未来をつかむ信仰 ― 2009年10月14日 12時02分
藤本先生の「マルコの福音書」の授業でマルコ5章から25分の伝道説教を作るよう宿題が出ていたので、作りました。
前回の日記「未来からの握手 ~過去に届けられた祈り~」を例話に使いました。25分モノですから長いですが、ぜひ読んでみてください。
「未来をつかんだ長血の女の信仰」
聖書箇所:マルコ5:25~34
私たちは時の流れの中を時々刻々歩んでいますが、皆さんはこの歩みをどのようにイメージしているでしょうか。明るい未来に向かって歩んでいくイメージでしょうか。それとも、暗闇の中を進んで行くイメージでしょうか。或いは、もっと別のイメージでしょうか。ユダヤ人は、公園の池のボートを漕ぐように、後ろに向かって進んで行くイメージを持っているということが言われます。それはユダヤ人が紀元前1400年の遥か昔、モーセに率いられてエジプトの地を出た「出エジプト」の出来事を大切にしており、その過去の重要な出来事から常に目を離さないように進んでいるから、後ろ向きに進むのだと言われています。
日本人の私たちはどうでしょうか。江戸時代前期の俳人・松尾芭蕉は『奥の細道』の書き出しで、時の流れを旅人に例えて面白い表現をしています。
「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」
私は特に「行き交う」という言葉に目が留まります。去年、今年、来年と、年は来ては去り、去ってはまた来る、その年月を「行き交う旅人」と表しているところに芭蕉の温かい人間味が感じられます。すれ違う旅人ひとりひとりの人生を思い浮かべるとき、時の流れにも何か血の通った温かさのようなものがあるように感じられます。向こうからやって来る新しい年も、何だか自分を歓迎してくれているような気になります。
しかし、最近の日本は暗いニュースが多く、時の流れに温かいものを感じる人は少ないかもしれませんね。暗闇の中を進んで行くイメージを持っている人が多いのかもしれません。日本では毎年3万人を超える人が自殺しているということが、そのことを語っているように思えます。
今、私たち日本人は、人に助けを求めにくい社会に住んでいるのではないでしょうか。「自己責任」ということが言われ、自分が選んだ道で苦境に立たされても、自力で解決することが求められます。自分がしっかりしていなければ、生きていけないような社会です。旅の途中で倒れても、誰も介抱してくれないような社会です。
自分のことは自分でする。これは一見、正しいことのように思えます。しかし、そもそも私たちは自分の力だけで生きていける存在でしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんが自分の力だけで生きていくことができるでしょうか。私たちは生まれた時から既に自分以外の人からの助けを受けて生きています。そう考えると、「自分、自分」と自分を強調することは、かえって不自然なことと言えないでしょうか。毎年3万人以上の自殺者は、自分の力で何とかしなければならないと思い込んでいる社会の犠牲者と言えると思います。
きょうの聖書箇所の長血の女はイエス様に真剣に助けを求めました。
長血がどのような病状であったか詳細は不明ですが、出血を伴う病気であったと思われます。血の漏出がある女は汚れた者とされ、その女がすわるすべての物も汚れ、これらの物にさわる者は誰でも汚れる(レビ15:25-27)とされていました。ですから、この女が取った行動、すなわち群集の中に紛れ込む、などということは、とんでもないことです。しかし、女はそれだけ必死だったということです。12年の間わずらっていて、26節に
「これまで多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」
とあります。医者と言っても2000年前のことです。まして王室に出入りするような最高レベルの医者ではなく、庶民が相手の医者ですから、怪しげな医者もいたことでしょう。効果のない治療に多額の治療費をつぎ込まされて財産がなくなるほどになっていましたが、病気はかえって悪くなる一方でした。このような被害は現代においてもあることでしょう。医療保険がきかない民間療法に多額の治療費をつぎ込んでも、いっこうに良くならない、というケースです。この民間治療を行っている医師が善意の人ならまだ救われますが、病気に効かないと知りながら金儲けのために治療を行って暴利を得る悪質なニセ医者もいることでしょう。また、現代においては病気のこと以外でも様々な詐欺が横行しています。ニュースで最も良く目にするのは振り込め詐欺です。老後の生活のために大切に貯めた貯金を、振り込め詐欺の犯人は、主に老人から血も涙もなく奪い取ります。また、うまい儲け話に乗せられて、多額の借金をして、その金を全部だまし取られたという人もいるでしょう。年間3万人以上の自殺者の中には、そのようにして財産を奪われた人たちも多く含まれているのではないでしょうか。長血の女はそのような人たち全ての代表と言って良いでしょう。長血の女にとって時の流れとは、暗闇の中を進んでいくようなものだったことでしょう。いくら進んでも、いっこうに明かりが見えない。ただひたすらに暗闇の中を進む。そんな感じだったことでしょう。
