平和をつくる者 ― 2010年04月29日 10時18分
木曜日の朝食の食卓での5分間メッセージの番が、また回って来ました。
今朝は創世記33章から語りました。今まで何度もこの章を読んで来ましたが、ヤコブを殺そうと思うほど憎んでいたエサウが、なぜヤコブを赦すことができたのか、これまで深く考えたことはありませんでしたが、今回、このことがひどく気になったので、思いを巡らし、考えたことをメッセージとしてまとめました。
私自身も「平和をつくる者」へと変えられたいと願っています。
【聖書箇所:創世記33章3,4節】
「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。
エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。」
双子の兄弟のヤコブとエサウが20年ぶりに再会して泣いた、この感動的な場面は、一つ間違えば血みどろの骨肉の争いになっても、おかしくない場面でした。
かつて、父イサクからの祝福を弟のヤコブに横取りされた兄のエサウは、弟がなぜ今頃、何をしに戻って来たのか、疑いを持って弟を出迎えたことでしょう。
それゆえ400名もの者たちを従えての出迎えとなりました。
一方のヤコブも、兄が果たして自分を赦してくれるのか分からない状態でしたから、緊張で顔をこわばらせながら、兄の方に近づいて行っただろうと思います。
両者が顔をこわばらせながら近づく時、そこに衝突が起こったとしても、少しもおかしくはありません。
そのような衝突が回避され、平安のうちに感動の再会がなされたのはどうしてでしょうか。
その理由をあれこれと思い巡らすうち、私は第二列王記5章でアラムの将軍ナアマンがヨルダン川に七たび身を浸した出来事がヒントになると思い至りました。
おととしの9月、私は母教会の高津教会で礼拝説教の御用をする機会をいただきました。
その時、このナアマンの箇所から説教をしました。ツァラアトに冒された ナアマンの体が治って再びきよくなったのは、単にナアマンがヨルダン川に身を浸すという動作を7回繰り返したからではなく、あまりきれいではないヨルダン川に身を浸した時に、神に助けを求める祈りの心が与えられたからではないか、という話をしました。
神に祈りながらヨルダン川に身を浸した時、ナアマンの心を武装していた硬い鎧が取り去られ、かたくなだった心が、神を受け入れやすいやわらかい心へと次第に変えられていきました。
そうして7度目にヨルダン川に身を浸した時、ナアマンの心は神の平安で満たされ、それと同時にツァラアトもきれいに治って、きよくなったのです。
ヤコブは七回地に伏しておじぎをしました。
ヤコブの前夜までの作戦は、兄のご機嫌を取るために贈り物を先に行かせ、自分は贈り物の後ろからついて行くというものでした。
しかし、その夜に神と格闘して心が変えられたヤコブは、贈り物を先にするという姑息な作戦は取りやめ、自分が堂々と先頭を行くことにしました。
先頭を行くことは大変な緊張を伴うものであったことでしょう。ヤコブはエサウに近づきながらエサウに対して地に伏すおじぎをしました。
この時、ヤコブは神に助けを求めたことでしょう。神様に必死に祈ったことでしょう。
そうして祈りをもって伏し拝むうち、ヤコブの心には次第に神様の平安が与えられ、七度目に地に伏しておじぎをして顔を上げた時、ヤコブの顔は平安に満たされた表情をしていたのではないでしょうか。
この平安がエサウに赦しの心をもたらしたのだと私は思います。
互いにこわばった顔で近づく時、そこには衝突が生じます。しかし、一方が平安に満たされているなら、そこに平和がつくられるのです。
ここで大事なのは中途半端な平安ではなく、平安に満たされている必要があるということです。
イエス様は山上の説教で「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)とおっしゃいました。
平和をつくる者となるには、まず私たちが平安に満たされる必要があることを、創世記のヤコブとエサウの再会の場面は教えてくれているのではないでしょうか。
復活したイエス様は弟子たちに三度も「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19,21,26)とおっしゃいました。
