『蒼穹の昴』を読んで2010年05月05日 22時46分

 『日輪の遺産』の原作を読んだ勢いで、同じ浅田次郎氏の著作で未読の『蒼穹の昴』も読んでしまおうと思い、この連休中に文庫本の全四巻を読み終えることができました。
 ちょうど今、フスト・ゴンザレスの分厚い二巻本の『キリスト教史』も読み進めているところなので、『蒼穹の昴』の清朝末期の皇帝らの取り巻きの腐敗ぶりが、中世ローマ教会の腐敗がルターの宗教改革へとつながったことと重なり、とても興味深く読むことができました。
 ルターの宗教改革は、免罪符の発行という聖書とは掛け離れた制度から聖書中心の本来あるべき信仰へと、人々の心を戻す働きをしました。
 『蒼穹の昴』でも主人公の一人が、清の政治が腐敗し混乱したのは科挙に合格して官僚のトップクラスに登りつめた者たちが「論語読みの論語知らず」になってしまったからだと嘆く場面がありました。儒教の聖書とも言える論語を暗記する能力には長けていても、その心が分かっていないというわけです。
 そして今、私は「聖書読みの聖書知らず」について思いを巡らし始めています。もしかしたら自分がそうかもしれないという自戒を込めて、考えてみなければならないと思っています。それは、文庫版『蒼穹の昴』(三)p.314の次のファヴィエ司教の言葉を受け入れることができないからです。

「春児は、主イエスの現(うつ)し身です。デウスがこの貧しい国の民のためにお遣わしになった、天の使徒ですよ。トム、そんなことさえも、あなたにはわからなかったのですか」

 この言葉を受け入れることができない私は聖書を正しく理解しているが故に受け入れることができないのか、つまりそれが正しいことなのか、或いは私が「聖書読みの聖書知らず」になってしまっているから受け入れることができないのか、もう少しじっくりと考えてみたく思います。

楽しかったぁ~、久々の撮影見学2010年05月06日 21時32分

 よもや神学校にいる間に映画の撮影現場を訪れる機会があろうとは思ってもいませんでしたが、今日、その機会に恵まれました。幸せでした。楽しかったです。関係者の皆さん、本当にどうもありがとうございました。

 私のいる神学院では年に一度だけ、遠足の日があります。昨年は横浜の山下公園の周辺の教会巡りをしました。
 さて、今年は5月6日にしようということは早々に決まったものの、どこへ行くかは、なかなか決まりませんでした。それなら、ということで、私の強い思い入れにより、5月6日に佐々部監督の映画の撮影現場の見学が可能かどうか、その可能性を探ってみることになったわけです。
 チル友さんに助けていただいて分かった5月6日の撮影現場は、見学には適していない場所のようでしたので、見学の実現は難しいかなと思っていたところ、プロデューサーさんが快くOKしてくださり、本当に感謝でした。
 きょうはプロデューサーさんが、ずっと案内役を務めてくださいました。撮影場所が狭かった関係で本番の撮影は見ることができませんでしたが、テストの時は見させていただくことができました。監督さんにもほんの一瞬、ご挨拶できました。また、俳優さんが現場に出入りした時は私たちのすぐそばを通って行きましたので、見学にお邪魔した私たち一同は大満足でした。一緒に行った皆が楽しんでいたので、発案した私もうれしかったです。
 映画の撮影現場は大勢のプロフェッショナルが一つの目標に向かって一丸となって動いている様子が、見ていてものすごく気持ちが良いです。今度はいつ行けるか分かりませんが、ぜひまた行って現場の緊張感を肌で感じて来たいです。

『蒼穹の昴』について(続き)2010年05月07日 22時58分

 おとといの日記に、ファヴィエ司教の

「①春児は、主イエスの現(うつ)し身です。②デウスがこの貧しい国の民のためにお遣わしになった、天の使徒ですよ。③トム、そんなことさえも、あなたにはわからなかったのですか」

という言葉を私は受け入れることができないと書きました。直感的にそう思ったわけですが、いろいろ考えてみると、これは意外と奥が深いです。
 ①と②だけでも、考えなければいけないポイントがいくつかありますが、ここでは受け入れることとして、今日は③についてのみ、書いてみたく思います。