しかし、ある時、長血の女の前に一筋の光が見えたのです。それがイエス・キリストでした。人々の間でイエスは評判になっていました。イエスに手を触れてもらうと、どんな病気でもたちどころに治ってしまうらしい。そんな評判でした。長血の女は居ても立ってもいられなくなりました。ぜひイエス様に自分の病気を癒してほしい。もう自分が汚れているから群集の中に入っていてはいけないということを守っている場合ではありませんでした。群集の中に入って行かなければイエスに触れてもらうことはできません。このチャンスを逃せば一生この病気は治らないであろう。長血の女は必死の思いで群集の中に紛れ込み、光に向かって前進し、ついにイエス様の着物にさわったのでした。
28節「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えていたからである。」
ここで、「直る」に使われているギリシャ語の動詞は、「病気が癒される」という意味のθεραπευω(セラピューオー)ではなく、「救う、助ける」のσωζω(ソーゾー)の受身、すなわち「救われる」或いは「助けられる」という意味であることは注目すべきことです。この「救う、助ける」のσωζω(ソーゾー)は、マタイの福音書の中(14:30)でペテロが湖でおぼれそうになった時、「Kυριε σωσον με(クリエ ソーソン メ)」、「主よ、私を助けてください」と叫んだ時に使われた動詞です。長血の女は、まさに苦しみの中で溺れて死にそうになっていたのでした。そして必死の思いで助けを叫び求めたのでした。
そうして女がイエスの着物にさわると、29節
「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」
ここには、イエスが主体的に女に触れて病気を治したのではなく、女がイエスの着物にさわると病気が治った、と描かれています。さわると病気が治るということは、誰でもイエスの着物に物理的にさわりさえすれば、自動的に病気が治るということでしょうか。そうではありませんね。自動的ではありません。イエスは34節でこう言っています。
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」
この「直す」も「救う、助ける」の意味です。イエスの着物をさわれば誰でも自動的に健康になるのではなく、信仰を持ってさわったから、彼女は救われたのです。
ここで、この「信仰」ということについて、もう少しじっくりと考えてみたく思います。イエスが言った「あなたの信仰」、すなわち「長血の女の信仰」とは、どのような信仰でしょうか。それは、全く無力な存在としてイエスに助けを求めることです。それが信仰です。長血の女は自分で何とかしようとして自分で医者を探し、財産をつぎ込み、結局は財産を失ってしまいました。このことは、彼女にとってはとても不幸なことでしたが、しかし、かえって幸いだったとも言えるかもしれません。何もかも失って全くの無力になった時に初めてイエスの招きが見えてきたのです、そして大胆な行動が取れるようになりました。彼女はこうして救われ、明るい未来をつかむことができました。
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言ったイエスは、こう続けました。
「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
「安心して帰りなさい」、・・・、何と温かくて優しい言葉でしょうか。英語では「Go in peace」です。「平安に包まれて行きなさい」、とも言えるでしょう。長血の女は、長年の苦痛から解放されて心の平安を得ることができたのです。心の平安、これこそが信仰によって得られる最大の恵みだと私は思います。信仰とは、自分が全く無力な者として、神であるイエス・キリストに助けを求めることです。そうすることで長血の女は明るい未来をつかむことができ、心の平安を得ることができました。