私たちも常に平安に満たされ、平和をつくる者としていただけるよう、主に祈り続けていきたく思います。
今朝は創世記33章から語りました。今まで何度もこの章を読んで来ましたが、ヤコブを殺そうと思うほど憎んでいたエサウが、なぜヤコブを赦すことができたのか、これまで深く考えたことはありませんでしたが、今回、このことがひどく気になったので、思いを巡らし、考えたことをメッセージとしてまとめました。
私自身も「平和をつくる者」へと変えられたいと願っています。
【聖書箇所:創世記33章3,4節】
「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。
エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。」
双子の兄弟のヤコブとエサウが20年ぶりに再会して泣いた、この感動的な場面は、一つ間違えば血みどろの骨肉の争いになっても、おかしくない場面でした。
かつて、父イサクからの祝福を弟のヤコブに横取りされた兄のエサウは、弟がなぜ今頃、何をしに戻って来たのか、疑いを持って弟を出迎えたことでしょう。
それゆえ400名もの者たちを従えての出迎えとなりました。
一方のヤコブも、兄が果たして自分を赦してくれるのか分からない状態でしたから、緊張で顔をこわばらせながら、兄の方に近づいて行っただろうと思います。
両者が顔をこわばらせながら近づく時、そこに衝突が起こったとしても、少しもおかしくはありません。
そのような衝突が回避され、平安のうちに感動の再会がなされたのはどうしてでしょうか。
その理由をあれこれと思い巡らすうち、私は第二列王記5章でアラムの将軍ナアマンがヨルダン川に七たび身を浸した出来事がヒントになると思い至りました。
おととしの9月、私は母教会の高津教会で礼拝説教の御用をする機会をいただきました。
その時、このナアマンの箇所から説教をしました。ツァラアトに冒された ナアマンの体が治って再びきよくなったのは、単にナアマンがヨルダン川に身を浸すという動作を7回繰り返したからではなく、あまりきれいではないヨルダン川に身を浸した時に、神に助けを求める祈りの心が与えられたからではないか、という話をしました。
神に祈りながらヨルダン川に身を浸した時、ナアマンの心を武装していた硬い鎧が取り去られ、かたくなだった心が、神を受け入れやすいやわらかい心へと次第に変えられていきました。
そうして7度目にヨルダン川に身を浸した時、ナアマンの心は神の平安で満たされ、それと同時にツァラアトもきれいに治って、きよくなったのです。
ヤコブは七回地に伏しておじぎをしました。
ヤコブの前夜までの作戦は、兄のご機嫌を取るために贈り物を先に行かせ、自分は贈り物の後ろからついて行くというものでした。
しかし、その夜に神と格闘して心が変えられたヤコブは、贈り物を先にするという姑息な作戦は取りやめ、自分が堂々と先頭を行くことにしました。
先頭を行くことは大変な緊張を伴うものであったことでしょう。ヤコブはエサウに近づきながらエサウに対して地に伏すおじぎをしました。
この時、ヤコブは神に助けを求めたことでしょう。神様に必死に祈ったことでしょう。
そうして祈りをもって伏し拝むうち、ヤコブの心には次第に神様の平安が与えられ、七度目に地に伏しておじぎをして顔を上げた時、ヤコブの顔は平安に満たされた表情をしていたのではないでしょうか。
この平安がエサウに赦しの心をもたらしたのだと私は思います。
互いにこわばった顔で近づく時、そこには衝突が生じます。しかし、一方が平安に満たされているなら、そこに平和がつくられるのです。
ここで大事なのは中途半端な平安ではなく、平安に満たされている必要があるということです。
イエス様は山上の説教で「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)とおっしゃいました。
平和をつくる者となるには、まず私たちが平安に満たされる必要があることを、創世記のヤコブとエサウの再会の場面は教えてくれているのではないでしょうか。
復活したイエス様は弟子たちに三度も「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19,21,26)とおっしゃいました。
私たちも常に平安に満たされ、平和をつくる者としていただけるよう、主に祈り続けていきたく思います。
最近のコメント