『ホテル・ルワンダ』に見る「良きサマリア人」 ― 2006年05月01日 07時59分

帰省先の静岡の映画館で『ホテル・ルワンダ』を見た。この映画は随分と前(たぶん公開当初)からYahoo!ムービーのユーザーレビューの採点で上位にあったので前から見たいと思っていたのだが、劇場で見る映画の優先順位が私の場合 1) 邦画、2) 韓国・アジア映画、3) 洋画 であるため、洋画の本作はついつい後回しになってしまっていた。今回、静岡に帰省していて少し時間があったので、良さそうな映画があったら見に行こうかなと調べたところ、本作を上映中と分かったので、さっそく見に行くことにした。
いい映画だった。いろいろなことを考えさせられた。ちょうどイラク人質事件のことをこのブログで書いていた時なので、よい時に見たと思った。
フツ族とツチ族の争いというのは、外国人の私の目から見れば内輪の争いであり、血が濃いもの同士の争いというのはこんなにも激しい憎しみ合いを伴うものなのかということを再認識させられた。解放されてイラクから帰国した高遠さん達を激しく罵った日本人、イスラムのシーア派とスンニ派の争い、アメリカの南北戦争、朝鮮戦争のことなどが頭を巡った。
ルワンダから遠く離れた外国がこの危険な国に軍隊を派遣することを見送り、ルワンダの人々を見捨てたことも、人間の性として当然のことと思われる。新約聖書に「良きサマリア人」(ルカ10:25-37)という有名な箇所があり、瀕死の旅人を見捨てて避けて通る祭司とレビ人のことが記されている。これが人間の普通の姿だ。それだけに良きサマリア人が実在することに大きな救いを覚える。赤十字のスタッフ、国連軍の大佐、そしてこの映画の主人公であるホテルの支配人。そして今も紛争地域で奮闘している「良きサマリア人」が大勢いるのだろう。
映画館を出て、今の自分が生きている場の何と平和なことかと思った。今現在も命の危険にさらされながら身を粉にして働いている「良きサマリア人」のために祈るとともに、自身も平和のための何らかの行動を続けていかなければと思った。
(ホテル・ルワンダ公式HP)
http://www.hotelrwanda.jp/
『戦場のアリア』 ― 2006年05月03日 23時28分
私が日本映画ではなく、洋画を立て続けに見るのは珍しいことだが、『ホテル・ルワンダ』と同じく戦闘のさ中の人間愛が見られる期待感から恵比寿ガーデンシネマに行って見てきた。
期待に違わず良い映画だった。見に行って本当によかった。前回の『ホテル・ルワンダ』と今回の『戦場のアリア』の2つの映画を通して信仰をまた少し深めることができた気がする。
『ホテル・ルワンダ』では、実話であるという凄惨な大量殺戮を見て「こんなにひどいことが起きるこの世界に神は本当にいらっしゃるのか?」と思わず考えてしまった。しかし、その考えは昨年読んだ『それでも神は実在するのか?』(リー・ストロベル著:いのちのことば社)の第1章「悪や苦難がこの世に存在する以上、『愛の神』は存在しえない」に対する反論の中にある、
「苦悩があるから神は存在しない!と言う人々のほとんどは、安全パットに包まれた快適な環境の中でぬくぬくとしながら、神を否定しているのですよ。その一方で、本当に苦しんでいる人々こそ、その苦しみのゆえに神への信仰をさらに強くしているのです」(p.83)
という一節を思い出すことで、この疑問をふり払うことができた。実際に私は映画館のクッションの利いた心地よい椅子の上でこの映画を鑑賞していたからだ。
さてしかし、この『戦場のアリア』の序盤の激しい戦闘シーンを見て再び同じ疑問が頭をもたげてしまった。しかもこれは第一次世界大戦の、フランス・スコットランド連合軍とドイツ軍との戦いという、キリスト教徒の多い国同士の戦争だ。だがしかし、クリスマス・イブの奇跡により、私の信仰もまた立ち直ることができた。それぞれにクリスマス・イブを祝していた前線の兵士たち同士でクリスマス・キャロルをきっかけに交流が始まったのだ。ついにはスコットランドの従軍司祭により合同礼拝が捧げられることとなった。この場面では、私も同じ兄弟姉妹であることの恵みを感じて感謝であった。英国国教会、カトリック、プロテスタントと教派は違っても、根は同じキリスト教だ。
