「子供の日」の説教 ― 2009年07月31日 08時37分
明後日の静岡教会での夜の伝道会で、説教の御用があります。
この説教には、神学院での「説教学」の授業で発表した「子供の日」の説教を使おうと思います。
説教学の授業では、入学式、母の日、父の日、敬老の日、クリスマス、新年、・・・、など様々な年中行事のどれかを指定されて、その日にちなんだ説教を神学生が作って発表し、互いに批評し合ったり、先生からのアドバイスをいただいたりしました。
この説教はまだ、このブログに載せていなかったと思うので、かなり季節ハズレ(笑)ですが、アップします。
「子供の日」の説教
聖書箇所:エペソ人への手紙6章10~17節
(この日記の最後に記します)
子供の日というと、私は鯉のぼりと五月人形を思い浮かべます。鯉のぼりは、鯉が滝をのぼって竜になったという伝説から、立身出世の象徴とされています。また、五月人形は、子供が病気や災いから守られるようにという願いを込めて、兜や鎧を飾ります。
男の子が生まれると、比較的お金持ちの家庭では、立派な鎧と兜の五月人形を買って飾り、普通の庶民的な家庭では、兜だけのものを買うのではないかな~と思います。静岡の私の実家では、兜だけのものを飾っていました。実家にある古い写真のアルバムを見ると、私には2つ年上の兄がいますから、まず赤ちゃんの頃の兄とこの兜の五月人形とが一緒に写っている写真があり、その2年後の写真には、2歳の兄と、赤ちゃんの私とが五月人形と一緒に写っている、そういう写真があります。兄も私も、すごくかわいいです。そして、我々二人にカメラを向けている若かった頃の父と母を思うと、本当にほほえましく思います。この実家の五月人形は今でも健在で、母は毎年5月の連休になると飾ってくれていて、私も5月の連休にはよく帰省していましたから、比較的最近まで、私もよく目にしていました。
きょうの説教は、この子供の日の五月人形にちなんで、聖書箇所を選びました。パウロが書いたこの手紙は、非常にスケールの大きな手紙です。あまりにスケールが大きいので、エペソの教会だけでしか読まれないのでは、もったいない気がします。実際、1章1節の「エペソの聖徒たちへ」というところに星印が付いていて下の注を見ると、異本には「エペソの」を欠くとあります。異本とありますが、主要な写本には、だいたい無いようで、従って、エペソの教会だけでなく、小アジヤの地域の複数の教会で回覧してもらうために書かれたのではないかという説が有力なようです。このようにして、この手紙は新約聖書に入る前から、多くの人に読まれていたと思われます。
さて、パウロはこのスケールの大きな手紙のまず1章10節で神様の壮大なご計画を明らかにしています。「いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。」ユダヤ人も異邦人もなく全世界の人が、さらには地上にいる者も天上にいる者も一切の者がキリストにあって一つになるという、ご計画です。「一切の者」とは、それに「ふさわしい者」も「ふさわしくない者」もということではなく、全ての者がふさわしい者になって、ということです。この宇宙に存在する者全てがキリストのようになって一つになるとしたら、なんと素晴らしいことでしょうか。この手紙には、どうしたら、そのようなふさわしい者になれるか、ということが書いてあります。
しかし、悪魔の側からすると、すべての者がキリストのようになってしまったら大変なことですから、当然、それを阻止するための攻撃を執拗に仕掛けてきます。きょうの聖書箇所は、その悪魔の策略に立ち向かうための方策が書いてあります。まず、何よりも大切なことは、10節の
「主にあって、その大能の力によって強められなさい」
ということです。主により頼み、主の強大な力によって強められるなら、悪魔が攻撃を仕掛けて来ても大丈夫です。では、どうやって強めていただくかと言うと、11節、「神のすべての武具を身に着け」ます。いいですか、身に着けます。武具を、どこか蔵に入れて大切に保管するというのではなく、身に着けます。つまり、神様といつも一緒にいるということです。私たちの相手は12節にある「血肉」ではなく、つまり人間ではなく、悪魔です。悪魔は、私たちがキリストにふさわしい者になることを阻止するために絶えず攻撃を仕掛けてきます。ですから、13節の「邪悪な日」というのは、終わりの日というのではなく、私たちに対して絶えず攻撃を仕掛けてくる日常の日々と考えるのが良いと思います。
