HOTほっとTOKYU 12月号2008年12月01日 19時04分



 いま東急線各駅に、この縦長のリーフレットがたくさん置いてあります。その裏表紙のイベント情報欄に、我々が合唱する「青葉台教会 合同キャロリング」の案内が出ていました。これってスゴイことです。なぜスゴイと思うかと言うと、私は『チルソクの夏』上映会&佐々部監督講演会の時には、案内のチラシを置いてもらうのに、かなりの数の場所へ足を運び、頼んで回ったことがあるからです。それが、こちらは東急線の各駅のラックに束になって置いてあるんですよ。きょう行った東急病院にも山積みになっていました。人がどれくらい集まるかは別にして、とても感謝なことです。
 きのうも簡単にご案内しましたが、ご都合がよろしければ、是非お越しください。

 ■日程 12月13日(土)16:30~(1時間)観覧無料
 ■場所 青葉台東急スクエアSouth-1 本館1F
     スターバックス前(青葉台駅 徒歩1分)



究極のインマヌエル2008年12月02日 21時45分

 クリスマスが近づいてきました。
 神学院男子寮での今夜の晩祷で、兄弟たちと共に、このクリスマスの時期にふさわしいルカ2章のシメオンの箇所から「究極のインマヌエル」についてのイメージを共有する恵みを神様からいただきました。このブログを訪れた方とも、神であるイエス様が私たちを救うために人の子としてこの世に生まれてくださった恵みを共有できたらと思い、アップさせていただきます。

