路傍説教・全面改訂版2010年06月05日 08時45分

 明日の日曜日の夕方、いよいよ船橋の街角で路傍説教を行います。
この日のために周囲の方々がたくさんお祈りしてくださっているので、とても心強く、街角に立つのが楽しみになってきました ^^
 説教の原稿も全面的に改めました。『RAILWAYS』を見たら、本来の自分が心の奥底で求めているものについて訴えたくなったからです。
 一人でもいいですから、教会に導かれる人がいることを願っています。

【心の底で求めているもの】(路傍説教原稿)

 こんばんは。
 これから、しばらくの間、神様からのメッセージを宣べ伝えさせていただきます。

 突然ですが、皆さんは人生に何を求めていらっしゃいますか?
 もし、

「あなたがたは何を求めているのですか?」

と聞かれたなら、何と答えるでしょうか。
 すぐに答えることができる人もいるかもしれませんが、すぐには答えられない人が多いのではないでしょうか。

「あなたがたは何を求めているのですか?」

 新約聖書の中に「ヨハネの福音書」というイエス・キリストの生涯を記した書物があります。このヨハネの福音書に記されているイエス・キリストの第一声がこの、

「あなたがたは何を求めているのですか?」

です。イエス・キリストは自分について来た二人の男にこう聞きました。
 二人は、急にこんな質問をされて戸惑ったのでしょう。答える代わりに逆に聞きます。

「先生、今どこにお泊りですか?」

 イエス・キリストは答えました。

「来なさい。そうすればわかります。」

 この答えは、どこに泊まっているか分かります、という意味もありますが、それ以上に

「あなたが何を求めているのか、来ればわかりますよ」

という意味の方が大きいでしょう。
 本当の自分が、心の奥深いところで何を求めているのか、私たちには実はよく分かっていないのです。

「あなたがたは何を求めているのですか?」
「来なさい。そうすればわかります。」

イエス・キリストは聖書を通して二人の男に対してだけでなく、私たち全員にそう語り掛けています。

「あなたがたは何を求めているのですか?」
「来なさい。そうすればわかります。」

 このイエス・キリストの質問と答えには、いろいろなことを考えさせられます。
 私たちは生きている以上、何かを求めて生きているはずです。
なぜかと言うと、生きていると大変だったり、つらかったりすることが多いからです。
 それは自分が求めている通りの人生ではないから、大変だったり、つらかったりするのでしょう。
 では、私たちは何を求めているのでしょうか?

 例えば、「お金」というのは分かりやすい答えです。
お金は誰でも欲しいものです。
 しかし、「お金」が

「あなたがたは何を求めているのですか?」

の答えではないということは、たいていの人が分かるでしょう。
 この質問は、そんな表面的なことを聞いているのではないのです。
 私たちが、もっと心の奥深い所で求めているものについて聞いているのです。

「あなたがたは何を求めているのですか?」

と聞かれて、

「お金です。」

と答える人がいるとしたら、その人は本当に表面的な世界でしか生きていない人か、心の底から貪欲な人か、のどちらかでしょう。

 では、次のような答えはどうでしょうか。

「あなたがたは何を求めているのですか?」

と聞かれて、

「愛です。」

と答えるのはどうでしょうか。

「あなたがたは何を求めているのですか?」
「愛です。」

 いかがでしょうか。ちょっと恥ずかしいでしょうかね。実は、私もちょっと恥ずかしいです。
 でも、これは大正解です。

「あなたがたは何を求めているのですか?」
「愛です。」

 と、恥ずかしがらずに堂々と答えられたら良いと思いませんか?
 しかし、私たちの心には、愛について積極的に語ることを妨げる何かがあるようです。
 それが罪です。
 罪は、私たちの中に本来ある素晴らしいものを輝かせることを妨げます。
 そして、その罪が私たちの心を覆ってしまっているため、私たちは、本当の自分が何を求めているのか、分からなくなってしまっています。
 イエス・キリストはその罪をきよめてくださり、私たちを素晴らしい世界へと導いてくださいます。
 イエス・キリストはおっしゃいました。