「③トム、そんなことさえも、あなたにはわからなかったのですか」

 これは本当にその通りだと思います。

 何がその通りかと言うと、イエスは身近にいても、本当に気付きにくい存在なのです。
 新約聖書を読むと、イエスの弟子たちもそうだったことが分かります。ルカの福音書、ヨハネの福音書の最後の章には、復活したイエスが現れたのに、弟子たちはその人物がイエスだとは気付かなかったことが書いてあります。
 イエスは、これほどまでに気付きにくい存在です。だからこそ、伝道者が必要なのです。誰でも簡単に気付くのであれば、伝道者はほとんど必要ないでしょう。私も含めて他の職業に就いていれば良いのです。ファヴィエ司教は自分の存在意義を自己否定しているように思えます。
 さらに言えば、イエスは気付きにくいので、一度イエスを認識すれば、その後はいつでも認識できるというものでもありません。
 自己中心的な私たちは神から離れやすい傾向を持っているので、すぐにイエスを認識できなくなってしまいます。ですから、最低でも週に1回、日曜日には教会の礼拝に出席して、神様との交わりを持たなければならないのです。
 でも、本当を言えば、週1回では足りません。音楽のプロが1日でも練習を怠ると感覚が鈍るということを聞きますが、神様との交わりも毎日持たないと、神様からどんどん離れて行ってしまいます。
 私は今、牧師になるための勉強をしていますが、神様との交わりを経験したことがある人でさえ神様から離れて行ってしまうのですから、まだ一度も神様との交わりを経験したことがない人に神様のことを伝えるのは、本当に難しいことだと、この頃つくづく思います。

 『蒼穹の昴』のファヴィエ司教の言葉、

「トム、そんなことさえも、あなたにはわからなかったのですか」

は、本当にその通りだと、つくづく思います。
 ですから、神が分からない人を非難すべきではなく、分からないのが普通であると考えるべきでしょう。

アダムとエバの罪2010年05月08日 23時51分

 この4月からは旧約聖書の創世記から説教をすることにしています。
 それで、ここ数日はアダムとエバ(イヴ)が禁断の木の実を食べた創世記3章について思いを巡らしています。

「女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3章6,7節)

 神が食べてはならないと禁じた善悪の知識の木の実を食べた結果、「ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」とは、一体どういうことでしょうか。

【創世記3章からの説教原稿が出来たので、以下は削除します。】

 説教は5月15日の日記をご覧ください ^^

『武士道シックスティーン』2010年05月10日 19時21分

 以前、剣道の試合のシーンの審判役や観客のエキストラを募集しているのを見て、ものすごく行きたかったのですが、行けませんでした。そんな思い入れがあった映画でした。
 期待に違わず良い映画でした。

 キーワードは「心が折れる」。

 心が折れる経験をしないうちはダメだと剣道部の顧問の先生は考えていました。ナルホド、その通りだと思いました。
 心は硬いだけではダメですし、軟らかいだけでもダメです。その両者を兼ね備えた、しなやかさが必要です。そのような、しなやかな心を初めから持っている者などいないのだ、ということでしょう。しなやかな心は、心が折れる経験をしなければ、作られないということなのでしょう。
 二人のヒロインは、片方は硬いだけ、もう片方は軟らかいだけの女の子でしたが、最後には二人とも、しなやかな素敵な女性になりました。いい映画でした。

 剣道がまた、したくなりました ^^

『行為よりも心を見る方』2010年05月15日 19時31分

 創世記3章からの説教原稿がようやくできました。

(創世記2章の説教はありません ^^; 創世記1章の説教原稿はありますが、まだまだ改良の余地があるので、公開はやめておきます ^^)

 今回は思いがけず原稿を作るのに長く掛かってしまいました。やはり、罪の問題は難しいですね。
 でも、おかげで、罪の理解がだいぶ深まったと自分では思います。
 少し長いですが、読んでみていただけると、ありがたく思います。