長血の女は全てを失って初めて、イエスに助けを求める信仰に立つことができました。一方、自分が何がしかの能力や財産を持っていることを意識する時、神に全面的にゆだねて拠り頼むことが妨げられることが良くあります。その点、初めから何も持っていない無邪気な子供は、もっと大胆な信仰に立つことができます。次の例話はアフリカの孤児院にいた10歳の少女ルースの大胆な祈りと、神がその祈りにどう応えたか、という話です。
『最も祝福された21人の祈り』(デイブ・アーリー著、根本愛一・訳、福音社)という本に、30年程前にアフリカのコンゴ(ザイール)で医療宣教師として奉仕していた女性の話が載っています。
ある時、この医療宣教師の彼女が奉仕していた病院で出産直後の母親が死亡し、生まれたばかりの未熟児と2歳の幼児が残されました。そこは赤道直下であっても夜は底冷えのする場所で、しかも赤ちゃんを安全に温めるにはゴム製の湯たんぽが必要でしたが、(きっと電気設備もなかったのでしょう。また、ストーブでは温度調整が難しく、一酸化炭素中毒の恐れもあります)あいにくどれもゴムが劣化して使えなくなっていました。翌朝、孤児院の孤児たちとのいつもの祈り会で、彼女は赤ちゃんと2歳の幼児のために順番に祈ってくれるよう、孤児たちに頼みました。
10歳の少女ルースの番になると彼女は驚くほど簡潔に、しかもハッキリと大胆に祈りました。「神様、お湯を入れる湯たんぽが必要です。明日では遅すぎます。今日午後までに与えてください。そうしないと赤ちゃんは死んでしまいます。」そして、さらに、「神様、湯たんぽと一緒にお人形を持ってきてください。そうすれば赤ちゃんのお姉ちゃんはあなたに愛されていることを知ることができます。」
この祈りを聞いた宣教師は、この祈りが応えられることはないだろうと思いました。なぜなら、ゴム製の湯たんぽと人形は彼女の故国から荷物が届かない限り、手に入らない物です。それまでの4年間、彼女は一度も故国から荷物を受け取っていませんでしたし、たとえ荷物が送られたとしても、赤道直下の国に湯たんぽを送る人などいるわけがありません。
ところが、この午後、実際に荷物は届いたのです!しかも中にはいろいろな物に混じってゴム製の湯たんぽと人形も入っていました。何とその荷物は、5ヶ月前に彼女の故国から発送されたものでした!!彼女が昔教えていた教会学校の皆から送られたものでした。そのうちの一人が神から赤道直下にいる彼女に湯たんぽを送るようにとの声を聞いてその通りにし、別の少女がアフリカの女の子にと言って人形を入れていたのです。
このことについて、この本の著者のデイブ・アーリーは、「ルースが祈る五ヶ月も前に神は祈りを聞かれ、ルースが求めたその日に答えを見せてくださいました。」と書いています。これは神が5ヶ月前に5ヶ月先のルースの祈りを聞いたという解釈だと思います。この解釈が一般的なのかもしれません。しかし、私は別の解釈をしたく思います。それは、神がルースの祈りをルースが祈ったその日に聞いてから、5ヶ月前にさかのぼり、教会学校の人たちにルースの祈りを届けたという解釈です。私がこう解釈するのには訳があります。物理学の量子力学の分野で、情報が未来から過去に運ばれたとしか解釈できない実験結果があるからです。この量子力学の実験結果から考えると、5ヶ月前から5ヶ月先を見通すことより、今の情報を5ヶ月前に届けるということのほうが、現実の世界に近いということになります。5ヶ月前に基準を置けば5ヶ月先から情報が届けられる、ということです。
この量子力学の実験の内容を説明するのは、なかなか骨が折れることで、苦労して説明しても皆さんの頭が聖書から離れてしまうだけということになってしまいますから、省略しますが、少しだけ、このことが書いてある本の箇所から引用します。その本は、『タイムマシン開発競争に挑んだ物理学者たち』(ジェニー・ランドルズ著、伊藤文英・訳、日経BP社)といい、21章「未来からの握手」に、この実験の解釈についての記述(p.198)があります。著者は、この時間を遡る現象をタイムトラベルと表現しています。以下、引用です。
「2001年、オーストラリアのシドニー大学の物理学者ヒュー・プライス(1953~)は、微小な世界で起こるタイムトラベルの説明に大きな前進をもたらした。その主張には『未来からの握手』と呼ばれる概念が含まれている。前提になっているのは、時間の矢が少なくとも部分的には幻影で、人間のかぎられた認識の結果にすぎないという考えだ。目に見える現象からは、宇宙の万物が一つの方向、つまり過去から未来に流れると予想される。だが、量子力学ではそのことが成り立たない。確かに、理解に苦しむ実験結果を説明するためには、意識の変革が必要だ。未来と呼ばれる時間の情報が、過去と呼ばれる時間の出来事に影響をおよぼすと解釈するしかない。」(引用終わり)
