我は天の喜び2009年01月04日 19時22分

 あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 キネ旬読者投票は、私は確か(控えるのを忘れました^^)1.三農、馬術部 2.明日への遺言 3.結婚しようよ 4.クライマーズ・ハイ 5.おくりびと、・・・、で出しました。
 さて神学院では、あの縦長の和紙に毛筆で書き初めをして提出しなければなりません。それだけなら、まあ良いのですが、それを写真に撮られて教団の月報に載せられてしまいます。それら神学生の年頭の書を昨年までは一般信徒として見る立場でしたが、今年は見られる立場になっちゃいました。これは相当にマズイです ^^;;
 字は急にうまくなるはずもないので、せめて何を書くかで何とか体裁を繕えないだろうかと思い、あれこれ思いを巡らせた末、標記の「我は天の喜び」という六文字が天から与えられたので、今週中に書くことにします(汗)
 出所はルカの福音書15章8-10節です。主イエス・キリストを信じることで何でこんなに大きな心の平安が得られるのだろうかと思った時、それはただ単に自分にとっての喜びであるだけでなく、実は主ご自身が一番喜んでくださっており、さらには天の御使いたちも一緒になって喜んでくださっている、主を信じた自分の存在が天の大きな喜びとなっているから、自分の喜びもなお一層増幅され、心の平安が得られるのだということに気付かされた、今年の正月でした ^^

「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」
(ルカの福音書 15章8-10節)

劇団巌流第二級 新年会2009年01月12日 16時00分

 10日の土曜日の晩に劇団の東京支部の新年会がありました。私も案内をいただきましたが、修行中の身ですので出席できませんでした。劇団員、プロデューサー、監督、美術監督、…、が勢ぞろいしての、楽しかったその様子をネットで見ると、正直、うらやましくて仕方がありません。しかし、それがうらやましければうらやましいほど、第一コリント15章19節(新約聖書)のパウロの言葉が強く深く身に染みてきます。

「もし、わたしたちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」

 いったいパウロほど歴史上、直接・間接に人類に幅広く幸福の種をまいた人物がいたでしょうか。そのパウロの宣教が実質のないものだったとしたら、私たちは本当に、本当に、本当に、哀れな者です。
 今までもパウロのこの箇所の言葉は非常に重く受け留めていましたが、きょうほど心に強く響いた日は、これまでありませんでした。感謝です。

【コリント人への手紙第一 15章14-20節(抜粋)】
 キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。
 もし、キリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

エキストラ経験をCSに活かす2009年01月17日 22時06分

 神学院では「CS教授法」という授業があります。CSとは教会学校のことで、日曜日には多くの教会で子供向けの教会学校と大人向けの礼拝の両方が持たれています。世の中がおかしくなってきている今、子どもの時から聖書の御言葉を学ばせる教会学校の働きは非常に重要だと思います。
 さて、この「CS教授法」では神学生が交代で模擬授業を2回ずつ行っています。対象は幼稚園生、小学校低学年、小学校高学年、中学生の4つから2つを選ぶことになっています。大雑把に言って、女子の神学生は幼稚園と小学校低学年、男子の神学生は小学校高学年と中学生を選ぶ傾向があります。模擬授業ですから、女子神学生による幼稚園の授業の時は、我々が幼稚園生の役をします(笑)
 教会学校の子供向けには簡単な言葉を使わなければならないので、私は日本語教師の経験が大いに役立っていると感じていますが、それよりももっと役立つと思っているのが、エキストラの経験です。映画の撮影現場は人生の縮図のような所だと思いますから、これから実際に教会学校の授業を担当する場合には、この経験を活かしたく思っています。
 模擬授業の1回目では、私は小学校高学年を対象に、『夕凪の街 桜の国』のラストシーン(電車の中で旭と七波が話すシーン)と原爆の子の像の前で黙祷する小学生の映像を見せて、「平和」がテーマの授業を行いました。御言葉は、マタイ5章9節の「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」です。ちょっと重い授業になってしまいましたが、先生からは「良い授業だった」と評価していただけました v(^^)v この授業で、原爆ドーム前の相生橋上で麗奈さんと中越さんとで写っている写真を皆に見せたことは言うまでもありません ^^
 次の火曜日に私の2回目の模擬授業があります。中学生を対象に、『告知せず』で私が写っているシーンを見せるつもりです ^^ 目立たないよう自然にふるまうというエキストラ道の修行者が極めるべき境地を語りながら(笑)、下記の御言葉を皆で一緒に勉強したく思っています ^^

