『蒼穹の昴』を読んで2010年05月05日 22時46分

 『日輪の遺産』の原作を読んだ勢いで、同じ浅田次郎氏の著作で未読の『蒼穹の昴』も読んでしまおうと思い、この連休中に文庫本の全四巻を読み終えることができました。
 ちょうど今、フスト・ゴンザレスの分厚い二巻本の『キリスト教史』も読み進めているところなので、『蒼穹の昴』の清朝末期の皇帝らの取り巻きの腐敗ぶりが、中世ローマ教会の腐敗がルターの宗教改革へとつながったことと重なり、とても興味深く読むことができました。
 ルターの宗教改革は、免罪符の発行という聖書とは掛け離れた制度から聖書中心の本来あるべき信仰へと、人々の心を戻す働きをしました。
 『蒼穹の昴』でも主人公の一人が、清の政治が腐敗し混乱したのは科挙に合格して官僚のトップクラスに登りつめた者たちが「論語読みの論語知らず」になってしまったからだと嘆く場面がありました。儒教の聖書とも言える論語を暗記する能力には長けていても、その心が分かっていないというわけです。
 そして今、私は「聖書読みの聖書知らず」について思いを巡らし始めています。もしかしたら自分がそうかもしれないという自戒を込めて、考えてみなければならないと思っています。それは、文庫版『蒼穹の昴』(三)p.314の次のファヴィエ司教の言葉を受け入れることができないからです。

「春児は、主イエスの現(うつ)し身です。デウスがこの貧しい国の民のためにお遣わしになった、天の使徒ですよ。トム、そんなことさえも、あなたにはわからなかったのですか」

 この言葉を受け入れることができない私は聖書を正しく理解しているが故に受け入れることができないのか、つまりそれが正しいことなのか、或いは私が「聖書読みの聖書知らず」になってしまっているから受け入れることができないのか、もう少しじっくりと考えてみたく思います。

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