退職1周年2009年06月01日 10時00分

 昨年の5月31日付けで前職を辞したので、ちょうど1年が経ったことになる。
 昨年の6月から聴講生として神学校に通うようになり、9月に入試を受け、10月からは神学校の敷地内の寮に入り、24時間神学校で生活しながら聖書の教えについて学んでいる。
 神学校で学ぶようになって1年が経ち、ようやくキリスト教を魂のレベルで理解する入口に立つことができた気がする。私論だが、自らの経 験を踏まえて、人のキリスト教に対する関心のレベルは大雑把に分けて3つあるように思う。

 第0レベル: 全く関心がない
 第1レベル: 建物レベルの関心
 第2レベル: 人間レベルの関心
 第3レベル: 魂レベルの関心

 第0レベルの人は、近所に教会があっても、その存在にすら気付かない人で、10年前までの私はまさにそうだった。
 第1レベルの人の分かりやすい例は、教会で結婚式を挙げたがる人たちであろう。教会の雰囲気を好ましいと思ってくれているので、これはこれで感謝なことだ。
 第2レベルの人はクリスチャンとはどのような人間であるかに関心がある人たちであり、クリスチャンであっても、多くの人はこのレベルに留まっているように思う。
 第3レベルの人はイエス・キリストがどのようなお方であるのかを、他人からの情報を通じてではなく、イエス・キリストご自身からの語りかけを通じて、その一部を理解している人たちだ。一部とするのは、全貌を理解するのは一生掛かっても無理だからである。

 イエス・キリストは神であるのに人となった(ピリピ人への手紙2章6-8節)。人としてのイエスは全く弱い人間であった。その弱さから、純粋な人とは本来弱いものであることが分かる。北朝鮮の金正日のような人物であっても、魂に幾重にも厚くまとった武具を取り去れば、まことに弱い魂しか持っていない。敵を愛するとは、その弱い魂の部分を愛し、敵のために祈るとは、ぶ厚い武具を脱ぐように祈ることであろう。

 私も、人の弱い魂のために、もっともっと祈れる者となりたい。

 1年後の今ごろは、何を思っているだろうか。

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