『チルソクの夏』と『パッション』の孤独2009年10月30日 21時05分

「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。」(新約聖書・エペソ人への手紙3章1節)

 2004年の春、映画『チルソクの夏』と『パッション』を映画館で見ました。
 今、5年を経て、それぞれの映画で表現された孤独が、いま私の中で一つに混ざり合っています。
 それぞれの映画の孤独とは、『チルソクの夏』は下関港を去るフェリーボート上の安くんであり、『パッション』は十字架上のイエスです。
 安くんは郁子たちが見送りに来てくれなかったので、孤独でした。イエスは民衆からののしられ、あざけられ、天の父からも見捨てられて孤独でした。
 今週、私は佐々部監督やチル友さんたちが絶賛していた映画『私の中のあなた』を批判する記事を2回にわたって書きました。その結果、チル友さんたちがいる岸壁から完全に離れてしまった孤独を感じています。
 神学校に入った時点でフェリーに乗り込んでいたわけですが、それでも今まではまだ紙テープでつながっていたと思います。その紙テープも切れてしまったかな、と感じています。
 しかし、安くんが韓国人をやめるわけにいかないのと同様、私もキリスト者をやめるわけにはいかないので、仕方がないことです。冒頭の聖句のように、私は主イエス・キリストの囚われ人となったのですから。