聖書箇所:創世記2章25節~3章13節

 きょうは創世記3章の、禁断の木の実を食べたアダムとエバの有名な箇所から、人間の罪の原点について、ご一緒に考えてみたく思います。
 このアダムとエバの話は有名ですから、聖書を読んだことがない方でも、二人が神様の言いつけを守らずに、食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまったこと、そして、その時から人は皆、罪人になったのだということを聞いたことがある方は多いだろうと思います。
 では、この食べた行為が罪に当たるのでしょうか?実は、食べた行為自体は問題になっていません。後で詳しく話しますが、最初に木の実を食べたのは妻のエバの方です。このエバの行為は罪ではなかったのです。しかし、それを黙って見ていたアダムの方には罪がありました。
 このアダムとエバの話にじっくりと思いを巡らすと、表面的な行為自体はそれほど大きな罪ではなく、その時の心の動きの方が、実はもっと大きな問題であり、重い罪に当たるのだということが、分かってきます。
 表面的な行為ではなく、心のあり方が問題なのだということ、この事が分かって来ると、日常生活の中でも、何をしてはいけないのか、ということが分かってきます。同じ行為であっても、ある人にとっては差し支えなく、ある人にとっては禁止したほうが良いのだということが分かってきます。
 例えば、お酒の問題については、お酒が特に好きではない人が祝宴の乾杯の席でお付き合いでちょっと飲むことぐらい(車の運転をする場合は別ですが)、問題ないでしょう。しかし、一杯飲み始めると止まらなくなり、神様のことを忘れて、お酒を崇拝してしまうような人は飲んではいけないのです。
 イエス・キリストは安息日に、人の病気を治しました。このことを、後にイエスを十字架に付けた宗教家たちは激しく非難しました。安息日にはどんな仕事もしてはならないという神の戒めがあったからです。しかし、イエスは逆にこの宗教家たちを批判します。宗教家たちが表面的な行為だけにとらわれていて、神の御心がどこにあるのか、ということに全く気付いていなかったからです。
 神様は表面的な行為ではなく、私たちの心のあり方をご覧になるお方です。今日は、アダムとエバの箇所から、アダムとエバの心の動きをご一緒に考えてみようと思います。

 今日、最初にお読みしたのは3章の手前の2章25節からです。

「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」

 ここにこのように書いてあるということは、後に二人が木の実を食べてしまった後では、恥ずかしいと思うようになったということです。それ以前のこの時の二人は、なぜ恥ずかしくなかったのでしょうか?少し先回りして考えておきたく思います。
 それは、マタイとマルコの福音書に出てくるイエスの次の言葉が重要なヒントと言えるでしょう。マルコの記事の方を引用します。

「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マルコ8:33)

 この言葉はイエスが弟子のペテロに向かって言った、最大級に厳しい叱責の言葉ですが、ペテロに向かってサタンと言っています。サタンとは、悪魔のことです。神様は、人が神のことを思わずに人のことを思うことを、これほどまでに徹底的に嫌うのだということが、ここから分かります。
 創世記3章でアダムとエバが罪を犯したのも、悪魔が蛇を使って誘惑したからです。しかし、この創世記の2章の段階では、二人は神様中心の生活をしていました。神様中心の生活をしている間は、裸であっても恥ずかしくなかったのです。

 さて、それでは3章を見てみましょう。
 蛇は言葉巧みに女を誘惑して、神様が食べることを禁じていた善悪の知識の実を女に食べさせることに成功します。この女の行為は非難できるものではありません。神が、この木の実を食べてはいけないと話したのはアダムに対してであり、エバに対してではありませんでしたし、エデンの園では、人は完全に守られていましたから、無防備で大丈夫でした。だから、他人を疑う必要がありません。人を疑うことを知らなかったエバが、蛇の巧みな言葉に乗せられて木の実を食べてしまったことを責めることはできないでしょう。
 しかし、アダムは違います。アダムは神から直接、この木の実を食べてはいけないと言われていましたし、蛇に直接誘惑されていたわけではありませんでしたから、エバが木の実を食べようとするのを注意して止めさせることができたはずです。ですから、非はアダムにあり、エバにはありません。アダムに非があったことは、聖書の他の箇所にも書いてあります。ホセア書6章7節には「彼らはアダムのように契約を破り」とあり、ローマ書5章14節には「アダムの違反」とあります。さらに、第一コリント15章22節には「アダムにあってすべての人が死んでいる」とあります。このように、蛇に惑わされたのはエバの方でしたが、罪を犯したのはアダムの方だったのです。つまり、木の実を食べるという行為自体はさして問題ではなかったということです。この時点ではエバの心に罪はなく、アダムの心には罪があったのです。このように、罪とは表面的な行動ではなく、心の問題であるということが分かります。

