究極のインマヌエル2008年12月02日 21時45分

 クリスマスが近づいてきました。
 神学院男子寮での今夜の晩祷で、兄弟たちと共に、このクリスマスの時期にふさわしいルカ2章のシメオンの箇所から「究極のインマヌエル」についてのイメージを共有する恵みを神様からいただきました。このブログを訪れた方とも、神であるイエス様が私たちを救うために人の子としてこの世に生まれてくださった恵みを共有できたらと思い、アップさせていただきます。

「私たちにとってのシメオン ~究極のインマヌエル~」

聖書箇所:ルカの福音書2章25-35節

 きょうの聖書箇所はシメオンについての箇所です。きょうは「私たちにとってのシメオン」ということについて考えてみたく思います。どういうことかと言いますと、2000年前におけるマリヤとヨセフにとってのシメオンということでなく、我々に関係していることを考えてみたいということです。われわれ後世の者に関係しているということは、「シメオンの歴史的役割」について考えてみるとも言えると思います。どうして、こういうことを考えてみようかと思ったかと言うと、先週の金曜日にチャペルで従彦先生が話してくださった創世記37章15節に出てくる、ヨセフが兄たちの様子を見にシェケムに行った時に出会った「ある人」 のことが私の心の中にずっと留まっていたからです。
 もしヨセフがこの「ある人」に出会わなかったなら、ヨセフは兄たちを探しにドタンに行くこともなく、父のヤコブの元に戻っていたかもしれない。そうするとヨセフがエジプトに連れて行かれることもなく、従って出エジプトもなかったことになる、というお話でした。そういうことになると、イスラエルの歴史、ひいては世界の歴史は今とは大きく変わったものになっていたということで、そこに我々は神様の摂理の不思議さを思うわけですが、この創世記の無名の人物にこんなに大きな役割が与えられていたのですから、「シメオン」という名前入りでルカがわざわざ記したこの人物にも、きっと大きな歴史的な役割が与えられていたに違いないと思ったわけです。
 そう思った根拠の一つは、「放蕩息子の帰郷」を17世紀に描いたオランダの画家レンブラントが、このシメオンの絵も残しているからです。このレンブラントによるシメオンの絵は、ヘンリ・ナウエンの『放蕩息子の帰郷』のp.38でも見られますから、見たことがある方も多いと思います。レンブラントがシメオンの絵を残したということは、シメオンに強く引かれるものをレンブラントが感じたということです。今夜はこのシメオンについて思いを巡らしていきたく思います。
 私は、この1週間ほど、ずっと、このシメオンについて思いを巡らしてきました。はじめは、活字に書いてあること以上に、なかなか思いが広がっていきませんでした。そこで、シメオンの気持ちに近づけるよう、自分が幼な子のイエス様を抱いている様子を思い描きながら、それは一体どういう心持ちなのかということを、何日間か思いを巡らしてきました。
 バプテスマのヨハネはイエス様と自分とを比較して、「私などは、その方のくつのひもを解く値打ちもありません」(ルカ3:16)と言いました。また、百人隊長は、「主よ、わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」(ルカ7:6)と言いました。イエス様とは、それほどまでに貴いお方なのです。そのイエス様を自分の腕の中に抱きかかえることができる恵みとは一体どれほどのものでしょうか。シメオンになったつもりで、そのようなことに思いを巡らせているうち、私は、実はシメオンは、イエス・キリストを信じる私たち自身なのだということを思うようになりました。
 普通、生まれて間もない赤ちゃんを抱くことができるのは、両親と身内の者に限られるでしょう。私たちは、マリヤとヨセフにはなれません。母親と父親は一名ずついれば良いのです。神様はマリヤとヨセフをお選びになりましたから、それ以外の者は母親と父親にはなれません。また、身内の者にもなれません。しかし、シメオンにはなれます。シメオンはイエス様の母親でも父親でも兄弟でも、親族でもありませんでした。それでも、イエス様を自分の腕の中に抱くという、特別の恵みを授かりました。イエス様が自分の腕の中にいるということは、言わば究極のインマヌエル(神は私たちとともにおられるという意味)です。神様が私たちとともにおられるということを、自分自身がしっかりと認識し、その意識を持ち続け、決して手離さない。肉としての幼な子を手離す時は、私たちがこの世を去る時です。その子をきちんと親に戻せば私たちは神の国に入ることができ、その子を放棄して親元ではないところに置いてきてしまえば、神の国に入ることはできません。
 この、シメオンはイエス・キリストを信じる私たち自身であるということを、もう少し丁寧に見ていきましょう。ウエスレーの神学などは、私はまだ勉強を始めたばかりですので難しい教理的なことはよく分かりませんが、メソジストとして生きていくということは、神である幼な子を抱いているということを意識しながら抱き続けることと、まさにピッタリと重なるのではないかという思いが強くしています。分かりやすい例え話をすると、「たばこを吸うな」ということは、赤ちゃんを抱きながら、たばこを吸うなということです。たまにそういう親を見かけますが、赤ちゃんの健康を考えると、とんでもないことです。「酒に酔うな」ということは、酔って赤ちゃんを抱くなということです。酔うと赤ちゃんを落としてしまったり、優しく抱くことができなくなり、乱暴に扱ってしまうということです。また、大酒を飲むと吐く息に多量のアルコールが含まれるようになりますから、これも赤ちゃんの健康には良くないでしょう。これらの例はあまり聖書的でないと、お感じになったかもしれませんが、話を分かりやすくするためにしただけですので、ご容赦ください。以下、聖書に沿ってもう少し詳しく見ていきます。
