeという動詞の受身の過去形が使われており、さらに前置詞に【into】が使われています。ギリシャ語の原典を調べると、やはり動詞の受身の過去形(Aorist passive)が使われると共にειs(エイス)というintoに相当する前置詞が使われています。

 このwere baptized into Christ Jesusという表現は私の想像力を強く刺激します。

 受身が使われているのは、イエスを信じて洗礼を受ける者が自らキリストの中に入って行くのでなく、神により引き入れられるのだ、ということでしょう。 intoが使われるのは、外の暗闇からキリストの光の中に入れられることだと私は理解します。
 つまり、イエスを信じた者は神によりキリストの光の中に引き入れられ、どっぷりと光の中に浸されるのです。そうしてキリストと共に十字架の死の中を通ります。キリストは世の光であり、十字架はレンズの焦点です。キリストの光は十字架の焦点で一点に収束し、その時、全地は暗くなりました。そして十字架の焦点を過ぎた光は再び広がって行きました。
 キリスト者もキリストの光と一体になって十字架の焦点を通過しました。古い自分は収束して小さくなり十字架の焦点上で消え、新しくされた自分がキリストと共に広がり、キリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さを証言する者へと変えられたのです。
 ですから、十字架を通過したキリスト者は小さい者にはならないと私は思います。大きくなってキリストを証しする者となるのです。大きくなると尊大になり、傲慢になる心配があるから小さい者になりたいと思うのは間違いだと思います。
 大きくなっても尊大にならないことを目指す、そこに聖化(きよめ)の醍醐味があるのではないでしょうか。もちろん、それは自分の力でできることではありませんから、大きな者になっても傲慢で尊大な者にならないよう祈りながら、聖霊によってきよめていただかなければなりません。

 古い自分は小さくなり十字架上で収束して消えました。十字架を通過した自分は新しくされた者です。その新しい自分は大きな者です。そのような意識を持ってキリストを証ししていかなければならない、人知をはるかに越えたキリストの愛を伝える者にならなければならない、夏期実習を目前にして、いま私はそんなことを考えています。

【追記】 ネットで注文していた『「縮み」志向の日本人』(李 御寧・著)が、この文章を書いた後で届きましたので、この本の著者が主張する日本人の神観についても、できれば検討していきたく思います。

コメント

_ たなかやすこ ― 2010年06月27日 01時36分

KOJIMAさま

いつも教会の掲示板にも、よい話題を提供してくださり、ありがとうございます。

キリスト者の使う言葉で『小さき者』というのは、以前私にも耳触りで、人によっては、わざとらしい謙遜のように聞こえる場合もありました。

ですから、KOJIMAさんらしい真っ直ぐな素朴な感じ方って、私にも理解できます。
そしてキリストのいのちの中に引き入れられたという事実が洗礼であり、それは受け身でしかあり得ないことも同感です。

しかし、そのことと同時に一度に、キリストの死にも与ったとは多くの人の場合、言えない事が多いのではないでしょうか?
その時は、キリストの死にも与ったことにしましょうという、言わば神の憐れみによる”みなし”であって、実際はそこからまだ先のことであるような気がします。

でも確かに、私たちが苦難の中にいるときに、大いに励まされる事実でもあり、その神の側の真実が根拠となって、私たちのたましいを砕き、神さまのみこころに叶う者になろうとして試練にも耐えられるのだと思います。

そして、自らがキリストの死を体験するごとに、聖化の恵みを受けて、幼子から大人のキリスト者として成長していくのだと思います。

イエス・キリストの愛は、おっしゃる通り人知を超えた大きな愛なので、私たちは何度か聖化の恵みに与り、砕かれて小さくなったぐらいでは、やはりイエスさまと同じ愛を保つことはできません。
やっぱり共にいてくださるイエスさまに大きな愛を輝かせてもらうために、私たちはできるだけ小さくイエスさまのみ手の中に抱かれていることを、いつも自覚して生きている方が安全だということだと思います。

キリスト者はキリストの証人であることが求められており、小島さんのおっしゃる大きく証しするということばが、大胆に主を証するという意味でしたら、それは全くアーメンです。

小さくあって、大胆に証しするなんて、なんだか不可能なことのようですが、キリスト教の教えって案外そういうことが多いように思いませんか?

さて、今年の夏はどこに派遣されて行くことになるのでしょうかねぇ?私たちも祈っていますが、どうか主が小島さんの心と体と霊を守ってくださいますように。

_ S.KOJIMA ― 2010年06月28日 07時20分

 たなかさん、こんにちは。
 コメントありがとうございました。

 掲示板に投稿した文は、土曜日のうちに書いてしまおうと(日曜日は朝から晩まで船橋ですから)、導かれるように書いたものなので、細部まで考え尽くして書いたものではありません。だから、だいぶ漠然としたものですね。
 キリストを証しするとは、声で証しを語るというよりは、人柄でキリストらしさを示すというつもりで書きました。それは、ヘンリ・ナウエンの『放蕩息子の帰郷』にある、父のようになることだとも言えると思います。そう思い至ったので、今朝、目が覚めてから『放蕩息子の帰郷』の第三部「父」以降を、ざっと目を通して見たら、まさに私がぼんやりと考えていたことが全部はっきりと書いてありました。
 私たちは、息子としての安全な生き方ではなく、最終的には父として生きることが求められているのだと思います。このことは、もう少し考えがまとまったら日記の方にも書くようにしたく思います。
それから、新生時にキリストと共に死ぬことは「みなし」ではなく、実際に死んだのだと理解すべきだと思います。少なくとも私はそこからはずれてしまうと、教団の牧師としてはやっていけなくなります ^^
 「自らがキリストの死を体験する」のは聖化の過程における心の中の作業であり、実際にキリストと共に死ぬのは新生時の一度だけではないかなあ、と思います。新生時(児)はもちろん、そのことには気付いていません。

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