翻訳が分かりにくいので、よけいに分かりにくいのですが、要するに私たちは全体としては時間の流れを、過去から未来に向かっての一方向にしか流れていないと認識しますが、ミクロには、この流れに逆行して流れている部分もあり、その両方が合わさって目に見える現象として表れているという考え方です。未来から過去への逆の時間の流れも合わせて、現象を考えなければならない。この未来から過去への情報の波をシドニー大学のプライス教授は「未来からの握手」と呼んでいます。
この「未来からの握手」。とても素敵な表現だと思いませんか。きょうの話の冒頭で、松尾芭蕉の『奥の細道』の最初の文を紹介しました。
「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」
時間の流れは、過去から未来へ一方的に流れるのでなく、未来からやってくる流れもあるのです。
さて皆さん、この未来から私たちに向かって流れてくるもの、これこそが「神の愛」です。神は私たちを愛していてくださり、それゆえ、いつでも私たちを平安に導こうとしてくださっています。この神の愛は未来から来るからこそ、導きとなるのではないでしょうか。心を閉ざし、暗闇に向かって歩んでいると感じるとき、私たちはこの神の愛を感じることができません。しかし、自分が無力な存在であることに気付き、神に助けを求める時、神はいつでも未来から手を差し伸べてくださっているのだということに気付きます。これが、神による「未来からの握手」です。
長血の女は、苦しみの真っ只中にいて溺れて死にそうな時、未来に一筋の光を見ました。そして、そこに向かって大胆に近づいていき、未来をつかむことができたのです。
神の愛は未来から尽きることなく流れてきます。しかし、これに気付かなければ、ただ通り過ぎて行くのみです。自分の力で何とかしなければ、自分で、自分で、と考えている間は神の愛に気付くことはできません。
長血の女のように神に助けを求める時、私たちは神の愛の流れの中に身を置く幸せに浸ることができるようになります。
無力な者として神に助けを求めること。これこそが信仰です。この信仰を持つことにより神様から心の平安という素晴らしい未来が与えられます。
前回の日記「未来からの握手 ~過去に届けられた祈り~」を例話に使いました。25分モノですから長いですが、ぜひ読んでみてください。
「未来をつかんだ長血の女の信仰」
聖書箇所:マルコ5:25~34
私たちは時の流れの中を時々刻々歩んでいますが、皆さんはこの歩みをどのようにイメージしているでしょうか。明るい未来に向かって歩んでいくイメージでしょうか。それとも、暗闇の中を進んで行くイメージでしょうか。或いは、もっと別のイメージでしょうか。ユダヤ人は、公園の池のボートを漕ぐように、後ろに向かって進んで行くイメージを持っているということが言われます。それはユダヤ人が紀元前1400年の遥か昔、モーセに率いられてエジプトの地を出た「出エジプト」の出来事を大切にしており、その過去の重要な出来事から常に目を離さないように進んでいるから、後ろ向きに進むのだと言われています。
日本人の私たちはどうでしょうか。江戸時代前期の俳人・松尾芭蕉は『奥の細道』の書き出しで、時の流れを旅人に例えて面白い表現をしています。
「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」
私は特に「行き交う」という言葉に目が留まります。去年、今年、来年と、年は来ては去り、去ってはまた来る、その年月を「行き交う旅人」と表しているところに芭蕉の温かい人間味が感じられます。すれ違う旅人ひとりひとりの人生を思い浮かべるとき、時の流れにも何か血の通った温かさのようなものがあるように感じられます。向こうからやって来る新しい年も、何だか自分を歓迎してくれているような気になります。
しかし、最近の日本は暗いニュースが多く、時の流れに温かいものを感じる人は少ないかもしれませんね。暗闇の中を進んで行くイメージを持っている人が多いのかもしれません。日本では毎年3万人を超える人が自殺しているということが、そのことを語っているように思えます。
今、私たち日本人は、人に助けを求めにくい社会に住んでいるのではないでしょうか。「自己責任」ということが言われ、自分が選んだ道で苦境に立たされても、自力で解決することが求められます。自分がしっかりしていなければ、生きていけないような社会です。旅の途中で倒れても、誰も介抱してくれないような社会です。