 いま私は、この説教の原稿を作っていて、「罪とは表面的な行動ではなく、心の問題である」とパソコンに打ち込んでいる時、イエス・キリストの山上の説教の次の言葉を思い出しました。

「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27,28)

 ここでイエス・キリストは姦淫を問題にしているというよりは、心のあり方について語っているのですね。情欲にとらわれている時は心が神様から離れているということを問題とし、この姦淫を例に取って、もっと一般的に神様から心が離れることの問題を指摘しているのだと思います。
 さて、アダムはなぜ、エバが木の実を取って食べた時に止めなかったのか。それは、アダムも食べたいという食欲を感じていたからでしょう。その気持ちに負けてしまったのです。ですから、アダムがまだ木の実を食べる前に、心の問題としては既に食べたのと同じことになっていたのです。心の中で姦淫を犯すのと同じことになっていたのですね。

 ところで、3章6節の「女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」には、もう一つ大事なポイントが隠されています。女が取って、夫にも与え、二人で一緒に食べたのではなく、女が食べてから夫にも与えたと書いてあります。それはつまり、この木の実がおいしかったことを意味しています。おいしくなかったものを夫にも与えたとしたら、エバはこの段階で既に相当にひねくれていたことになりますから、そんなことは、なかったでしょう。エバは食べてみておいしかったから、夫のアダムにも与えたのだと思います。
 私は思うのですが、もしこの木の実が全然おいしくなかったとしたら、この後の話の展開も全く異なっていたことでしょう。もし、まずかったとしたら、二人は神様の言いつけを守らなかったことをきっと後悔し、神様に謝ったのではないかと思います。神様の言うことを聞かなかったから、こんなマズイ物を口にしてしまったんだ。神様、ゴメンナサイ!というわけです。このように、すぐに悔い改めていれば、二人が神様から離れていくことはなかったでしょう。それゆえに罪の力の計り知れない恐ろしさというものを感じます。
 この木の実は、まずくなく、とてもおいしかった。この快楽を味わったことで、二人は神様から離れて行きます。神様の言うことを守らなかったら快楽を味わうことができたので、二人の心は神様中心から自分中心へと変わっていきました。神のことを思わないで、人のことを思うようになりました。その結果、何が起こったか、それが3章7節の出来事です。

「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」

 神のことを思わないで人のことを思うようになった時、恥ずかしさを感じるようになりました。そして、神様とまっすぐに向き合うことができなくなりました。8節。

「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。」

 二人は神様から身を隠します。それは、神様の言いつけを守らなかったことを自覚しているからでしょう。そのように罪を自覚しているのなら、素直に悔い改めて、神様に謝ればよいのですが、しかし、二人はそうはしませんでした。なぜでしょうか?それは、この木の実がおいしかったからでしょう。この罪が快楽を伴うものであったため、機会があれば、また罪を犯してでも、この快楽を再び味わいたいと思っていたのではないでしょうか。

 罪と快楽とは、このように密接に関連しています。このような快楽は、食欲や性欲に限らないと思います。例えば、人のことを悪く言ったり、いじめたりすることも快楽を伴うものです。ここに罪の罪たるゆえんがあるのではないでしょうか。一度味わった快楽を将来的にも自分のものとし続けるために、悔い改めずに自分中心でい続けたい。それゆえ、神様から身を隠すのです。神様中心から自分中心になり、神様からどんどん遠ざかって行きます。罪は底知れない深みにまで人を引きずり落とします。

 このようにして次の段階では、人は言い逃れをして自分を守ろうとします。神である主はアダムに聞きました。11節。

「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

 アダムは応えました。12節。

「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

 アダムは自分が木の実を食べたことをエバのせいにしました。アダムはエバが食べるのを制止しなければならない立場にあったのに、制止せずに食べたばかりでなく、自分が食べたことをエバのせいにして自分を守ろうとしたのです。そして、エバも自分の過ちを素直に認めずに蛇のせいにしました。13節

「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

 これらのことが神様を怒らせ、3章の最後では次のようにおっしゃいました。22節。

「神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』」

 私たちの祖先であるアダムとエバは永遠に生きることができなくなりました。さらに、主は二人をエデンの園から追放しました。23節。

「そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。」24節。
「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」

 神様はアダムとエバをエデンの園から追放しましたが、それは木の実を食べたという行為自体よりも、心のあり方に問題があったからです。二人の心は神様からどんどん離れて行ってしまったのです。