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。」
(マタイの福音書6章1,2節)

つらら2009年01月26日 15時58分


 神学院は寒いです ^^;

 で、今朝は氷柱ができていました ^^

 北国のつららに比べたら赤ん坊みたいなものですけど。

 はかない命で、二時間後に見た時には跡形もなく消えていました。

出足でつまずいたペテロ2009年01月29日 08時34分

「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。イエスは、そのうちの一つの、シモン(ペテロ)の持ち舟に乗り、陸から漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。」 (ルカの福音書5章1-3節)

 この舟から群衆に向かって教えるイエス様は、映画で言えば、実に絵になるシーンだろうと思います。皆さんが映画監督だったら、このシーンをどのように撮りますか?いくつのカットに割り、どのような構図でカメラに納め、ペテロ役とイエス様役の俳優と群衆役のエキストラには、どのような演技指導を行うでしょうか?たぶん、皆さんは普段そんなことは考えたこともないという方がほとんどだと思います。実は私も同じで、考えたことは一度もありません。でも、きょうは、ちょっと考えてみたいなと思い、考えてみました。
 午前のまだ太陽が高くのぼっていない時間、まず広大な湖をヘリコプター上のやや高い位置から撮り、その高さから岸辺の一点にゆっくりとズームインしていきます。そこでは、まだ岸辺にいるイエス様に群衆が押し迫り、イエス様は波打ち際まで追い込まれてしまっています。そこでイエス様は岸辺にいた漁師のペテロに何か言い、舟を出してもらい、舟から群衆に向かって説教を始めます。ここまでの1カットはヘリコプターからの映像です。次のカットは、イエス様の背後から撮ります。イエス様の背後(カメラを何に据えるかは何か工夫が必要でしょう)から岸辺にいる群衆の全体像をまず撮り、クローズアップしていきます。群衆の最前列の者たちの足は水に浸ってしまっています。そして彼らの顔は食い入るようにイエス様を見つめています。涙を流している者もいます。ここまでが2カット目です。3カット目は、岸辺の群衆の背後に置いたカメラからイエス様の顔をアップで撮ります。慈愛に満ちた表情のイエス様が話しています。そしてカメラは段々ズームアウトしていき、群衆の背中とイエス様とペテロとを同じフレームに納めます。4カット目はまた湖上のカメラからの群衆の映像です。感動にあふれた表情をしています。群衆の後ろの方の者たちは、何とかイエス様の姿を見ようと、伸び上がったりしています。そして5カット目は群衆の側面に置いたカメラからペテロの表情を撮ります。ペテロは呆気にとられた表情で群衆を見ています。櫓を持った手は動いていません。ふと気付くと、舟が動いてイエス様と群衆との位置関係が悪くなってしまっていたので、あわてて櫓をこいで位置を修正します。イエス様はそのような中でも何事もなかったように話を進めていきます。
 と、まあ、こんな感じでいかがでしょうか。ここで私が何を言いたいかというと、ペテロは最初のうちは群衆に気を取られ、また、その後も、ちょっとした波や風で動いてしまう舟の中でイエス様と群衆との位置関係に常に注意していなければならなかったので、イエス様の話をじっくりと聞くどころではなかったのではないかということです。そして、この時のことがペテロの意識にしっかりと刷り込まれ、この刷り込まれた意識が、イエス様が十字架に掛かって死ぬ時までずっとペテロを支配していた、と言ったら言い過ぎでしょうか。
 つまり、こういうことです。感激した面持ちでイエス様を見つめている群衆の表情を真正面から見るという経験は、ペテロにとっては激しく心を揺さぶられる出来事だったはずです。それは単に視覚や聴覚を通じてだけでなく、霊的にも押し迫ってくるものがあったのではないでしょうか。ペテロはそれに圧倒されてしまいました。これがペテロのつまずきの始まりです。ペテロは自分自身の目と心とでイエス様を見る前に、人々に圧倒的に支持されているイエス様を見てしまったのです。ペテロが付き従ったのは、ペテロにとってのイエス様ではなく、人々に支持されている人気スターのイエス様だったのではないでしょうか。だからペテロは、イエス様と人々との関係が常に気になってしまっていたのではないかと私には思えます。
 ある時、ペテロはイエス様に厳しく叱られます。