前線で戦う兵士は、このように同じ天の父の下にある兄弟なのだ。問題は戦争を指揮する側、また宗教を戦争に利用しようとする側にあり、指揮者に命令される側、宗教指導者に鼓舞される側は本来は憎しみあうべき間柄ではなく、愛し合うべき存在なのだということを強く実感することができた。
今日この映画に導かれたことに感謝します。
(『戦場のアリア』HP)
http://www.herald.co.jp/official/aria/
期待に違わず良い映画だった。見に行って本当によかった。前回の『ホテル・ルワンダ』と今回の『戦場のアリア』の2つの映画を通して信仰をまた少し深めることができた気がする。
『ホテル・ルワンダ』では、実話であるという凄惨な大量殺戮を見て「こんなにひどいことが起きるこの世界に神は本当にいらっしゃるのか?」と思わず考えてしまった。しかし、その考えは昨年読んだ『それでも神は実在するのか?』(リー・ストロベル著:いのちのことば社)の第1章「悪や苦難がこの世に存在する以上、『愛の神』は存在しえない」に対する反論の中にある、
「苦悩があるから神は存在しない!と言う人々のほとんどは、安全パットに包まれた快適な環境の中でぬくぬくとしながら、神を否定しているのですよ。その一方で、本当に苦しんでいる人々こそ、その苦しみのゆえに神への信仰をさらに強くしているのです」(p.83)
という一節を思い出すことで、この疑問をふり払うことができた。実際に私は映画館のクッションの利いた心地よい椅子の上でこの映画を鑑賞していたからだ。
さてしかし、この『戦場のアリア』の序盤の激しい戦闘シーンを見て再び同じ疑問が頭をもたげてしまった。しかもこれは第一次世界大戦の、フランス・スコットランド連合軍とドイツ軍との戦いという、キリスト教徒の多い国同士の戦争だ。だがしかし、クリスマス・イブの奇跡により、私の信仰もまた立ち直ることができた。それぞれにクリスマス・イブを祝していた前線の兵士たち同士でクリスマス・キャロルをきっかけに交流が始まったのだ。ついにはスコットランドの従軍司祭により合同礼拝が捧げられることとなった。この場面では、私も同じ兄弟姉妹であることの恵みを感じて感謝であった。英国国教会、カトリック、プロテスタントと教派は違っても、根は同じキリスト教だ。
前線で戦う兵士は、このように同じ天の父の下にある兄弟なのだ。問題は戦争を指揮する側、また宗教を戦争に利用しようとする側にあり、指揮者に命令される側、宗教指導者に鼓舞される側は本来は憎しみあうべき間柄ではなく、愛し合うべき存在なのだということを強く実感することができた。
今日この映画に導かれたことに感謝します。
(『戦場のアリア』HP)
http://www.herald.co.jp/official/aria/
ああ…(絶句) ― 2006年05月06日 05時08分
出る杭があれば打たれるのは世の常で、Yahoo!ムービーで高得点だった『戦場のアリア』にも低い点を付ける者がいて、点がだいぶ下がった。論評なしに最低点の1点を付ける犯罪行為(ベストテンに入るか入らないかは客足に影響するでしょう)は論外として、次のようなユーザーレビューには、精神の砂漠化もついにここまで進んだのかと寒々とした気分になる。
(以下、Yahoo!ムービーからの引用)
なんでこんなに高評価なのか、理解不能
戦場での「ちょっといい話」レベルのストーリーが、延々と2時間続く苦行。
あらすじを読んで、「たったこれだけの話なの?」と思っていたら、ほんとに、たったそれだけの話でした。
絶賛している人は、頭の中で色々とストーリーを補完して、このしょぼい作品を美化しすぎてるだけだと思います。(以上、全文引用)
この投稿者は、サルでもわかる仕様の分かりやすい映画でなければ映画でないと思っているらしく、大人の映画の楽しみ方を全否定している。「たったこれだけの話」に自分の人生経験と背景知識とを加味して頭や心でストーリーを補完するからこそ、見た人の中で映画が大きな広がりを持ち、感動を味わうことができるのではないか。知識も経験もない者には「たったこれだけの話」としか見えなくても、実際には豊かな内容が含まれているものだ。また、たとえ知識・経験が乏しかったとしても心に潤いがあれば、感じるものがあるはずだ。精神の砂漠化は地球の砂漠化と同様に急速に進行中のようである。