 神様は、人の表面的な行動よりも、心をご覧になります。
 アダムとエバの心は神様から離れて自分中心になり、自分で自分の心を守ろうとしました。エデンの園では神様が完全に守っていてくださるので自分で自分を守る必要はないのに、自分を守ってしまったのです。心を完全に神様に向けて全てをゆだねていれば、罪の深みにはまっていくことはなかったはずでしたが、神から離れて自分中心になってしまい、自分を守るようになってしまったのです。
 では、エデンの園の外ではどうなのでしょうか。外の世界では自分で自分を守らなければならないのでしょうか。そんなことはありません。
 私は3章21節に大いに注目したく思います。

21節「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」

 神様は、二人をエデンの園から追放するに当たり、二人のために皮の衣を作り、着せてくださいました。私はこれを、神様がエデンの園の外においても守ると、示してくださっているのだと思います。
 人が自分で自分を守ることを始めると、心はどんどんかたくなになり、余計なプライドでおおわれ、自己中心的になり、神様からどんどん離れて行ってしまいます。
 次の創世記4章で弟のアベルを殺したカインは、まさにそのような人物でした。
 この4章のカインとアベルの箇所でも、神様はカインとアベルの行いよりは二人の心をご覧になっていました。

 神様はいつも私たちの行いではなく、心を見てらっしゃるということを忘れないようにしたく思います。神様は私たちの心が神様の方に向いているかを絶えずご覧になっています。神様は私たちをお造りになった方ですから、神様がおっしゃったことは守らなければなりません。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記5:6)

と神様がおっしゃったなら、そのようにしなければなりません。たとえ、そこまで完全に神様に心を向けるのは無理だと感じたとしても、神様を信じ、神様を愛したいと願えば、神様がそれを助けて下さいます。
 そうすると、思いがけなく素晴らしいことが起こります。そんなことは全然期待していなかったのに、素晴らしい心の平安が得られるのです。不思議なことですが、それは事実です。なぜでしょうか。それは、心の平安が得られた時、私たちの体はこの世にあっても、心はエデンの園にあるからです。そして、死んで体が滅んでも、私たちの霊はエデンの園にあります。
 エデンの園では永遠の命が約束されています。神様を信じれば、私たちはエデンの園に戻ることができるのです。たとえ今は神様から心が離れていたとしても、神様を信じて神様に心を向ければ、神様から心が離れていた罪は赦され、永遠の命が約束されます。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架に掛かって下さったからです。何と素晴らしい恵みではありませんか。
 アダムとエバが禁断の木の実を食べて以来、いったいどれくらい多くの人がこの地上に生まれ、罪と共に歩んだことでしょうか。私たちも含めたそれら罪人の罪を全てイエス・キリストは担ってくださったのです。何と素晴らしい愛ではありませんか。
 このイエス・キリストの大きな愛を思う時、私はイエス・キリストと共に歩みたいという気持ちが、心の底から湧き出でて来ます。神様から離れたり、こそこそと隠れたりすることはやめて、堂々とイエス・キリストと共に歩みたいという気持ちが溢れてきます。
 きょう、ここに集い、このメッセージを聞いてくださっている皆さんはいかがでしょうか。神様から離れた道を歩まず、イエス・キリストと共に歩んで行こうではありませんか。

路傍説教準備2010年05月17日 19時48分

 4月から毎週日曜日に行っている船橋教会では、今でも夜の伝道会があり、伝道会の前には路傍伝道があります。朝、神学院を出るのが深川教会の時は7時半でしたが今は8時なので、それは良いのですが、夜は深川の時は夕食時には帰れたのが、今は夜の伝道会が終わってから船橋駅で電車に乗れるのが9時過ぎで、神学院に戻るのが遅い時は11時半になるので、なかなか大変です。昨晩も戻ったのが11時半でした。
 路傍伝道では、繁華街の通りで教会のチラシを配り、賛美歌を歌い、マイクとスピーカーを使って伝道会の案内と短い説教をします。昔はどこの教会でもやっていたことらしいですが、最近は少なくなったので私には初めての経験でした。それで最初は戸惑いましたが、ようやく慣れて来ました。
 チラシを差し出してもほとんどの人は無視して通り過ぎて行きますが、30分ほどの伝道で毎回1~3名ぐらいは私から受け取ってくれる人がいるので感謝です。ゼロの日もありましたが。
 牧師先生の説教も、どの程度耳に入っているのでしょうか。立ち止まって聞いてくれる人は、もちろん誰もいません。