「あなたがたは何を求めているのですか?」
「来なさい。そうすればわかります。」

 ごまかしながら生きている自分ではなく、本来の自分が何を求めているのか、イエス・キリストは教えてくださり、素晴らしい世界へと導いて下さいます。
 私も、10年前までは、自分が何を求めているのか、自分のことなのに分かりませんでした。
 でも、今は分かります。イエス・キリストが教えてくださったからです。

「あなたがたは何を求めているのですか?」
「来なさい。そうすればわかります。」

 イエス・キリストに従うと、神の愛が分かるようになります。
「愛」は目に見えないものですが、確かに存在します。
 皆さんは、今までに自分が、誰かに守られていると感じたことはありませんか?
 誰か分からないけれど、自分を守ってくれている存在がある。
 そのように感じたことがあるとしたら、その方こそが神の子イエス・キリストです。

 神は愛です。
 私たちは心の奥深い所で、愛の神との真の出会いを求めています。

「あなたがたは何を求めているのですか?」
「来なさい。そうすればわかります。」

 そうしてイエス・キリストと真に出会い、その愛に接すると、素晴らしい心の平安が訪れます。
 こんなにも素晴らしい平安があるのか、と驚くような平安です。
 これは本当に経験してみなければ分かりません。

「あなたがたは何を求めているのですか?」
「来なさい。そうすればわかります。」

 こうおっしゃるイエス・キリストに従い、私自身も心の平安を得ることができました。
 それまでの私は、自分に自信が持てず、いつも不安を抱きながら生活していました。何とか自分に自信が持てるようになりたいと、武道の稽古に励んだり、学問に励んだり、いろいろな本を読み漁ったりしたりしました。それらは確かに私の知識の量を増やし、体を強くしました。しかし、それらは根本的な解決にはならず、私は相変わらず不安の中を生きていました。
 ところが、親の死がきっかけで教会に行くようになり、イエス・キリストに出会ってからは心の不安がなくなり、自信があるとか無いとかは、もうどうでもよいことになりました。イエス・キリストの愛に包まれたからです。

「あなたがたは何を求めているのですか?」
「来なさい。そうすればわかります。」

 私たちは心の平安を求めています。しかし、こんなにも深い平安があるのだということを、罪が邪魔をしているために気付かないでいます。

イエス・キリストは、その罪を洗い清めてくださる方です。

「あなたがたは何を求めているのですか?」
「来なさい。そうすればわかります。」

 イエス・キリストの愛に接すると、素晴らしい平安へと導かれます。
 この素晴らしい心の平安の世界を皆さんにも是非知っていただきたく思います。

「あなたがたは何を求めているのですか?」
「来なさい。そうすればわかります。」

 イエス・キリストのこの言葉に、聞き従いましょう。
 そうすれば、わかります。

 皆さんがイエス・キリストの愛に接し、心の平安を得ることができるよう、お祈りしています。

『RAILWAYS』について再び2010年06月08日 16時27分

 この映画は私がこれまでに見た全ての映画のトップ3に入る秀作だと思います。
 細かい点を挙げれば、退職する時のドロドロをもう少し描いて欲しかったなど、不満な点はあります。しかし、転職前と転職後の対照を鮮やかに描くには、ピボットとなる転換点は短い方が良いのかもしれませんね。そう考えると、結局はこれで良かったのでしょう。

 「ふるさと」に帰ることが、これほどまでに人の心を開かせ、人が本来持つ優しさ・温かさを回復させるのだということを、この映画は鮮やかに描いていると思います。
 逆に言えば、小津安二郎監督が『東京物語』で描いたように、「ふるさと」を離れることが、いかに人の心を硬く冷たいものにしてしまうかということが、良く分かります。

 この「ふるさと」は、必ずしも場所とは限りません。「家族との絆」と、とらえても良いと思います。佐々部清監督の『カーテンコール』では、父に捨てられた娘の美里が父の生まれ故郷の済州島で父と再会した時、かたくなだった心がほぐれ、子としての素直な心を取り戻すことができました。同じく佐々部清監督の『四日間の奇蹟』でも、天の父のもとに帰って行った真理子は、天に帰る直前に真の心の平安を見出しました。
 このように、私たちが感動を覚える映画には、主人公が最後に「ふるさと」に帰っていくことで心の平安を得るというパターンのようなものがあるようです。