他にも「歴史の歪曲」として1点を付けたレビューがあった。この『戦場のアリア』は女性が前線の塹壕に足を踏み入れるなど、確かに「本当かな?」と私も首をかしげてしまう点があるが、監督がジャンヌ・ダルクの国の人であることを考えれば、それもまた良しとできる。ドキュメンタリーではないのだから、史実に完全に忠実である必要はない。
このユーザーレビューは議論の場ではないので、反論をここに書くことにした。誹謗中傷が含まれているかもしれませんね。どうもすみません。
でも最近は大人ですら、子供にも分かる映画をより高く評価する傾向があるようだ。そういう映画も必要かもしれないが、そればかりが受けるのは、虚しい。大人の映画を作る佐々部監督の健闘に期待したい。
青くさい私が大人を気取った文章を書かなければならないほど社会全体が幼児化・砂漠化しているとしたら、まさに「ああ…(絶句)」だ。
(以下、Yahoo!ムービーからの引用)
なんでこんなに高評価なのか、理解不能
戦場での「ちょっといい話」レベルのストーリーが、延々と2時間続く苦行。
あらすじを読んで、「たったこれだけの話なの?」と思っていたら、ほんとに、たったそれだけの話でした。
絶賛している人は、頭の中で色々とストーリーを補完して、このしょぼい作品を美化しすぎてるだけだと思います。(以上、全文引用)
この投稿者は、サルでもわかる仕様の分かりやすい映画でなければ映画でないと思っているらしく、大人の映画の楽しみ方を全否定している。「たったこれだけの話」に自分の人生経験と背景知識とを加味して頭や心でストーリーを補完するからこそ、見た人の中で映画が大きな広がりを持ち、感動を味わうことができるのではないか。知識も経験もない者には「たったこれだけの話」としか見えなくても、実際には豊かな内容が含まれているものだ。また、たとえ知識・経験が乏しかったとしても心に潤いがあれば、感じるものがあるはずだ。精神の砂漠化は地球の砂漠化と同様に急速に進行中のようである。
他にも「歴史の歪曲」として1点を付けたレビューがあった。この『戦場のアリア』は女性が前線の塹壕に足を踏み入れるなど、確かに「本当かな?」と私も首をかしげてしまう点があるが、監督がジャンヌ・ダルクの国の人であることを考えれば、それもまた良しとできる。ドキュメンタリーではないのだから、史実に完全に忠実である必要はない。
このユーザーレビューは議論の場ではないので、反論をここに書くことにした。誹謗中傷が含まれているかもしれませんね。どうもすみません。
でも最近は大人ですら、子供にも分かる映画をより高く評価する傾向があるようだ。そういう映画も必要かもしれないが、そればかりが受けるのは、虚しい。大人の映画を作る佐々部監督の健闘に期待したい。
青くさい私が大人を気取った文章を書かなければならないほど社会全体が幼児化・砂漠化しているとしたら、まさに「ああ…(絶句)」だ。
『祭りの準備』 ― 2006年05月09日 07時13分
「佐々部清監督おすすめシネマ」
http://www.navitown.com/weekly/cinema/dvd/index.html
の中にあった『祭りの準備』を昨晩DVDで見た。
濡れ場が妙に頭に残り、この映画の感想をどうまとめようかと昨晩は考えがまとまらなかったが、一晩たってからこの映画を思い返すと、多彩な登場人物が映画の中でそれぞれに変化していったことが印象に残っている。ヒロポン中毒から正気に戻った女、清楚な女から男を狂おしく求める女へと変化していった女(竹下景子)、こそこそとした逃亡者から大胆に見送る者となった男(原田芳雄)、そして、いつも陰陰滅滅とした表情だったのが、力のある決意に満ちた表情へと変化した主人公(江藤潤)。このように皆が変化していった中で、息子を思う母親(馬渕晴子)の気持ちだけは変わらなかったのが対照的で、哀しさを醸し出し、これもまた余韻として残っている。