 さて、6月の第一日曜日は、私がこの路傍伝道の説教を担当することになりました。辻説法ならぬ辻説教ですね。
 持ち時間は10分~15分程度です。普通の説教は、持ち時間の中で構成を組み立てて、序論・本論・結論を述べていけばいいのですが、路傍の説教は人が前を通り過ぎていく短い時間(10秒~20秒ぐらい、長くても30秒でしょう)の間にメッセージを凝縮して、それをいくつかつなげていく組み立てにする必要があるとのことですので、私にとっては新しいチャレンジです。

 いま、いろいろとアイデアを練っています。時間は短くても、言いたいことがズバズバ言えそうなので、けっこう面白いかも ^^ と思っています。

初稿(路傍説教)2010年05月23日 06時22分

 路傍説教の初稿が出来ました。

 これにもう少し筆を入れて、テンポ良く話せるものにできたらと思っています。

【路傍説教】

 皆さんは映画や小説の中でタイムトラベルやタイムスリップが描かれている作品はお好きでしょうか。
 少し古いですが有名な『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のⅠ・Ⅱ・Ⅲはその代表だと思いますし、日本の作品では例えば『時をかける少女』は小説が原作ですがテレビドラマや映画、アニメにもなり、今年も新たに映画が上映されましたね。『ドラえもん』も未来からやって来たネコ型ロボットです。
 このように時間を移動する話はとても人気があります。私も大好きです。なぜ、そんなに人気があるのでしょうか。1つ、理由として考えられるのは、私たちは時間に縛られていて、決して時間移動ができないからではないでしょうか。タイムトラベルはフィクションであるがゆえに、夢があり、空想を楽しむことができるのです。

 でも、実は時間に縛られずに、時間と空間の中を自由に移動できるお方が一人だけいらっしゃることを、皆さんはご存知でしょうか。誰だと思いますか。イエス・キリストです。
 イエス・キリストは2000年前に30年間生きていただけの方ではありません。イエス・キリストはその前からいらっしゃいました。それはイエスご自身が言っておられることです。新約聖書には次のようなイエスの言葉が記されています。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8:58)

 さあ、このイエスの言葉を聞いた人たちはどうしたでしょうか。何と、

「彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。」(ヨハネ8:59)

んですね。アブラハムと言うのは、旧約聖書に出てくる、紀元前2000年ぐらいの人物です。イエスがそう言ったのが、ちょうど今から2000年ぐらい前のことで、アブラハムはその時からさらに2000年前の人物です。つまり今から4000年前の人物です。そのアブラハムが生まれる前から私はいる、とイエス・キリストが言ったものですから、それを聞いていた人たちは「何をたわけたことを言っているのだ」と思い、石を投げようとしたというわけです。

 でも、イエス・キリストがアブラハムが生まれる前からいるというのは、本当のことなんですね。なぜ本当かと言うと、イエス・キリストは今も生きておられる方だからです。2000年前に生きていて、今も生きておられる方が、4000年前にも生きておられたとしても、少しも不思議ではありません。イエス・キリストは時間を超越して永遠の昔から永遠の未来にまで存在しておられる方です。

 さて、皆さんもご存知の通り、イエス・キリストが2000年前に生きていたことは、歴史的な事実です。そのイエス・キリストが今も生きている。どうして、そんなことが言えるのでしょう。その理由を3つ、きょうはお話しします。

 イエス・キリストは今も生きておられると、なぜ言えるのでしょうか。

 理由の1つ目は、そのことが聖書に書いてあるからです。イエス・キリストは十字架にはりつけになって死にましたが、3日目によみがえって弟子たちの前に姿を現しました。そして40日の間、彼らに神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを弟子たちに示された、ということが聖書に記されています(使徒の働き1:3)。イエスはその後、天に上って見えなくなりましたが、10日後に聖霊を天から地上の弟子たちに送ってくださいました(使徒の働き2:1-4)。そして、それ以降、イエス・キリストを信じる者には誰でも聖霊が共にいてくださるようになりました。従って、私たちの内にも聖霊がいてくださいます。それはイエス・キリストが共にいてくださるのと同じことです。

