カナの婚礼の良いぶどう酒2009年10月02日 20時50分

 今週は前学期の試験週だったので大変でしたが、寮の祈り会も休まず続けられたので、よけいに忙しかったです。

 昨晩の祈り会での私の説教はヨハネの福音書2章からでした。前回が1章から、次回は3章からの予定で一応しばらくはヨハネの福音書からの説教を続けるつもりでいます。
 ヨハネの福音書2章には私の大好きなカナの婚礼の場面が描かれています。

 ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにはイエスの母マリヤ、イエス、そしてイエスの弟子たちも出席していました。
 さて、婚礼の宴がたけなわの時、なんと、ぶどう酒がなくなってしまいました ^^; そのとき、イエスは水がめの水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。
 そのぶどう酒がどのようにして出来たかを知らない宴会の世話役はそのぶどう酒を味わい、花婿にこう言います ^^
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」

 今まで私はこの場面は書いてある通りにしか受け取っていませんでした。しかし、今回の説教にあたり、いろいろと思い巡らしていて、この場面はものすごく奥が深そうだということが、だんだん分かってきました。

 まず第一に、水をぶどう酒に変えたことは、ただ単に変えたというよりは、水に命を吹き込んだと考えるべきでしょう。水に命はありませんが、良いぶどう酒は生きています。
 なぜ、そう考えるかというと、この2章のカナの婚礼の場面は、19章の十字架の場面のコントラストとして描かれているように思えるからです。19章の十字架の場面にも母マリヤがいて、そしてそこには酸いぶどう酒があります。酸っぱくなったぶどう酒は死につつある液体です。イエスが死にゆく場面での酸いぶどう酒と華やかな婚礼の場面での良いぶどう酒というコントラストを思い浮かべるとき、良いぶどう酒とは生命があふれた液体と考えるべきでしょう。

 ヨハネの福音書には新しい命に関係したことが、あちこちに書かれています。2章のこのぶどう酒の場面は、先ずはその手始めということになります。

 さらにこの場面はイエスの時代の700年も前に、イザヤによって預言されていたと私は考えたく思います。

 「万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみと、よくこされたぶどう酒の宴会を催される。
 その日、人は言う。
 『見よ、この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。
  この方こそ、私たちが待ち望んだ主。
  その御救いを楽しみ喜ぼう。』」(イザヤ書25章6節、9節)

 聖書は本当に奥が深いなあ~、という感動を日々いただくことができて感謝です ^^