いったいこの子は何になるのでしょう2008年12月14日 08時44分

 クリスマス前の約4週間、キリストの降誕についての思いを深める待降節の期間も半ばを過ぎました。この待降節に入ってから礼拝・祈祷会やその他のいろいろな時に、キリスト生誕の記事が書かれている新約聖書のマタイの福音書1章2章、ルカの福音書1章2章、或いはヨハネの福音書1章(別の表現がされていますが)を開くことが多くなりました。
 神学院での朝の食卓や午前の授業後のチャペルの時間、早天祈祷会や晩祷でも開いていますから、もう既にこの2週間で何度このキリスト生誕の箇所を開いたか分からないほど数多く開きました。
 その中で特に強く心に残ったメッセージがあります。先週の木曜日の授業後のチャペルの時間に矢木先生が示してくださった、ルカの福音書1章66節からのメッセージです。

「(老夫婦のザカリヤとエリサベツがヨハネと名付けられた子を授かったことを)聞いた人々はみな、それを心にとどめて、『いったいこの子は何になるのでしょう』と言った。主の御手が彼とともにあったからである。」(ルカ1:66)

 これはイエス・キリストが生まれる約半年前にバプテスマのヨハネが生まれた時の様子を描いた記事です。矢木先生は、われわれ神学生に向け、母教会の教会員の方々もこのように思ってらっしゃるということを心にしっかりととどめて、この神学院での学びの期間を過ごすようにとおっしゃいました。このメッセージは私の心にズッシリと重みをもって響きました。全くその通りであろうと思ったからです。それは、高津教会で私より1年先にキリスト教の伝道者になる献身を表明した小林兄のことを思ったからです。ある水曜の晩の祈祷会で、確か3月末に彼が会社を辞めた時だったと思いますが、神学院入学に向けての近況と感謝の挨拶を彼がしました。それがとても立派な挨拶だったことに感銘を受けました。失礼ながら、それまでの彼とは随分と違うように思われたからです。それで、帰り際に近くにいたT兄に「小林兄の挨拶、すごく立派でしたね。彼は成長してますね。」と私が言ったところ、T兄は「彼は選ばれた人ですから」と、きっぱりとおっしゃいました。なるほど、彼は「選ばれた人=主の御手が置かれた人」なんだなあ、と私も同感しました。まだ私自身が献身を思う少し前の出来事でした。
 イエス・キリストの福音のメッセンジャーとして選ばれた者とはイエス・キリストが十字架に掛かる前のペテロなどの弟子たちを見ても分かるように、世間的な意味で優れた者というのでは全くありません。主は不思議な方法で私たちを用いますから、私たちが必ずしも適していないのではないかと思うような人も時に用いられます。
 そうして召された私たちのことを母教会の方々は、私たちに主の御手が置かれていると思い、「いったいこの神学生は何になるのでしょう」と思ってらっしゃることを思うと、身の引き締まる思いがし、心してこの神学院での生活を送らなければならないと思わされます。昨日、青葉台駅前のキャロリングの最後で、聴衆の方々がわれわれ聖歌隊と一緒に「きよしこの夜」を歌ってくださいました。そのように神様に祝福されたひと時を過ごせたことを思い返すとき、なお一層、その気持ちが強まります。