クリスマスの恵み ~ヨハネの福音書の構造~2009年12月24日 11時37分

 今夜(24日)は深川教会でキャンドル・サービスがあります。昨晩は聖宣神学院教会での「クリスマスの夕べ」に参加しました。月曜の晩は神学院のクリスマス祝会がありました。日曜(23日)は高根教会でクリスマス礼拝とクリスマス祝会、そしてキャンドルサービスがありました。イエス・キリストが誕生したことを祝うクリスマスの恵みをたくさんいただいています。これらのイベントに参加できることは大きな恵みです。

 しかし、それ以上に大きな恵みを感じる時があります。それは、自分とイエス・キリストとの個人的な交わりが深まっていると感じる時です。

 では、どうしたらイエス・キリストとの個人的な交わりを深めることができるでしょうか。それは、新約聖書の福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)を読む時、自分をイエス以外の人物に当てはめ、イエスが自分に個人的に語り掛けていると思って読めばよいのです。

 しかし、福音書の中の人物を自分に当てはめることは出来そうで、なかなかできないことです。

 ところが、ヨハネの福音書は独特の面白い構造をしていて、このことがし易いような仕掛けが仕込んであります。その仕掛けがどこにあるかというと、ヨハネの福音書の場合、イエスの行動の記述が、それらが行われた「当時」の時間順には書かれておらず、「現代」の私たちがイエスと出会った時からイエスにいただける恵みの順に書かれています。

 そして、もう一つの仕掛けが最終章の21章にあります。ヨハネの21章は、弟子たちが最初にイエスと出会ってからの出来事が走馬灯のように回想されるような書かれ方になっています。すると、21章を読むと、自然ともう一回始めから、この福音書を読みたくなります。そして、2度目に読む時は、あたかもイエスが自分に個人的に語り掛けているように感じるのです。

 ヨハネの福音書中のイエスの第一声が「あなたがたは何を求めているのですか」(1章38節)であり、第二声が「来なさい。そうすればわかります。」(1章39節)です。これらを私はイエスから私への個人的な語り掛けとして強烈に感じます。
 
 これより、私の解釈ではヨハネの福音書は21章の最後まで行った後で1章35節まで戻り、11章44節までを再び繰り返し、最後はラザロの復活の場面で終了するという構造になっています。大区分で示すと下記の通りです。

【大区分】
 Ⅰ.バプテスマのヨハネの証言(1:1~1:34)
 Ⅱ.イエスの時代の人々が受けた恵み(1:35~11:44)
 Ⅲ.イエスの受難と弟子たちへの教え(11:45~20:31)
 Ⅳ.現代(1:35)に戻るための橋渡し(21:1~21:25)
 Ⅴ.現代の我々が受ける恵み(1:35~11:44)

 つまり、1章35節から11章44節までは2度繰り返すことになり、1回目はイエスの時代の人々が受けた恵み、2回目は現代の我々が受ける恵みを示します。21章は現代に戻るための橋渡しの章です。
 1:35~11:44で現代の我々が受ける恵みのうち、大きなものを下記に挙げます。

【Ⅴの現代の我々が受ける恵み】(1:35~11:44)
 1.イエスからの招き(1章)
 2.イエスの血(よいぶどう酒)による心の宮きよめ(2章)
 3.聖霊が心に入ることによる新生(3章)
 4.真の礼拝者を目指す(4章)
 5.教会生活の恵み(5千人の給食)(6章)
 6.罪の生活に戻らない(8章)
 7.霊的盲人にならない(9章)
 8.おわりの日のよみがえり(11章)

 私としては、2章と6章の解釈が気に入っています。すなわち2章はイエス様の血(よいぶどう酒)による心の宮きよめを示しており、6章の「5千人の給食」は教会生活を示しているということです。

(12/25の日記に続く)