 ですから、イエス・キリストが今も生きておられると言える理由の2つ目は、私たちがその証人である、ということです。
 1つ目の理由が聖書に書いてあるということ、2つ目の理由が私たちがその証人であるということです。

 皆さん、今、世界では3人に1人がクリスチャンです。今週から始まるサッカーのワールド・カップの選手もクリスチャンが多いと思いますね。日本の選手でクリスチャンの人はあまりいないかもしれませんし、北朝鮮の選手には一人もいないと思いますが、あとの国はクリスチャンの選手が多いと思います。ゴールを決めた後、感謝の祈りを捧げている外国人選手の姿を見ることも多いですね。
 クリスチャンの一人一人にはイエス・キリストが共にいてくださいます。イエス・キリストが共にいて下さるということを思う時、素晴らしい心の平安が得られます。どうしてこんなにも心が平安なんだろうというぐらいに平安なんですが、それは最初に話した、イエス・キリストは時間を超越しておられる方だということが関係しているんですね。きょうの話の最初に、『ドラえもん』や『時をかける少女』を例にあげ、それらの中のタイムトラベルはフィクションだけれども、イエス・キリストは実際に時間に縛られていない方なのだということをお話ししました。永遠の中に存在しておられる方です。その永遠の中におられる方が共にいてくださるから、私たちの心には平安が与えられるのです。

 永遠の中にいる方が私たちと共にいてくださる、ということは私たちにも永遠のいのちが与えられているということです。私たちは皆、罪人として生まれて来ましたから神様は限られた命しか与えてくださっていません。しかし、イエス・キリストを信じる者を神様は罪から救い出し、永遠の命を与えてくださるのです。
 ドラえもんと一緒にタイムマシンに乗って時間旅行をすることを想像する時、私たちは時間の縛りから解放されて心が軽くなるのを、何となく感じることができると思います。しかし、イエス・キリストを信じると「実際に」私たちは時間の縛りから解放されるのです。ぜひ皆さんにも、この素晴らしい恵みを体感していただきたい。神様は地上にいる私たちの全員がイエス・キリストを信じて永遠の命を持つことを望んでいらっしゃいます。イエス・キリストを信じようではありませんか。

 イエス・キリストは今も生きておられると、どうして言えるのかの2つ目の理由として、私たちがその証人だから、ということを今話しました。
 どうして私たちはそんなに確信を持って言うことができるのでしょうか。それは、私たちの祈りが聞かれ、応えられているからです。これが3つ目の理由です。

 イエス・キリストが今も生きておられると、どうして言えるのか、3つ目の理由は、私たちの祈りをイエス様が聞いてくださり、天の神様に伝えてくださり、神様がその祈りに応えてくださるからです。
 皆さんも皆さんが信じておられる神様にお祈りすることがあると思いますが、皆さんはどれくらいの頻度で祈りますか。
 私たちはできるだけ祈る時を多く持つようにしています。聖書には「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ5:17)と書いてありますから、本当は絶えず祈っていなければならないのですが、なかなか難しいことではあります。でも少なくともご飯を食べる前にはお祈りをしますし、朝起きた時と夜寝る前もお祈りします。そしてそれ以外にも、できるだけお祈りする機会を多く持つようにしています。
 例えば今日、私たちはこの街角に出て来る前に教会でお祈りして来ましたし、この場所に着いてからも短くお祈りしました。午前中にあった礼拝の中でも何度も祈られ、最後も祈りで終わります。そうして私たちが祈ることに、神様は応えてくださるんですね。もちろん全部が全部、神様が応えてくださるわけではありませんが、祈りが応えられたという経験を私たちクリスチャンは非常に多く持っています。
 こんな例があります。どうしても必要な物がある。でもそれを自分たちで調達することはできない。そうすると誰かがそれを送ってくれるよう、お祈りするわけですが、お祈りしたその日にもう届くということがあります。不思議ですね。郵便や宅配便で物が届くには最低でも1日は掛かります。つまり、その日に届いた物はお祈りした日よりも前の日に発送されているのです。それは、そのお祈りが神様によって、過去に運ばれたということを示しています。イエス様は時間に縛られない方ですから、こんなこともできてしまうんですね。
 イエス様は今も生きておられる方で、時間に縛られない方ですから、今日祈ったことを昨日や一ヶ月前、一年前に届けるということもできます。本当に不思議なことですが、これは実際にあることです。