 ここでは、私たちがシメオンになることができる条件を3つに分けて考えていきたく思います。3つとは、
(1)救い主であられるイエス様の存在を信じるということ。
(2)幼な子を抱いているという自覚を持ち続けるということ。
(3)幼な子をきちんと両親にお返しするということ。
です。
 まず(1)として、救い主であるイエス様の存在を信じるということですが、きょうの箇所のルカ2章25節に、「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。」と、あります。シメオンはイエス様をまだ見たことがありませんでしたが、イエス様の存在を信じたので、神に義と認められ(ガラテヤ2:16)、それゆえ25節の続き「聖霊が彼の上にとどまっておられた」ということです。シメオンは私たち自身ですが、誰でもシメオンになれるのではなく、まずイエス・キリストを信じる信仰がなければイエス様がそこにおられても、その存在に気付くことはできず、自分の腕に抱くことはできません。
 イエス様を信じれば誰でも幼な子のイエス様を自分の腕に抱くという大きな恵みを授かることができるのだと私は思います。教会に集っている皆さんの大半はイエス様を信じていますから、この素晴らしい恵みは教会の多くの皆さんが授かっています。
 では、(2)の「幼な子を抱いているという自覚を持ち続ける」ことはどうでしょうか。これは一見とても難しいことのように思われます。しかし、神様が私たちと共にいてくださるということを、ただ文字通り神様が近くにいてくださるととらえるか、自分が幼な子のイエスを自分の腕で抱いているととらえるかでは、随分と違うはずです。自分で抱いていると考えると、聖めということに、より意識的に、より自発的に取り組めるのではないでしょうか。
 幼な子のイエス様を抱き続けるということは、天の父なる神様の御子であられるイエス様を抱くにふさわしい者であり続けるということです。イエス様を抱いたままで人と争ったり、人を激しくののしったり、陰口を叩いたりすることは、神を畏れぬふるまいと言えるでしょう。もし自分にそういう傾向があるなら、改善していかなければなりません。ここから聖めが始まります。これがウエスレーが説くところの「新生から聖化へ」ということではないかと思います。イエス様を信じて救われた時点では不完全であっても構わない、むしろ不完全であることが当たり前なのですが、そこから出発して完全への道のりをたどり始めなければなりません。それを、自分の腕の中にいるイエス様が助けてくださいます。このように、幼な子のイエス様を腕に抱いていることで自制心が働き、聖化の道を進んでいくことができます。では、ちょっと脇道にそれたくなった時は、どうしたらよいでしょうか。道端にイエス様をちょっとだけのつもりで置き去りにして、しばらくの間だけ放蕩息子を楽しみますか?そうして放蕩して戻ってきた時、そこにまだ幼な子のイエス様が何事もなかったように、いてくだされば良いですが、そのようなことはないでしょうね。
 幼な子のイエス様を見放す罪をおかすことは、同時に神様からも見放されるということです。そのようにならないためには、私たちはこの世を去る時まで幼な子のイエス様を抱き続けていなければなりません。そして、この世を去る時に幼な子のイエス様をきちんと両親にお返しします。そうすることで私たちは神の国に入ることができます。
 シメオンは、26節、「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げをうけていた」とあり、27節、彼が御霊に感じて宮に入ると、幼な子イエスを連れた両親が入ってき、28節、シメオンは幼な子を腕に抱き、29節、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばとおり、安らかに去らせてくださいます。」と言いましたから、イエス様を両親の手に戻して間もなく天に召されたことと思います。私たちは、私たちが天に召される時が来るまで、私たちの腕の中にイエス様を抱き続けることになります。
 天に召されて神の国に入れば、私たちは意識しなくても神様が私たちと共におられることを実感できることでしょう。しかし、この世にあっては、それは容易なことではありません。でも、私たちがシメオンのようにイエス様を自分の腕の中に抱くことを想像する時、究極のインマヌエルとして神様が共にいてくださることを感じることができるのです。そのようにしてイエス様を腕の中で抱き続けることで、私たちはシメオンのように、正しく、敬虔な信仰生活を送ることができます。

 きょうは、マリヤとヨセフにとってのシメオンではなく、私たちにとってのシメオンについて考えてみました。言わばシメオンの歴史的役割です。シメオンという人物がいたお陰で、私たちは私たち自身の腕の中に幼な子のイエス様を抱くイメージを描くことができます。このイメージを描くことで、教理的には分かりにくい「新生から聖化へ」というプロセスを、イメージとして分かりやすく、とらえることができます。
 ぜひ皆さんも心を静めて、イエス様を自分の腕の中に抱くイメージを膨らませてみてください。イエス様がいつも自分の腕の中にいる時、どのような信仰生活を送っていったらよいか、自ずと思い浮かべることができるようになるのではないでしょうか。