 今回の『RAILWAYS』の傑出した特長は、主人公が自分の「ふるさと」に戻ったのが、映画の半ばであり、「ふるさと」に戻ることによって主人公にもたらされた恩恵がたっぷりと描かれている点にあるのではないかと思います。主人公にとってのふるさとは、土地そのものでもあり、母との絆でもあり、小さい頃の夢でもありました。そして、そのふるさとに戻ることで、主人公はさらに土地の人々との温かい関係という素晴らしい恵みも新たに得、また自分の家族の関係も回復させることができました。
 『RAILWAYS』はそんな恵みがたっぷりと描かれています。それは退職時のドロドロを丁寧に描いていたら浮き上がって来ないものなのでしょうね。どこを浮き上がらせるかを考えた上での巧みな構成なのでしょう。

『RAILWAYS』その32010年06月10日 17時47分

 この映画は、人の心のあるべき姿についての思い巡らしの材料をたくさん与えてくれる、本当に優れた作品だと思います。

 きょう思ったのは、「人の心はギョウザの皮だ!」ということです(笑)

 『RAILWAYS』で心に残ったシーンの一つに、淡々と運転業務をこなす主人公の姿を映しているシーンがあります。そこには特別なドラマはなく、ある意味で無表情と言えるくらい普通の顔をして電車を運転していますが、その表情の奥には少しも波立っていない平和な心が見えます。

 こうして穏やかな心で淡々と鉄路を行ったり来たりする姿に、私はギョウザの皮を広げる麺棒を連想しました ^^

 こうして穏やかに田園風景の中を行ったり来たりしているうちに、主人公の心は次第に薄く・広く延ばされていきます。

 東京にいる時の会社人間の彼の心は、水の入っていない小麦粉のように乾燥していました。しかし、ふるさとに戻り、心に水が注がれました。そして、運転業務を重ねて行くうちに次第に、彼の心の薄く延ばされていきました。

 水が注がれたばかりの小麦粉の心は潤いを持ち、軟らかくなったとは言え、まだ球状の自己中心の塊りのような心です。
 しかし、麺棒で広げられるうちに、へりくだった心、そして広く優しい心を持った人間に変えられていきました。
 その薄く広い心は、完全に故郷の大地に密着しています。
 そして、延ばされれば延ばされるほど、自己中心の我流の個性とは異なる、人が本来持つ人間らしい個性が広げられていきます。

 私の心も、こんな風に薄く広く、延ばされていきたいと願っています。

仲の良くない兄弟たち2010年06月14日 14時03分

 創世記からの説教が3章で止まったままになっていますので、明日の寮の集会では4章のカインとアベルから説教をしようと思います。

 内容としては、アベルのささげ物に目を留めた神の御心ではなく、弟を殺すほど憎んだ兄の心理のほうに焦点を絞りたく思っています。

 カインがアベルを殺したのは、単純に言えば、カインが兄だったからです。カインがアベルの弟だったら、この殺人は起きなかったでしょう。
 弟に面目を潰された兄や、仲の良くない兄弟たちの話は聖書には他にもたくさん出て来ます。

・ハガルの子とサラの子(アブラハムの息子たち)
・ヤコブとエサウ
・ヨセフと兄たち(ヤコブの息子たち)
・ダビデと兄エリアブ
・ダビデの息子たち(アブシャロムとアムノン)
・放蕩息子と兄(ルカ15章)
・イエスとイエスの兄弟たち(ヨハネ7:5)

 カインとアベルの物語は、その始まりに過ぎないことがわかります。

 そうそう、マルタとマリヤの姉妹(ルカ10章)もありましたね ^^
 姉妹まで含めると、レアとラケル(ヤコブの妻たち)もあります。
 ユウオデヤとスントケ(ピリピ4:2)もかな?(笑)

立場が違うと…2010年06月17日 22時45分

 同じキリスト教でも信仰的な立場が違うと、神様の恵みに対する考え方も随分と違うということを神学校に入ってから知り、驚きました。とても同じキリスト教とは思えないほどです。でも、学びが足りない間はただ驚くだけで、その違いを自分なりにイメージして自分の言葉で表現することはできませんでした。