14節から17節には、武具のうちの防具について書いてあります。「真理の帯」、「正義の胸当て」、「平和の福音の備え」、「信仰の大盾」、どれも興味深い表現で、一つ一つ考えてみると、とても面白いと思いますが、きょうは時間がありませんから、「救いの兜」についてだけ、簡単に述べます。
パウロは第一テサロニケの5章8節でも同じような表現で、「救いの望みを兜としてかぶって」と言っています。防具の中で一番目立つのが兜です。これは、洋の東西を問わないと思います。ですから、五月人形でも兜だけのものはありますが、胸当てだけ、というのはないと思うんですね。目立つ、ということは相手を威嚇したり、相手にアピールする力があるということです。そこに「救い」を持ってきたということに、大きな意味があるのではないでしょうか。「私たちは、もう救われています。無駄な攻撃はやめなさい」と、悪魔に向かって主張しているように、私には思えます。
そして、17節にもう一つある武具は、剣(つるぎ)です。剣は攻撃用の武具です。神の御言葉には悪魔を打ち倒す力があります。「無駄な攻撃はやめなさい」と言っているのに、なお攻めてくる悪魔には、御言葉の剣で倒すことができます。
ここまで、きょうの聖書箇所を早足で見て来ましたが、ここで一つ、皆さんに考えてみていただきたいことがあります。剣を受け取りなさい、などと書いてあると、その剣で力いっぱい戦いなさい、と言われているような気になりませんか?でも、果たして、そうでしょうか。きょう、ここに一本の棒を持ってきました。これが剣(つるぎ)だったとしたら、こんな風にギュッと握りしめて、力一杯戦わなければいけないのでしょうか?そうではないんですね。戦ってくださるのは神様で、私たちは決して力んではいけません。
私は高校時代から剣道を始めて、大学に入学してからも剣道部に入りました。大学の剣道部というところには、どこの大学にもたいてい、「師範」という偉い先生がいて、私がいた大学の剣道部では、1年生の時、北見先生という大先生がおられました。伝説の剣豪だったそうで、戦前には天覧試合、つまり天皇陛下が見ている試合で大活躍したそうです。しかし、当時はもう高齢で体が弱っていて、もう防具を付けることはできず、私たち1年生が師範の北見先生から教わったことは、剣道の構えだけでした。でも、構えだけでも教えていただけたのは、感謝なことだったなあ、と思います。
この構えについては、何度も何度も教えてくださったので、目に焼きついていますが、良い構えというのは、まず単純にこうやって立つ。歩幅はこれくらいです。あとは、こうやって構える。これだけで、いいんです。すごく単純ですが、これが一番いいんですね。初心者に竹刀を持たせて構えてみてもらうと、こんな感じになります。手にも足にも力が入ってしまっています。そうではなくて、単純にこれだけでいいんです。この構えだと相手の攻撃にも対処できるし、自分からも攻撃していくことができます。決して力んではいけません。ただ、稽古の時は力まなくても、試合になると、どうしても力が入ってしまって、試合が始まってから1分ぐらいでヘトヘトになってしまったりします。でも、とにかく基本は、力んではいけない、ということです。
剣道ですと、あまり経験者がいないと思いますので、あとほかに、この棒を使った例えで思いつくのは、ホウキですね。ホウキを使うときも、力んではいけません。ゆったりと持って、地面スレスレの所を軽く掃いていきます。力んでしまうと、地面スレスレの所を動かしていく、微妙な感覚が分かりません。こういう風にホウキを力一杯握りしめて掃くことを、お祈りに当てはめてみたら、どうなるでしょうか。(手をギュッと握りしめて)「カミサマ、オネガイシマス!!!」こんな、力の入った一人よがりの祈りを神様は聞いてくださるでしょうか。