自分のことは自分でする。これは一見、正しいことのように思えます。しかし、そもそも私たちは自分の力だけで生きていける存在でしょうか。生まれたばかりの赤ちゃんが自分の力だけで生きていくことができるでしょうか。私たちは生まれた時から既に自分以外の人からの助けを受けて生きています。そう考えると、「自分、自分」と自分を強調することは、かえって不自然なことと言えないでしょうか。毎年3万人以上の自殺者は、自分の力で何とかしなければならないと思い込んでいる社会の犠牲者と言えると思います。
きょうの聖書箇所の長血の女はイエス様に真剣に助けを求めました。
長血がどのような病状であったか詳細は不明ですが、出血を伴う病気であったと思われます。血の漏出がある女は汚れた者とされ、その女がすわるすべての物も汚れ、これらの物にさわる者は誰でも汚れる(レビ15:25-27)とされていました。ですから、この女が取った行動、すなわち群集の中に紛れ込む、などということは、とんでもないことです。しかし、女はそれだけ必死だったということです。12年の間わずらっていて、26節に
「これまで多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」
とあります。医者と言っても2000年前のことです。まして王室に出入りするような最高レベルの医者ではなく、庶民が相手の医者ですから、怪しげな医者もいたことでしょう。効果のない治療に多額の治療費をつぎ込まされて財産がなくなるほどになっていましたが、病気はかえって悪くなる一方でした。このような被害は現代においてもあることでしょう。医療保険がきかない民間療法に多額の治療費をつぎ込んでも、いっこうに良くならない、というケースです。この民間治療を行っている医師が善意の人ならまだ救われますが、病気に効かないと知りながら金儲けのために治療を行って暴利を得る悪質なニセ医者もいることでしょう。また、現代においては病気のこと以外でも様々な詐欺が横行しています。ニュースで最も良く目にするのは振り込め詐欺です。老後の生活のために大切に貯めた貯金を、振り込め詐欺の犯人は、主に老人から血も涙もなく奪い取ります。また、うまい儲け話に乗せられて、多額の借金をして、その金を全部だまし取られたという人もいるでしょう。年間3万人以上の自殺者の中には、そのようにして財産を奪われた人たちも多く含まれているのではないでしょうか。長血の女はそのような人たち全ての代表と言って良いでしょう。長血の女にとって時の流れとは、暗闇の中を進んでいくようなものだったことでしょう。いくら進んでも、いっこうに明かりが見えない。ただひたすらに暗闇の中を進む。そんな感じだったことでしょう。
しかし、ある時、長血の女の前に一筋の光が見えたのです。それがイエス・キリストでした。人々の間でイエスは評判になっていました。イエスに手を触れてもらうと、どんな病気でもたちどころに治ってしまうらしい。そんな評判でした。長血の女は居ても立ってもいられなくなりました。ぜひイエス様に自分の病気を癒してほしい。もう自分が汚れているから群集の中に入っていてはいけないということを守っている場合ではありませんでした。群集の中に入って行かなければイエスに触れてもらうことはできません。このチャンスを逃せば一生この病気は治らないであろう。長血の女は必死の思いで群集の中に紛れ込み、光に向かって前進し、ついにイエス様の着物にさわったのでした。
28節「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えていたからである。」
ここで、「直る」に使われているギリシャ語の動詞は、「病気が癒される」という意味のθεραπευω(セラピューオー)ではなく、「救う、助ける」のσωζω(ソーゾー)の受身、すなわち「救われる」或いは「助けられる」という意味であることは注目すべきことです。この「救う、助ける」のσωζω(ソーゾー)は、マタイの福音書の中(14:30)でペテロが湖でおぼれそうになった時、「Kυριε σωσον με(クリエ ソーソン メ)」、「主よ、私を助けてください」と叫んだ時に使われた動詞です。長血の女は、まさに苦しみの中で溺れて死にそうになっていたのでした。そして必死の思いで助けを叫び求めたのでした。
そうして女がイエスの着物にさわると、29節
「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」