 近頃、だいぶ理解が進んだので、こんな感じかなとイメージできるようになりました。それで、そのイメージを私なりの言葉で以下に書いてみようと思います。

 まず、我々の信仰(ウェスレアン・アルミニアン)では、神様の恵みは全ての地域に土砂降りの雨のように降り注いでいます。そして、人はその土砂降りの雨の中でレインコートを着て生活しています。神を信じるとは、そのレインコートを脱いで土砂降りの雨の中に全身をさらすことです。この場合、ただレインコートを脱げば良いのですから、脱ぐ行為の功績はゼロです。神を信じることは少しも偉いことではなく、ただ神の恵みにのみよるのです。

 違う信仰の場合、神様の恵みの雨は降っている地域と降っていない地域があるとイメージすれば良いと思います。その場合、人は神様の恵みをいただくために雨が降っている地域まで移動しなければなりません。この立場ですと、神を信じた人は偉い人だという考え方もできます。また、立場によっては、雨の地域の近くまで行っても、人によって雨の地域への立ち入りが許可されないこともあります。

 私の立場はもちろん最初に書いた、レインコートを脱ぎさえすれば何時でも土砂降りの雨のように圧倒的な神の恵みを受けられるというものです。私の使命はこの信仰を宣べ伝えていくことです。

イエスが泣いた理由2010年06月19日 21時04分

 きょうは近くの公園を犬と散歩しながらヨハネ11:35の「イエスは涙を流された」について思いを巡らしました。

 ヨハネの福音書が一旦閉じる20章のイエスの最後の言葉は、

 「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)

です。目で実際に見ることは信仰においては大切なことではないのです。
 ヨハネ11:35で涙を流される直前、イエスはマルタとマリヤにラザロの遺体を置いた場所を聞きます。

 「彼をどこに置きましたか。」(11:34)

 ラザロをどこに置いたかはご存知のはずですが、イエスは知っていることでも聞く方です(例 6:6、21:15, 16, 17)。
 そのイエスにマルタとマリヤは答えました。

 「主よ。来てご覧ください。」(11:34)
 
 愛するマルタとマリヤにこのように言われてイエスは悲しかったのではないか、だから涙を流してしまったのではないか。きょう、公園でそのように思いました。

 英語で言えばCome and seeはヨハネ1章の

 「来なさい。そうすればわかります。」(ヨハネ1:39)

にもありますから、「来てご覧ください」とは信仰の初心者向けの言葉のようなものです。
 そんな初心者向けの言葉をイエスに向けて言ってしまったのです。

 だからイエスが21章でペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と3回も聞いたのは、ペテロが「私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えたことが、よっぽどうれしかったからではないか(笑)などと思ってしまいました。

 冗談はともかく、神学院の図書館にあるヨハネ福音書の注解書をざっと調べてみて、イエスが泣いた理由に「来てご覧ください」と言われたことが挙げられていないことを、もしかしたらイエスは悲しんでおられるかもしれない、と思ったことです。

 イエスは何でもご存じであることに、もっと敏感でありたいと思わされています。

トマスの言の謎解明2010年06月20日 07時30分

 そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。
「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」
(ヨハネ 11:16)

 トマスが何故このようなことを言ったのか。

 これは私にとっては謎の言葉でしたが、昨日、ヨハネ11:35でイエスが涙を流した理由が分かったことで、解明できました。

 トマスはイエスが十字架での死後に復活したことを十一弟子の中では最後まで信じませんでした。目で見なければ信じない信仰です。
 トマスは、そのような信仰は終わらせようと、自ら宣言したのです。目で見なければ信じない信仰は、主と共に十字架に付けて死んで終わらせよう。
 つまり、この11:16の言葉はヨハネ福音書の2回目以降の読者に向けた言葉です。ヨハネはそのような書き方をこの福音書で随所にしています。例えば、11章の冒頭のマリヤについての説明も、12章での香油塗りを引き合いに出して説明しています。ヨハネは時間の中を自由に移動する記者です。
 ヨハネ福音書が一旦閉じる20章のイエスの最後の言葉が