最近映画を良く見るようになって、濡れ場や暴力シーンなど、見ているときには強烈なインパクトがあっても、後になって振り返ると、そこに関する記憶は弱められて、他のシーンが逆にあぶり出されて強く心に残るということが良くある。これは製作者が意図してそのように作り込んでいるのだろうか?こんど映画関係者と話をする機会があったら聞いてみたい。
ところで、都会に出てヒロポン中毒になった女のシーンを見て、一昨年亡くなった作家の永井明氏の絶筆となった『ヒロシさんの絵筆』を思い出した。
http://www.asahi.com/column/aic/Wed/medical-bn.html
永井さんは子供の頃、映画館によく通っていて、そこでヒロシさんという映画の看板職人と仲よくなったという。ヒロシさんは東京に出ることを夢見ていて、子供だった永井さんに向かって
「わしゃー、東京に行くけえ」
「東京かいのおー」
「ほおじゃ。こぎゃな田舎におっても、埒ゃあーあかん。わしの絵をわかる人間はおらん。東京の帝劇や日比谷映画の正面に、わしの看板をかけちゃるんよ。『キネマ旬報』や『映画の友』も見よーるが、わしのがぜったい上手に描ける……」
と話していたという。そして実際に東京に出て行き、ヒロポン中毒になってしまったという。
この話は、昨秋、銀座に久保板観さんの『カーテンコール』の絵看板が掛かった時に真っ先に思い出した。
いま『ヒロシさんの絵筆』をインターネット上で読むことはできなくなっているが、私のPCのハードディスクにはしっかり保存されているので、もし掲載許可が取れたら、ここで全文引用してみたい。
http://www.navitown.com/weekly/cinema/dvd/index.html
の中にあった『祭りの準備』を昨晩DVDで見た。
濡れ場が妙に頭に残り、この映画の感想をどうまとめようかと昨晩は考えがまとまらなかったが、一晩たってからこの映画を思い返すと、多彩な登場人物が映画の中でそれぞれに変化していったことが印象に残っている。ヒロポン中毒から正気に戻った女、清楚な女から男を狂おしく求める女へと変化していった女(竹下景子)、こそこそとした逃亡者から大胆に見送る者となった男(原田芳雄)、そして、いつも陰陰滅滅とした表情だったのが、力のある決意に満ちた表情へと変化した主人公(江藤潤)。このように皆が変化していった中で、息子を思う母親(馬渕晴子)の気持ちだけは変わらなかったのが対照的で、哀しさを醸し出し、これもまた余韻として残っている。
最近映画を良く見るようになって、濡れ場や暴力シーンなど、見ているときには強烈なインパクトがあっても、後になって振り返ると、そこに関する記憶は弱められて、他のシーンが逆にあぶり出されて強く心に残るということが良くある。これは製作者が意図してそのように作り込んでいるのだろうか?こんど映画関係者と話をする機会があったら聞いてみたい。
ところで、都会に出てヒロポン中毒になった女のシーンを見て、一昨年亡くなった作家の永井明氏の絶筆となった『ヒロシさんの絵筆』を思い出した。
http://www.asahi.com/column/aic/Wed/medical-bn.html
永井さんは子供の頃、映画館によく通っていて、そこでヒロシさんという映画の看板職人と仲よくなったという。ヒロシさんは東京に出ることを夢見ていて、子供だった永井さんに向かって
「わしゃー、東京に行くけえ」
「東京かいのおー」
「ほおじゃ。こぎゃな田舎におっても、埒ゃあーあかん。わしの絵をわかる人間はおらん。東京の帝劇や日比谷映画の正面に、わしの看板をかけちゃるんよ。『キネマ旬報』や『映画の友』も見よーるが、わしのがぜったい上手に描ける……」
と話していたという。そして実際に東京に出て行き、ヒロポン中毒になってしまったという。
この話は、昨秋、銀座に久保板観さんの『カーテンコール』の絵看板が掛かった時に真っ先に思い出した。
いま『ヒロシさんの絵筆』をインターネット上で読むことはできなくなっているが、私のPCのハードディスクにはしっかり保存されているので、もし掲載許可が取れたら、ここで全文引用してみたい。