ここには、イエスが主体的に女に触れて病気を治したのではなく、女がイエスの着物にさわると病気が治った、と描かれています。さわると病気が治るということは、誰でもイエスの着物に物理的にさわりさえすれば、自動的に病気が治るということでしょうか。そうではありませんね。自動的ではありません。イエスは34節でこう言っています。
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」
この「直す」も「救う、助ける」の意味です。イエスの着物をさわれば誰でも自動的に健康になるのではなく、信仰を持ってさわったから、彼女は救われたのです。
ここで、この「信仰」ということについて、もう少しじっくりと考えてみたく思います。イエスが言った「あなたの信仰」、すなわち「長血の女の信仰」とは、どのような信仰でしょうか。それは、全く無力な存在としてイエスに助けを求めることです。それが信仰です。長血の女は自分で何とかしようとして自分で医者を探し、財産をつぎ込み、結局は財産を失ってしまいました。このことは、彼女にとってはとても不幸なことでしたが、しかし、かえって幸いだったとも言えるかもしれません。何もかも失って全くの無力になった時に初めてイエスの招きが見えてきたのです、そして大胆な行動が取れるようになりました。彼女はこうして救われ、明るい未来をつかむことができました。
「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言ったイエスは、こう続けました。
「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
「安心して帰りなさい」、・・・、何と温かくて優しい言葉でしょうか。英語では「Go in peace」です。「平安に包まれて行きなさい」、とも言えるでしょう。長血の女は、長年の苦痛から解放されて心の平安を得ることができたのです。心の平安、これこそが信仰によって得られる最大の恵みだと私は思います。信仰とは、自分が全く無力な者として、神であるイエス・キリストに助けを求めることです。そうすることで長血の女は明るい未来をつかむことができ、心の平安を得ることができました。
長血の女は全てを失って初めて、イエスに助けを求める信仰に立つことができました。一方、自分が何がしかの能力や財産を持っていることを意識する時、神に全面的にゆだねて拠り頼むことが妨げられることが良くあります。その点、初めから何も持っていない無邪気な子供は、もっと大胆な信仰に立つことができます。次の例話はアフリカの孤児院にいた10歳の少女ルースの大胆な祈りと、神がその祈りにどう応えたか、という話です。
『最も祝福された21人の祈り』(デイブ・アーリー著、根本愛一・訳、福音社)という本に、30年程前にアフリカのコンゴ(ザイール)で医療宣教師として奉仕していた女性の話が載っています。
ある時、この医療宣教師の彼女が奉仕していた病院で出産直後の母親が死亡し、生まれたばかりの未熟児と2歳の幼児が残されました。そこは赤道直下であっても夜は底冷えのする場所で、しかも赤ちゃんを安全に温めるにはゴム製の湯たんぽが必要でしたが、(きっと電気設備もなかったのでしょう。また、ストーブでは温度調整が難しく、一酸化炭素中毒の恐れもあります)あいにくどれもゴムが劣化して使えなくなっていました。翌朝、孤児院の孤児たちとのいつもの祈り会で、彼女は赤ちゃんと2歳の幼児のために順番に祈ってくれるよう、孤児たちに頼みました。
10歳の少女ルースの番になると彼女は驚くほど簡潔に、しかもハッキリと大胆に祈りました。「神様、お湯を入れる湯たんぽが必要です。明日では遅すぎます。今日午後までに与えてください。そうしないと赤ちゃんは死んでしまいます。」そして、さらに、「神様、湯たんぽと一緒にお人形を持ってきてください。そうすれば赤ちゃんのお姉ちゃんはあなたに愛されていることを知ることができます。」
この祈りを聞いた宣教師は、この祈りが応えられることはないだろうと思いました。なぜなら、ゴム製の湯たんぽと人形は彼女の故国から荷物が届かない限り、手に入らない物です。それまでの4年間、彼女は一度も故国から荷物を受け取っていませんでしたし、たとえ荷物が送られたとしても、赤道直下の国に湯たんぽを送る人などいるわけがありません。
ところが、この午後、実際に荷物は届いたのです!しかも中にはいろいろな物に混じってゴム製の湯たんぽと人形も入っていました。何とその荷物は、5ヶ月前に彼女の故国から発送されたものでした!!彼女が昔教えていた教会学校の皆から送られたものでした。そのうちの一人が神から赤道直下にいる彼女に湯たんぽを送るようにとの声を聞いてその通りにし、別の少女がアフリカの女の子にと言って人形を入れていたのです。