きょうの聖書箇所には含めませんでしたが、次の18節で、パウロは、「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」と言っています。御霊によって祈る、という時に、最も心がけなければいけないのが、精神的に力んではいけないということではないでしょうか。
もう少し分かりやすくするために、今度は祈りを、自転車に乗ることに例えてみたく思います。多くの皆さんは、自転車に乗れるようになるまで、苦労した経験をお持ちではないでしょうか。自転車は上手に乗らないと倒れてしまいます。倒れるような祈りは、御霊による祈りとは言えないでしょう。自転車に乗ってゆっくり走る時、倒れそうになったら、倒れそうな方向にハンドルを切る必要があります。反対側に倒れそうになったら、反対側に切ります。力んで体がこわばっていると、柔軟に対応することができずに、倒れてしまいます。体の余計な力を抜いて初めて自転車に上手に乗れるように、祈る時も、よけいな力を抜かなければいけないと思います。
こうした例えを通して分かることは、精神的な力みと体の力みとは連動しているということです。したがって、どちらかを取り除くだけではダメで、精神的な力みと体の力みの両方を取り除かなければなりません。祈る時には、体の力みも解き放つ必要があります。私が祈っていて、「ああ、いま御霊に満たされているんじゃないかなあ」と思う時は、体が軽くなってフワフワと浮いているような感覚を味わっている時です。それは、体が力んでいる時には決して味わえない感覚です。祈る時には、体の余計な力みも解き放つ必要があります。
体も心も力まずに神様の武具を身に着けて神様と共にいれば、私たちが力まなくても、神様が悪魔と戦ってくださいます。体も心も楽にして、御霊の導きに身をゆだねましょう。
「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神の武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」
(エペソ人への手紙6章10~17節)
この説教には、神学院での「説教学」の授業で発表した「子供の日」の説教を使おうと思います。
説教学の授業では、入学式、母の日、父の日、敬老の日、クリスマス、新年、・・・、など様々な年中行事のどれかを指定されて、その日にちなんだ説教を神学生が作って発表し、互いに批評し合ったり、先生からのアドバイスをいただいたりしました。
この説教はまだ、このブログに載せていなかったと思うので、かなり季節ハズレ(笑)ですが、アップします。
「子供の日」の説教
聖書箇所:エペソ人への手紙6章10~17節
(この日記の最後に記します)
子供の日というと、私は鯉のぼりと五月人形を思い浮かべます。鯉のぼりは、鯉が滝をのぼって竜になったという伝説から、立身出世の象徴とされています。また、五月人形は、子供が病気や災いから守られるようにという願いを込めて、兜や鎧を飾ります。
男の子が生まれると、比較的お金持ちの家庭では、立派な鎧と兜の五月人形を買って飾り、普通の庶民的な家庭では、兜だけのものを買うのではないかな~と思います。静岡の私の実家では、兜だけのものを飾っていました。実家にある古い写真のアルバムを見ると、私には2つ年上の兄がいますから、まず赤ちゃんの頃の兄とこの兜の五月人形とが一緒に写っている写真があり、その2年後の写真には、2歳の兄と、赤ちゃんの私とが五月人形と一緒に写っている、そういう写真があります。兄も私も、すごくかわいいです。そして、我々二人にカメラを向けている若かった頃の父と母を思うと、本当にほほえましく思います。この実家の五月人形は今でも健在で、母は毎年5月の連休になると飾ってくれていて、私も5月の連休にはよく帰省していましたから、比較的最近まで、私もよく目にしていました。