「見ずに信じる者は幸いです。」(20:29)

であることは昨日も書きましたが、この福音書はこのテーマで一貫して書かれていたのだということが、ようやく分かりました。
 つまり、1章~4章は聖霊による真の信仰について書かれており、4章では神殿での礼拝という目に見える形式にとらわれない、霊とまことによる礼拝の大切さが説かれています(4:23,24)。
 5~9章は、「罪とは何か」が書かれています。見なければ信じない信仰が罪であることが分かります。罪とは神を信じないことですが、神は目に見えないのですから、見なければ信じないのであれば、結局神を信じていることにならないということが書かれています。
 10章は聞くことの大切さ、神の声を聞き分けることの大切さが書かれています。
 そして11章は、見なければ信じない信仰は終わりにしようと書いてあります。

 見なければ信じない信仰とは、ヨハネ福音書の場合、特に律法主義を指すと考えても良いと思います。律法主義は信仰を行いという見える形で示すからです。

 12章以降は新しい時代の始まりです。イエスが十字架で死に、聖霊を助け主として遣わしてくださり、すべてを教えてくださるので、見えないものを信じていても大丈夫なのです。

 ヨハネ福音書とは、このような書物だったのですね ^^
 聖書の学びがますます面白くなってきました。

キリストと一緒に死ぬとは2010年06月24日 17時40分

 前回の日記でトマスが言った「主といっしょに死のうではないか」を取り上げて以来、「キリストと一緒に死ぬ」とはどういうことかが気になって、私なりに考察を進めています。

 パウロは「ローマ人への手紙」6章に次のように書いています。

「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、…、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:3,4)

 「バプテスマ」とは「洗礼」のことですが、今まで私はこの箇所をあまり深く考えることなく読み過ごしていました。しかし、今回、英訳やギリシャ語の原文を見ることで面白いことが分かってきました。

 この箇所は英語のNIV(新国際訳)では次のように訳されています。

 All of us who 【were baptized into】 Christ Jesus 【were baptized into】 his death. We were therefore buried with him through baptism into death in order that, …, we too may live a new life.

 この英訳で私の目を引いたのは、日本語訳がバプテスマという名詞なのに対して英訳ではbaptizeという動詞の受身が使われており、さらに前置詞に【into】が使われているということです。ギリシャ語の原文を調べると、やはり動詞の受身が使われると共にειs(エイス)というintoに相当する前置詞が使われています。

 そこでさらに、バプテスマに関する他の箇所の英訳とギリシャ語を調べてみたところ、日本語で例えば「水/聖霊でバプテスマを授ける」となっている箇所は「水/聖霊【の中】でバプテスマを授ける」の方がより正確であることが分かりました。

 これらのことを、どのように考えたら良いでしょうか。
 私は次のように考えました。

 洗礼を受けるとは、私たち人間にとってはまさに受身の行為であり、それは神が人を神の世界に、【外から中に向かって(into)】私たちを引き入れてくださることだということです。Baptizeとは水の中に物を浸す行為の意味だそうですから、パウロが言うbe baptized into Christ Jesusとは、私たちがキリスト・イエスにどっぷりと浸されるということになります。そしてパウロは、それはまた私たちがイエスの中で死ぬことだと言うのです。

 「キリストと一緒に死ぬ」とは、十字架上のイエスと単に時間を超越して同時に死ぬというだけでなく、空間も超越して完全に一体となって死ぬということのようです。

 これは、ものすごく大きな恵みです。イエス・キリストを信じたクリスチャンに永遠の命が約束されているのは、既にキリストと一緒に一度死んでいるから、もう二度と死ぬことはないということになるのであろうかと、思い巡らしは、さらに続きます。

 また考察が進んだら書くことにしたく思います。

古い自分は小さく・新しい自分は大きく2010年06月26日 21時20分

 母教会の高津教会HPの掲示板に投稿した文を掲載します。

―――
 お祈りとサポートに感謝いたします。

 来週中には夏期実習で奉仕する教会が発表になることと思います。 今年はどこに派遣されるのか全く予測がつきませんので、心静かに発表の時を待ちたく思います。
 さて、この心穏やかな土曜日のひとときを利用して、私がこのところ思い巡らしていることを、ここに文章としてまとめてみたく思います。