このことについて、この本の著者のデイブ・アーリーは、「ルースが祈る五ヶ月も前に神は祈りを聞かれ、ルースが求めたその日に答えを見せてくださいました。」と書いています。これは神が5ヶ月前に5ヶ月先のルースの祈りを聞いたという解釈だと思います。この解釈が一般的なのかもしれません。しかし、私は別の解釈をしたく思います。それは、神がルースの祈りをルースが祈ったその日に聞いてから、5ヶ月前にさかのぼり、教会学校の人たちにルースの祈りを届けたという解釈です。私がこう解釈するのには訳があります。物理学の量子力学の分野で、情報が未来から過去に運ばれたとしか解釈できない実験結果があるからです。この量子力学の実験結果から考えると、5ヶ月前から5ヶ月先を見通すことより、今の情報を5ヶ月前に届けるということのほうが、現実の世界に近いということになります。5ヶ月前に基準を置けば5ヶ月先から情報が届けられる、ということです。
この量子力学の実験の内容を説明するのは、なかなか骨が折れることで、苦労して説明しても皆さんの頭が聖書から離れてしまうだけということになってしまいますから、省略しますが、少しだけ、このことが書いてある本の箇所から引用します。その本は、『タイムマシン開発競争に挑んだ物理学者たち』(ジェニー・ランドルズ著、伊藤文英・訳、日経BP社)といい、21章「未来からの握手」に、この実験の解釈についての記述(p.198)があります。著者は、この時間を遡る現象をタイムトラベルと表現しています。以下、引用です。
「2001年、オーストラリアのシドニー大学の物理学者ヒュー・プライス(1953~)は、微小な世界で起こるタイムトラベルの説明に大きな前進をもたらした。その主張には『未来からの握手』と呼ばれる概念が含まれている。前提になっているのは、時間の矢が少なくとも部分的には幻影で、人間のかぎられた認識の結果にすぎないという考えだ。目に見える現象からは、宇宙の万物が一つの方向、つまり過去から未来に流れると予想される。だが、量子力学ではそのことが成り立たない。確かに、理解に苦しむ実験結果を説明するためには、意識の変革が必要だ。未来と呼ばれる時間の情報が、過去と呼ばれる時間の出来事に影響をおよぼすと解釈するしかない。」(引用終わり)
翻訳が分かりにくいので、よけいに分かりにくいのですが、要するに私たちは全体としては時間の流れを、過去から未来に向かっての一方向にしか流れていないと認識しますが、ミクロには、この流れに逆行して流れている部分もあり、その両方が合わさって目に見える現象として表れているという考え方です。未来から過去への逆の時間の流れも合わせて、現象を考えなければならない。この未来から過去への情報の波をシドニー大学のプライス教授は「未来からの握手」と呼んでいます。
この「未来からの握手」。とても素敵な表現だと思いませんか。きょうの話の冒頭で、松尾芭蕉の『奥の細道』の最初の文を紹介しました。
「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」
時間の流れは、過去から未来へ一方的に流れるのでなく、未来からやってくる流れもあるのです。
さて皆さん、この未来から私たちに向かって流れてくるもの、これこそが「神の愛」です。神は私たちを愛していてくださり、それゆえ、いつでも私たちを平安に導こうとしてくださっています。この神の愛は未来から来るからこそ、導きとなるのではないでしょうか。心を閉ざし、暗闇に向かって歩んでいると感じるとき、私たちはこの神の愛を感じることができません。しかし、自分が無力な存在であることに気付き、神に助けを求める時、神はいつでも未来から手を差し伸べてくださっているのだということに気付きます。これが、神による「未来からの握手」です。
長血の女は、苦しみの真っ只中にいて溺れて死にそうな時、未来に一筋の光を見ました。そして、そこに向かって大胆に近づいていき、未来をつかむことができたのです。
神の愛は未来から尽きることなく流れてきます。しかし、これに気付かなければ、ただ通り過ぎて行くのみです。自分の力で何とかしなければ、自分で、自分で、と考えている間は神の愛に気付くことはできません。
長血の女のように神に助けを求める時、私たちは神の愛の流れの中に身を置く幸せに浸ることができるようになります。
無力な者として神に助けを求めること。これこそが信仰です。この信仰を持つことにより神様から心の平安という素晴らしい未来が与えられます。
最近のコメント