きょうの説教は、この子供の日の五月人形にちなんで、聖書箇所を選びました。パウロが書いたこの手紙は、非常にスケールの大きな手紙です。あまりにスケールが大きいので、エペソの教会だけでしか読まれないのでは、もったいない気がします。実際、1章1節の「エペソの聖徒たちへ」というところに星印が付いていて下の注を見ると、異本には「エペソの」を欠くとあります。異本とありますが、主要な写本には、だいたい無いようで、従って、エペソの教会だけでなく、小アジヤの地域の複数の教会で回覧してもらうために書かれたのではないかという説が有力なようです。このようにして、この手紙は新約聖書に入る前から、多くの人に読まれていたと思われます。
さて、パウロはこのスケールの大きな手紙のまず1章10節で神様の壮大なご計画を明らかにしています。「いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。」ユダヤ人も異邦人もなく全世界の人が、さらには地上にいる者も天上にいる者も一切の者がキリストにあって一つになるという、ご計画です。「一切の者」とは、それに「ふさわしい者」も「ふさわしくない者」もということではなく、全ての者がふさわしい者になって、ということです。この宇宙に存在する者全てがキリストのようになって一つになるとしたら、なんと素晴らしいことでしょうか。この手紙には、どうしたら、そのようなふさわしい者になれるか、ということが書いてあります。
しかし、悪魔の側からすると、すべての者がキリストのようになってしまったら大変なことですから、当然、それを阻止するための攻撃を執拗に仕掛けてきます。きょうの聖書箇所は、その悪魔の策略に立ち向かうための方策が書いてあります。まず、何よりも大切なことは、10節の
「主にあって、その大能の力によって強められなさい」
ということです。主により頼み、主の強大な力によって強められるなら、悪魔が攻撃を仕掛けて来ても大丈夫です。では、どうやって強めていただくかと言うと、11節、「神のすべての武具を身に着け」ます。いいですか、身に着けます。武具を、どこか蔵に入れて大切に保管するというのではなく、身に着けます。つまり、神様といつも一緒にいるということです。私たちの相手は12節にある「血肉」ではなく、つまり人間ではなく、悪魔です。悪魔は、私たちがキリストにふさわしい者になることを阻止するために絶えず攻撃を仕掛けてきます。ですから、13節の「邪悪な日」というのは、終わりの日というのではなく、私たちに対して絶えず攻撃を仕掛けてくる日常の日々と考えるのが良いと思います。
14節から17節には、武具のうちの防具について書いてあります。「真理の帯」、「正義の胸当て」、「平和の福音の備え」、「信仰の大盾」、どれも興味深い表現で、一つ一つ考えてみると、とても面白いと思いますが、きょうは時間がありませんから、「救いの兜」についてだけ、簡単に述べます。
パウロは第一テサロニケの5章8節でも同じような表現で、「救いの望みを兜としてかぶって」と言っています。防具の中で一番目立つのが兜です。これは、洋の東西を問わないと思います。ですから、五月人形でも兜だけのものはありますが、胸当てだけ、というのはないと思うんですね。目立つ、ということは相手を威嚇したり、相手にアピールする力があるということです。そこに「救い」を持ってきたということに、大きな意味があるのではないでしょうか。「私たちは、もう救われています。無駄な攻撃はやめなさい」と、悪魔に向かって主張しているように、私には思えます。
そして、17節にもう一つある武具は、剣(つるぎ)です。剣は攻撃用の武具です。神の御言葉には悪魔を打ち倒す力があります。「無駄な攻撃はやめなさい」と言っているのに、なお攻めてくる悪魔には、御言葉の剣で倒すことができます。
ここまで、きょうの聖書箇所を早足で見て来ましたが、ここで一つ、皆さんに考えてみていただきたいことがあります。剣を受け取りなさい、などと書いてあると、その剣で力いっぱい戦いなさい、と言われているような気になりませんか?でも、果たして、そうでしょうか。きょう、ここに一本の棒を持ってきました。これが剣(つるぎ)だったとしたら、こんな風にギュッと握りしめて、力一杯戦わなければいけないのでしょうか?そうではないんですね。戦ってくださるのは神様で、私たちは決して力んではいけません。
