証言を信じた証言を信じる?2009年11月26日 22時54分


 いま、ヨハネの福音書(新約聖書中の4福音書の中の一つ)の面白さに、はまっています。読み込めば読み込むほど、新しい発見があります。
 最近気付いたことは、ヨハネには「信じ(る・た・ない)」、「証言」、「あかし」という言葉が、他の3つの福音書に比べてダントツで多いということです。出現回数をPCソフトで調べて比較したところ(新改訳)、下記のようになりました。

「信じ」 マタイ11 マルコ17 ルカ10 ヨハネ97
「証言」 マタイ3 マルコ3 ルカ1 ヨハネ26
「あかし」マタイ3 マルコ2 ルカ2 ヨハネ19

 イエスが神の子・救い主であるという証言を聞いた人々が、それを信じたとか信じなかったとかいう記述がヨハネの福音書には格段に多いのです。
 さらに気付くことは、人々の信じ方が大きく分けて4つのタイプに分類できるというです。

a. 他人からイエスについての証言を聞くだけで信じる。
b. 自分で実際にイエスの声を聞いてから信じる。
c. 話だけでは信じず、奇跡等のしるしを見て初めて信じる。
d. 何を見ても聞いても信じない。

 そして、次のことに気付いた時、ヨハネの福音書の奥深さに、本当に感動しました。
 それは、ヨハネの福音書自体が、これらの信じた/信じなかった人々についての証言になっているということです。

 イエスという人物が存在したことは歴史的な事実です。

 そのイエスと同時代に生きた人々の中で、イエスが神の子であると信じた人がこんなにいたのですよ、ということを、この福音書の記者ヨハネは証言しているのです。

 そして、読者の私たちも、この記者ヨハネの証言を信じるか信じないかということが問われており、どう信じるかによって、やはり上記のa~dの4つのタイプに分けることができるというのが面白いところです。

 ヨハネの福音書が、「〔証言を信じた〕証言を信じますか?」と読者に向かって問うている構造になっていたなんて、本当に奥が深いと思いました。

 このヨハネの証言を信じるか信じないかは個々の人にゆだねられますが、それ以前の問題として、このような証言があるのだということを、ぜひ多くの方々に知っていただきたく思います。

不思議な歓喜2009年11月30日 23時00分


 日記をゆっくり書いている時間はないのだが、あまり時がたってしまわないうちに、このことは是非とも記録しておかなければならない。

 2009年11月29日の未明(午前4時ごろ)、私は布団の中で全身が不思議な歓喜に包まれるのを感じた。

 前日の土曜日、私は『変貌への旅路』と『キリストの血潮』の2冊の本を読んだ。イエス・キリストは私の心を変えるため、私がイエスを十字架に付けた時に流した血で私の心をきよめてくださった。そして、イエスの霊である聖霊が私の心に入ってくださった。いまや私の体を流れている血は私の血ではなくキリストの血なのだ、そう思った時、全身が不思議な歓喜に包まれたのだ。

 なぜ不思議かというと、こんなに大きな喜びに包まれるほど、自分はイエス様が好きだったろうか?と思ったからだ。もちろんイエス様は好きだ。しかし、つい最近まで私はイエス様に全てをゆだねることに抵抗して反逆していたのだ。だから、心の底からイエスを愛していたわけではない。

 そんな私だったが、先日の同窓会セミナーでオズワルト先生に促され、ついに白旗を揚げてイエス様に全面降伏した。すると、聖霊が私の心に働きかけるようになり、私の心を変え始めた。しかし、これは私が敗北してイエスに全面降伏した結果であるから、自分の中では依然としてイエスを以前よりも愛しているという実感は持っていなかった。

 ああ、それなのに、こんなに素晴らしい歓喜が与えられるとは!私はイエス・キリストが私の救い主であることを確信することができた。以前から確信はあったが、これほどハッキリと感じたことはなかったから、以前のはもしかしたら、一人よがりの確信であったかもしれない。それゆえ、私は11月29日を私のアルダスゲイトとしようかと思う。

 ジョン・ウエスレーは1738年5月24日の午後9時15分前ごろアルダスゲイトにおいて「自分の心が不思議に(strangely)熱くなるのを覚えた。そして、キリストを、ただ一人の救い主であるキリストを信じた」と日記に記している。有名なアルダスゲイトの回心だ。

 これで私も確信を持ってウエスレーに向き合える。ありがたいことだ。

 「キリスト教は現世利益の宗教ではない」と良く言われるが、こんな素晴らしい喜びが与えられるのは現世利益だ、と私は思う。