「古い自分は小さく・新しい自分は大きく」

 日本人が仏像を見る時、なぜ平安を感じるのか。私自身の経験から言えば、それは仏に宇宙規模の大きさを感じ、そこに心を寄せることで安心感が得られるからではないでしょうか。さらに、その大きな仏が自分という小さな存在を憐れみ、慈悲を下さる、そんなふうに感じるからだと私は思います。
 一方、イエス・キリストの愛は宇宙規模を上回ります。なぜならイエス・キリストご自身が宇宙をお造りになったからです。しかし、イエス・キリストの愛が人知をはるかに越えるほどに大きいことが、日本人にはほとんど伝わっていないように思います。それは、日本のキリスト者に「小さい者」への志向があるから、と言うことができないでしょうか。

 自分は取るに足らない「小さい者」であると謙虚になることは、とても大切なことだと思います。しかし、より謙虚になるために、より小さい者になろうと思うのは方向性が間違っているように思います。キリスト者はキリストの証人になることが求められています。小さくなっていては証しをすることができません。キリストにあって、キリスト者はもっと大きくなる必要があるのではないでしょうか。
 1980年代に韓国人が書いた『「縮み」志向の日本人』(李 御寧・著)という本が話題になったことがあります。韓国のクリスチャン人口が驚異的に伸びた一方で、日本人のクリスチャン人口がさっぱり伸びないのは、もしかしたら「縮み」志向、つまり「小さい者」へのこだわりが関係するのかもしれません。
 
 こんなことを考えるのは、ローマ6:3「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」の英訳(NIV)に心が留まったからです。

All of us who 【were baptized into】 Christ Jesus 【were baptized into】 his death.

 洗礼を意味する言葉が日本語ではバプテスマという名詞なのに対して英訳ではbaptizeという動詞の受身の過去形が使われており、さらに前置詞に【into】が使われています。ギリシャ語の原典を調べると、やはり動詞の受身の過去形(Aorist passive)が使われると共にειs(エイス)というintoに相当する前置詞が使われています。

 このwere baptized into Christ Jesusという表現は私の想像力を強く刺激します。

 受身が使われているのは、イエスを信じて洗礼を受ける者が自らキリストの中に入って行くのでなく、神により引き入れられるのだ、ということでしょう。 intoが使われるのは、外の暗闇からキリストの光の中に入れられることだと私は理解します。
 つまり、イエスを信じた者は神によりキリストの光の中に引き入れられ、どっぷりと光の中に浸されるのです。そうしてキリストと共に十字架の死の中を通ります。キリストは世の光であり、十字架はレンズの焦点です。キリストの光は十字架の焦点で一点に収束し、その時、全地は暗くなりました。そして十字架の焦点を過ぎた光は再び広がって行きました。
 キリスト者もキリストの光と一体になって十字架の焦点を通過しました。古い自分は収束して小さくなり十字架の焦点上で消え、新しくされた自分がキリストと共に広がり、キリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さを証言する者へと変えられたのです。
 ですから、十字架を通過したキリスト者は小さい者にはならないと私は思います。大きくなってキリストを証しする者となるのです。大きくなると尊大になり、傲慢になる心配があるから小さい者になりたいと思うのは間違いだと思います。
 大きくなっても尊大にならないことを目指す、そこに聖化(きよめ)の醍醐味があるのではないでしょうか。もちろん、それは自分の力でできることではありませんから、大きな者になっても傲慢で尊大な者にならないよう祈りながら、聖霊によってきよめていただかなければなりません。

 古い自分は小さくなり十字架上で収束して消えました。十字架を通過した自分は新しくされた者です。その新しい自分は大きな者です。そのような意識を持ってキリストを証ししていかなければならない、人知をはるかに越えたキリストの愛を伝える者にならなければならない、夏期実習を目前にして、いま私はそんなことを考えています。

【追記】 ネットで注文していた『「縮み」志向の日本人』(李 御寧・著)が、この文章を書いた後で届きましたので、この本の著者が主張する日本人の神観についても、できれば検討していきたく思います。