明治座六月公演『母に捧げるラストバラード』 ― 2006年05月12日 06時18分

『母に捧げるラストバラード』のチケットが届いた。
明治座は昨年8月の『わかば』以来の観劇となる。
http://skojima.asablo.jp/blog/2006/02/17/257362
今回の注目は佐々部監督の『チルソクの夏』で隣のおばちゃん役、『カーテンコール』で長府駅前の喫茶店のママさん役を演じた松本じゅんさんだ。
あと海援隊のライブも公演の第2部にあるということなので、これもどんなライブになるのか、楽しみだ。
佐々部映画の応援をするようになって映画以外にも加羽沢美濃さんのコンサート、藤原いくろうさんや井上堯之さんのライブに行くなど、楽しみが広がった。今回のチルソクつながりも期待するところ大だ。
松本じゅんさんのご健康と公演の成功をお祈りしています。
福士誠治さん ― 2006年05月13日 06時57分

NHK『純情きらり』の舞台が岡崎から東京に移って、福士さんが出演する場面がぐ~んと増えた。
きょうは午後2時からの『土曜スタジオパーク』(NHK総合)に生出演だそうです。新聞のテレビ欄には、「純情きらりで注目の好青年・福士誠治の素顔」とあります。ホントに好青年ですね。
上の写真の『チルソクの夏』のパンフレットへのサインは、昨年2月の小田原での『チルソクの夏』上映会の時にもらったものです。
(福士誠治さん公式ブログ)
http://seijifukus.exblog.jp/
ジョン・チャヌさんコンサート ― 2006年05月17日 22時55分

4月と5月、ジョン・チャヌさんコンサートの世話役を務めた。どちらも素晴らしいコンサートだった。
このブログでもコンサートの感想を書こうと思っていたのだが、4月の時は書かず、5月のもまだ書けていない。素晴らしいコンサートだったのだが、「素晴らしい」という以外の言葉が出てこないのだ。私の語彙が貧困なせいもあるが、世話役としてあれこれ気を配っていなければならないため、演奏の世界に完全に没入できなかったせいもある。
でも、やはりここで報告したいので、5月のコンサートのアンケートのコメントの一部を掲載させていただいて、報告としたい。来場してくださった皆様、アンケートに回答してくださった方々、本当にどうもありがとうございました。
以下、アンケートのコメントの一部を紹介します。
珠玉の名曲ばかりこころの琴線に触れられたような・・・。特に「イムジン河」には期待していた以上で感動。CD買いました。
アットホームな雰囲気の中で、演奏を聞くことが出来て、しかも質感豊な音に感動いたしました。バイオリンの息づかいが聞こえたような気がします。
高度で素晴らしい演奏 目が覚める思いでした。再度聞きたいバイオリニスト楽しかった。ありがとうございます。
気持ちよかった。開放されて穏やかな時が流れました。ありがとうございました。音色がきれいでピアノととても調和されていました。
演奏者と会場が至近距離で生の迫力がそのまま堪能できる。非常に贅沢な演奏会である。もちろん演奏者は最高である。
演奏もさることながら楽しいお話に人柄がにじみでており、とても感じのいい方でした。楽しいひとときを持つことができました。演奏曲目と短い曲が多いけどいろいろと解説を混じえて曲の紹介をして下さった後の演奏は又違った聞き方ができました。
情感溢れる演奏を聴いて大変心豊な時をすごしました。本当にありがとうございました。また、楽しい曲の解説は、曲創をイメージしてききました。音色も素晴らしく最高でした。
大変に心温まる時間を持てました。感謝いたします。
プロの演奏をすぐ近くで見聴けて、すごく感動しました。まるで歌を歌うように流れ、むせび、感情の起伏が伝わってきました。また、ピアノの方とぴったり合っていて綺麗でした。お話が曲々を一層興味深いものにしてくれました。本当に楽しい一夜でした。ありがとうございました。
素晴らしい演奏の一言につきます。今まで行なったたくさんのソロの中でもトップの内の一つです。
2部で、普段聞けない韓国の曲を聴けたのも良かったです。