私は高校時代から剣道を始めて、大学に入学してからも剣道部に入りました。大学の剣道部というところには、どこの大学にもたいてい、「師範」という偉い先生がいて、私がいた大学の剣道部では、1年生の時、北見先生という大先生がおられました。伝説の剣豪だったそうで、戦前には天覧試合、つまり天皇陛下が見ている試合で大活躍したそうです。しかし、当時はもう高齢で体が弱っていて、もう防具を付けることはできず、私たち1年生が師範の北見先生から教わったことは、剣道の構えだけでした。でも、構えだけでも教えていただけたのは、感謝なことだったなあ、と思います。
この構えについては、何度も何度も教えてくださったので、目に焼きついていますが、良い構えというのは、まず単純にこうやって立つ。歩幅はこれくらいです。あとは、こうやって構える。これだけで、いいんです。すごく単純ですが、これが一番いいんですね。初心者に竹刀を持たせて構えてみてもらうと、こんな感じになります。手にも足にも力が入ってしまっています。そうではなくて、単純にこれだけでいいんです。この構えだと相手の攻撃にも対処できるし、自分からも攻撃していくことができます。決して力んではいけません。ただ、稽古の時は力まなくても、試合になると、どうしても力が入ってしまって、試合が始まってから1分ぐらいでヘトヘトになってしまったりします。でも、とにかく基本は、力んではいけない、ということです。
剣道ですと、あまり経験者がいないと思いますので、あとほかに、この棒を使った例えで思いつくのは、ホウキですね。ホウキを使うときも、力んではいけません。ゆったりと持って、地面スレスレの所を軽く掃いていきます。力んでしまうと、地面スレスレの所を動かしていく、微妙な感覚が分かりません。こういう風にホウキを力一杯握りしめて掃くことを、お祈りに当てはめてみたら、どうなるでしょうか。(手をギュッと握りしめて)「カミサマ、オネガイシマス!!!」こんな、力の入った一人よがりの祈りを神様は聞いてくださるでしょうか。
きょうの聖書箇所には含めませんでしたが、次の18節で、パウロは、「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」と言っています。御霊によって祈る、という時に、最も心がけなければいけないのが、精神的に力んではいけないということではないでしょうか。
もう少し分かりやすくするために、今度は祈りを、自転車に乗ることに例えてみたく思います。多くの皆さんは、自転車に乗れるようになるまで、苦労した経験をお持ちではないでしょうか。自転車は上手に乗らないと倒れてしまいます。倒れるような祈りは、御霊による祈りとは言えないでしょう。自転車に乗ってゆっくり走る時、倒れそうになったら、倒れそうな方向にハンドルを切る必要があります。反対側に倒れそうになったら、反対側に切ります。力んで体がこわばっていると、柔軟に対応することができずに、倒れてしまいます。体の余計な力を抜いて初めて自転車に上手に乗れるように、祈る時も、よけいな力を抜かなければいけないと思います。
こうした例えを通して分かることは、精神的な力みと体の力みとは連動しているということです。したがって、どちらかを取り除くだけではダメで、精神的な力みと体の力みの両方を取り除かなければなりません。祈る時には、体の力みも解き放つ必要があります。私が祈っていて、「ああ、いま御霊に満たされているんじゃないかなあ」と思う時は、体が軽くなってフワフワと浮いているような感覚を味わっている時です。それは、体が力んでいる時には決して味わえない感覚です。祈る時には、体の余計な力みも解き放つ必要があります。
体も心も力まずに神様の武具を身に着けて神様と共にいれば、私たちが力まなくても、神様が悪魔と戦ってくださいます。体も心も楽にして、御霊の導きに身をゆだねましょう。
「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神の武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」
(エペソ人への手紙6章10~17節)









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