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)

 これは、イエス様がやがてエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから苦しみを受け、殺されなければならないことを予告した時にペテロが「そんなことが起こるはずがありません」とイエス様に言った時のことです。こんなに民衆に人気のあるイエス様が苦しみを受けて死ぬなど、ペテロには考えられないことだったのです。このようにサタン呼ばわりされるまでに人の方にばかり目がいってしまっているペテロは、結局この叱責からも学ぶことができず、最後はイエスの弟子であることを3度も否定するまでに堕ちてしまいます(ルカ22:55-60)。
 捕らえられたイエス様がどうなるのかを、ペテロが危険を犯してまで見届けたかったのは、ペテロが人間としてのイエス様を愛していたからだ、ということもあったと思いますが、それ以外にも、イエス様が人からどのように裁かれるのか、或いは裁かれないのかということが、やはり気になって仕方がなかったからではないでしょうか。
 十字架上で死に、3日目によみがえった後に弟子たちの前に現れたイエス様はペテロに3度たずねます(ヨハネ21:15-17)。 

「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」

 これは、人間ではなく、神の御子イエス・キリストを愛するか?と聞いているのです。ペテロは3度答えます。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
 神である主は私たちに「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(申命記6:5、ルカ10:27)とおっしゃっています。御子イエスを愛するとは、このように心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして愛さなければならないのです。ペテロはそれを承知で「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えたのでしょうか。もちろん承知の上で、でしょう。なぜなら、「あなたがご存じです。」とペテロは答えたからです。人の心のうちを知ることができるのは、神だけです。ペテロは神の御子である主イエス・キリストを、人の目を通してではなく、自分の目と霊的な心とを通してまっすぐに見て、信じ、愛したのです。あのゲネサレ湖の舟の上でイエス様と民衆との間の関係だけを気にしていたペテロが、様々なところを通り、砕かれ、人の目を通した見方から解放され、主イエス・キリストに自身の全てを捧げることを告白した瞬間です。
 私たちはどうでしょうか。もし御子イエス・キリストに「あなたは私を愛しますか」と聞かれたら、何と答えるでしょうか。「はい。主よ。」と答えることは、できるかもしれません。しかし、「私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」とまで、一点の曇りも無く言い切ることができるでしょうか。私はこれを言い切ったペテロに、曇りのない透き通った信仰を見る思いがします。こういう透き通った信仰を持つ心に聖霊が降り注いだからこそ、ペテロは「使徒の働き」に記されているような数々の尊い働きができたのではないでしょうか。
 聖霊は私たちにも降り注いでくださいます。しかし、イエス様とまっすぐに向き合わずに、人のことを気にしているような曇った心を持っていたのでは、聖霊の恵みを受け取ることができないのではないでしょうか。私たちもペテロのように「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と、一点の曇りもなく言い切ることができるお互いであれたらと思います。