どうしても聞きたくて入れなければ帰ればいいと思っていました。来て、本当に良かったです。高音の細い音色が素敵でした。解説してくださったので情景などよくわかりました。国と風土と想意と。
生の音にすっぽり包まれ楽しませていただきました。これこそ音楽だと思い感謝します。
演奏者の大熱演につきます。曲もレパートリーがすばらしかった。
とても幸福な日です。ありがとうございました
演奏が最高にすばらしかったです。トークも楽しくて大変今日は気持ちよく帰宅できました。
『イルマーレ』 ― 2006年05月19日 22時06分

荒川静香のイナバウアーのように後方に反りかえるイ・ジョンジェの後方に見える文字は…。
これは、今週の水曜日の晩にNHK-BS2で放映された韓国映画『イルマーレ』の中の1シーンだ。この映画を初めて見たのは、後に『チルソクの夏』も上映されることとなった渋谷シネパレスでだった。映画の終盤、自分の苗字が一瞬、画面を横切ったような気がした。しかし、確信はなく、気になって仕方がなかった。次に見たとき確認し、「やっぱり!」と思った。
この映画の中に出てくる文字はハングルかアルファベットばかりなのに、この重要なシーンのバックに漢字が現れ、それが自分の苗字とは…。この映画の監督さん(イ・ヒョンスン)は、かなり細部にこだわって、この映画を撮ったらしい。例えば、この映画の舞台の海辺の家もこの映画のために作ったものだが、当初、壁にボルトを打ち込む予定はなかったのが、いまひとつ家に立体感が乏しかったので、いろいろ試行錯誤した挙句に、映画のようなボルトを打ち込んだ家になったらしい。だから、「小島」には意味がないのだろうが、バックに流れる文字が漢字だったということについては、偶然ではなく、監督さんなりのこだわりがあったのではないか、という気がする。
『天上の音楽村』 ― 2006年05月20日 09時56分
連休中に『天上の音楽村』という空想小説を書いてみました。
この場で紹介しようかしまいか、今まで迷っていましたが、せっかく書いたものなので、皆さんに読んでみていただきたいという気持ちのほうが強くなりました。
感想などありましたら、お聞かせいただけるとありがたく思います。
下記URLにアップしてあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~tw4s-kjm/village/tmp/m_village.html
この場で紹介しようかしまいか、今まで迷っていましたが、せっかく書いたものなので、皆さんに読んでみていただきたいという気持ちのほうが強くなりました。
感想などありましたら、お聞かせいただけるとありがたく思います。
下記URLにアップしてあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~tw4s-kjm/village/tmp/m_village.html
ササベ記念日 ― 2006年05月21日 08時12分

あの日、新宿シネマミラノの『チルソクの夏』の楽日に客席の後方に座っていた監督さんを偶然見つけなかったら、『チルソクの夏』も私の中では単に名作の中の一つに過ぎない存在になっていたであろう。しかし、監督さんにサインをいただいたことで、この映画は私の中で特別な存在となった。
お膳立てされた試写会や講演会でサインをもらうのとは異なり、すべてが偶然の中で起こったこの出来事に私は特別なものを感じ、引き込まれていった。
昨日の夕方は東京のチル友が新橋に参集して楽しい時を過ごした。いつもは開始が何時であっても、終電間際まで延々と会が続くが、昨夜は9時からの『チルソクの夏』の放映を自宅で見るため、早めに解散した。
全国のチル友や実家の家族、友人、一般の映画ファンが同じ時間に同じ映像を共に見ていることを感じながらの『チルソクの夏』は格別であった。多くのチル友が同じ思いで見ていたことだろう。春風さんもそのお一人だ。
http://syunnpu-0823.at.webry.info/200605/article_7.html
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