 時間に縛られない、永遠の中におられるイエス・キリストが私たちと共にいてくださるということは、本当に素晴らしい恵みです。ぜひ、皆さんも、今も生きておられるイエス・キリストを信じて永遠の命の恵みを神様から授かってください。神様は地上にいる人々全員がそうなることを望んでおられます。私たちはそのために、このような伝道の奉仕をしています。

 きょうも、この後すぐに教会で伝道会が持たれます。ぜひ、教会にいらしてください。

『時をかける少女』20102010年05月24日 09時06分

 路傍説教の原稿に今年公開された『時をかける少女』の新作のことを見てもいないのに書きました。そしたら無性に見たくなったので見ました。
 これも愛すべき良い映画だったなあ、と今しみじみ思っています。
 若き映画監督役の彼の魅力がもっと引き出されていたら、もっともっと素晴らしい映画になっていたと思うので、その点がやや残念ですが、映画製作者の映画への思いが強く伝わってくる映画でした。
 映画は人に伝えたい何かがあって、それを伝えるために作っているんだという思いが強く伝わって来ました。
 ラストでヒロインが流していた涙には、そのようなものが、たっぷりと詰まっていると思いました。
 人と人とが心の奥深いところでつながっていると、表面的な記憶は消されても、そのつながりは残るのだということは、前作の大林監督の『時をかける少女』でも示されていましたが、今回も違った形でそれが強く示されていて、心に残りました。いい映画でした。
  いやあ、映画って本当にいいもんですね ^^

『オーケストラ!』を見て2010年05月25日 06時28分

 素晴らしい感動をもらいました。
 テーマは「魂の覚醒」だと思いました。

 そしてこの「魂の覚醒」は昨日の記事に書いた『時をかける少女』(2010)にも共通するテーマだと気付きました。
 さらに、この「魂の覚醒」は「真の信仰とは何か」という問題ともリンクしている共通のキーワードだと思いました。
 つまり『オーケストラ!』と『時をかける少女』と「真の信仰とは何か」の3つは「魂の覚醒」という共通のキーワードにより、1つにくくることができるということです。

 あまりネタバレしないように書かなければならないので、少し分かりづらいかもしれませんが、それは、つまりこういうことです。

 『オーケストラ!』ではコンサートの場面で、バイオリンのソロ奏者の魂の中で眠っていたものが目覚めます。それは親から受け継いだ民族の血とも呼べるもので、彼女自身もその存在には気付いていないものでした。それがコンサートという状況の中で呼び覚まされたのです。

 『時をかける少女』(2010)では、ヒロインがタイムリープして過去に戻った時の記憶は未来人によって完全に消去されました。しかし、彼女が過去にタイムリープしていた時に撮られた8ミリフィルムを見た時、彼女の顔は涙でぐしょ濡れになりました。本人にもなぜ涙が出たのか分かりませんでした。それは、つまり「脳」に保存された記憶は完全に消去されたものの、「魂」に保存された記憶は消去されなかったということでしょう。その魂の中で眠っていた過去の記憶が8ミリフィルムを見た時に呼び起こされたのです。

 『オーケストラ!』も『時をかける少女』も本人が気付いていない魂の中で眠っていたものが呼び覚まされたのです。

 「信仰」もこれと大変良く似ています。

 人の魂の中にはアダムとエバが罪を犯す以前の、神と人とが近しい関係にあった時の記憶が眠っているのです。この記憶は魂の奥深くで眠っているので、普段はなかなか気付くことはありません。クリスマスのような世間的な行事で教会に足を運ぶ程度では呼び覚まされるものではありません。しかし、個人的に魂を揺すぶられるような出来事があった時、この神との親しい交わりの記憶が呼び覚まされ、神との関係の回復へ向かうといったことが起こります。

 これが「信仰」です。皆が行くからという理由で神社やお寺や教会に行く程度のことでは「魂の覚醒」は起きません。信仰とは、もっと個人的なものであり、魂の奥深くにあるものが揺り動かされ、目覚めさせられる体験を経て初めて持つに至るものです。

 このことに気付かせてくれた『オーケストラ!』と『時をかける少女』(2010)に大感謝です。