地震報道の不思議2007年07月16日 10時42分

 休日の今日、川崎の自宅でパソコンに向かっていたら10時15分頃、お尻に地震の初期微動のようなものを感じました。次第にはっきりと揺れを感じるようになり、ゆったりと長周期で長い時間、横揺れが続きました。
 初期微動を感じた直後にテレビを付けるとNHKで早くも日本海側に津波注意報が出ていました。最近は素早く報道するようになったと感心しましたが、10時42分現在、NHKでは柏崎・刈羽原発の状況については、一切報道されていません。
 と思っていたら10時46分頃になってやっと、原子炉が自動停止したというニュースが1回だけ流れました。
 このような大地震の場合、原子炉の安全は確保されているかどうかを、まず真っ先に報道すべきではないでしょうか。万一放射能漏れなど起きたら大変で、心配している人も多いと思います。ほとんど報道されないのは、何か隠しているのではないかと、疑いたくなってしまいます。(10時52分)
(追記)
 柏崎・刈羽原発についての第1報はNHKでは遅かったですが、他局ではもっと早く報道したところがあったようです。原発に事故があった場合、地震の直接の被害がなかった地域にも放射能や放射線の被害が及ぶことが考えられるのですから、原発がある地域に地震があった場合には、まず真っ先に原発の状況を報道してもらいたいものだと思いました。
 私は原発廃止論者ではありませんが、こういう大きな地震がある地域に原発があるのは、かなりマズイのではないかと思います。ここの原発ではありませんが、制御棒が抜け落ちる事故について報道されたのは記憶に新しいところです。地震で制御棒の駆動系に異常が生じた場合、核分裂により発生した中性子の吸収が十分にできなくなり、原子炉が暴走する事態が生じる可能性は低いとは言えゼロとは言えないはずです。現に今日は3号機に電力を供給しているらしい変圧器が火災を起こしています。電力が供給できなければ原子炉の制御はできないでしょう。詳しいことは分かりませんが、かなり危険な状態であったとも考えられます。
 国は原子力政策の見直しなどしたくないでしょうが、今回の地震により大幅な見直しが必要になったと言えると思います。(13時20分)
(再追記)
 その後もこの原発については「放射能漏れはない」との情報ぐらいしか報道されていません。変圧器が火災を起こす前に原子炉の核反応が停止していたとしても、原子炉の温度がすぐに下がるわけではありませんから、きちんと冷却していなければ、危険な状態になるはずです。そう考えると変圧器の火災というのは、かなり重大な事故だったように思えてなりません。(20:00)

小さくて大きな映画2007年07月16日 18時42分

 以前から『夕凪の街 桜の国』を見ての感想をネットのレビューサイトに投稿したく思っていましたが、なかなか落ち着いて書ける時間がありませんでした。今週末からの広島先行公開を目前に控え、今日やっとで投稿しました。しかしこの映画の感想を文章にまとめるのは難しく、自分でも満足していません。ああ、もっとうまく書けるようになりたいです。

「小さくて大きな映画」
 この映画の試写を見終わった後、従来の映画の枠を突き抜けて、これまでに見たことがないほどにスケールの大きな映画だと思いました。決して製作費が多くはない小さな映画なのにです。この映画のどこにそんなスケールの大きさを感じさせるものがあるのでしょうか。私は次の3つを挙げようと思います。
 (1)悪の大きさ
 (2)時空間の広がりと連続性
 (3)人と人との心のつながり
 言うまでもなく、原爆という核兵器が実際に使用されたことは人類史上最悪の出来事であり、これ以上に大きな悪は思い浮かびません。原爆資料館の展示を見ると、アメリカが如何に周到かつ冷血に原爆投下を準備したかがよく分かります。原爆の破壊力を知るために目標都市への事前の空襲を禁止していたこと、予告なしの投下を決めたこと、模擬弾を使って数多くの投下練習をしていたこと、原爆と同時に各種の測定機器をパラシュートに付けて投下したことなど、その冷酷さに悪の大きさを感じます。
 この原爆の悪を描いただけでは暗く重い映画になってしまいますが、この映画では(2)と(3)がそれを包み込んでいます。まず舞台が富士山を挟んで広島と東京であること。この2つの街の間の移動手段がバスであることが、空間の広がりを効果的に表しており、悪を薄く広げる役目を果たしていると思いました。そして2枚の写真と髪留めが異なる時間に住む者たちを一つにつなげ、8月6日の出来事が過去の過ぎ去ったことではなく、今とつながっていることを教えてくれます。異なるはずの時代が混然と一つにつながっているところにこの物語の独特の味があり、スケールの大きさを感じさせてくれます。この原作にはない2枚の写真と髪留めが原作の持ち味を一層引き立たせている点にこの映画の見事さがあると思いました。
 そして人と人との心のつながりです。それは家族や職場の人たちとのつながりだけでなく、原爆を落とした人への「原爆を落とした人はわたしを見て『やった!またひとり殺せた』とちゃんと思うてくれとる?」という問い掛けにも強く表れていると思いました。落とした側は人を人とも思わない者たちであるのに対し、落とされた側の者は落とした者をちゃんと人として見ています。ただ憎むのではなく、人を人として見ているところに独特の優しさが感じられます。麻生久美子さんはそれを見事に演じきったと思います。憎むだけでは戦争はなくなりませんが、この優しさに微かな光が感じられます。そして、そんな伯母の心を姪の田中麗奈さんが受け継いで行こうとしているところに希望の光が見えてきます。
 小さな映画なのに巨大な悪を柔らかな希望の光で包み込んでしまう、そんな不思議なスケールの大きさを持つこの映画を私は「小さくて大きな映画」と呼びたいと思います。