「私たちにとってのシメオン ~究極のインマヌエル~」

聖書箇所:ルカの福音書2章25-35節

 きょうの聖書箇所はシメオンについての箇所です。きょうは「私たちにとってのシメオン」ということについて考えてみたく思います。どういうことかと言いますと、2000年前におけるマリヤとヨセフにとってのシメオンということでなく、我々に関係していることを考えてみたいということです。われわれ後世の者に関係しているということは、「シメオンの歴史的役割」について考えてみるとも言えると思います。どうして、こういうことを考えてみようかと思ったかと言うと、先週の金曜日にチャペルで従彦先生が話してくださった創世記37章15節に出てくる、ヨセフが兄たちの様子を見にシェケムに行った時に出会った「ある人」 のことが私の心の中にずっと留まっていたからです。
 もしヨセフがこの「ある人」に出会わなかったなら、ヨセフは兄たちを探しにドタンに行くこともなく、父のヤコブの元に戻っていたかもしれない。そうするとヨセフがエジプトに連れて行かれることもなく、従って出エジプトもなかったことになる、というお話でした。そういうことになると、イスラエルの歴史、ひいては世界の歴史は今とは大きく変わったものになっていたということで、そこに我々は神様の摂理の不思議さを思うわけですが、この創世記の無名の人物にこんなに大きな役割が与えられていたのですから、「シメオン」という名前入りでルカがわざわざ記したこの人物にも、きっと大きな歴史的な役割が与えられていたに違いないと思ったわけです。
 そう思った根拠の一つは、「放蕩息子の帰郷」を17世紀に描いたオランダの画家レンブラントが、このシメオンの絵も残しているからです。このレンブラントによるシメオンの絵は、ヘンリ・ナウエンの『放蕩息子の帰郷』のp.38でも見られますから、見たことがある方も多いと思います。レンブラントがシメオンの絵を残したということは、シメオンに強く引かれるものをレンブラントが感じたということです。今夜はこのシメオンについて思いを巡らしていきたく思います。
 私は、この1週間ほど、ずっと、このシメオンについて思いを巡らしてきました。はじめは、活字に書いてあること以上に、なかなか思いが広がっていきませんでした。そこで、シメオンの気持ちに近づけるよう、自分が幼な子のイエス様を抱いている様子を思い描きながら、それは一体どういう心持ちなのかということを、何日間か思いを巡らしてきました。
 バプテスマのヨハネはイエス様と自分とを比較して、「私などは、その方のくつのひもを解く値打ちもありません」(ルカ3:16)と言いました。また、百人隊長は、「主よ、わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」(ルカ7:6)と言いました。イエス様とは、それほどまでに貴いお方なのです。そのイエス様を自分の腕の中に抱きかかえることができる恵みとは一体どれほどのものでしょうか。シメオンになったつもりで、そのようなことに思いを巡らせているうち、私は、実はシメオンは、イエス・キリストを信じる私たち自身なのだということを思うようになりました。
 普通、生まれて間もない赤ちゃんを抱くことができるのは、両親と身内の者に限られるでしょう。私たちは、マリヤとヨセフにはなれません。母親と父親は一名ずついれば良いのです。神様はマリヤとヨセフをお選びになりましたから、それ以外の者は母親と父親にはなれません。また、身内の者にもなれません。しかし、シメオンにはなれます。シメオンはイエス様の母親でも父親でも兄弟でも、親族でもありませんでした。それでも、イエス様を自分の腕の中に抱くという、特別の恵みを授かりました。イエス様が自分の腕の中にいるということは、言わば究極のインマヌエル(神は私たちとともにおられるという意味)です。神様が私たちとともにおられるということを、自分自身がしっかりと認識し、その意識を持ち続け、決して手離さない。肉としての幼な子を手離す時は、私たちがこの世を去る時です。その子をきちんと親に戻せば私たちは神の国に入ることができ、その子を放棄して親元ではないところに置いてきてしまえば、神の国に入ることはできません。
 この、シメオンはイエス・キリストを信じる私たち自身であるということを、もう少し丁寧に見ていきましょう。ウエスレーの神学などは、私はまだ勉強を始めたばかりですので難しい教理的なことはよく分かりませんが、メソジストとして生きていくということは、神である幼な子を抱いているということを意識しながら抱き続けることと、まさにピッタリと重なるのではないかという思いが強くしています。分かりやすい例え話をすると、「たばこを吸うな」ということは、赤ちゃんを抱きながら、たばこを吸うなということです。たまにそういう親を見かけますが、赤ちゃんの健康を考えると、とんでもないことです。「酒に酔うな」ということは、酔って赤ちゃんを抱くなということです。酔うと赤ちゃんを落としてしまったり、優しく抱くことができなくなり、乱暴に扱ってしまうということです。また、大酒を飲むと吐く息に多量のアルコールが含まれるようになりますから、これも赤ちゃんの健康には良くないでしょう。これらの例はあまり聖書的でないと、お感じになったかもしれませんが、話を分かりやすくするためにしただけですので、ご容赦ください。以下、聖書に沿ってもう少し詳しく見ていきます。
 ここでは、私たちがシメオンになることができる条件を3つに分けて考えていきたく思います。3つとは、
(1)救い主であられるイエス様の存在を信じるということ。
(2)幼な子を抱いているという自覚を持ち続けるということ。
(3)幼な子をきちんと両親にお返しするということ。
です。
 まず(1)として、救い主であるイエス様の存在を信じるということですが、きょうの箇所のルカ2章25節に、「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。」と、あります。シメオンはイエス様をまだ見たことがありませんでしたが、イエス様の存在を信じたので、神に義と認められ(ガラテヤ2:16)、それゆえ25節の続き「聖霊が彼の上にとどまっておられた」ということです。シメオンは私たち自身ですが、誰でもシメオンになれるのではなく、まずイエス・キリストを信じる信仰がなければイエス様がそこにおられても、その存在に気付くことはできず、自分の腕に抱くことはできません。
 イエス様を信じれば誰でも幼な子のイエス様を自分の腕に抱くという大きな恵みを授かることができるのだと私は思います。教会に集っている皆さんの大半はイエス様を信じていますから、この素晴らしい恵みは教会の多くの皆さんが授かっています。
 では、(2)の「幼な子を抱いているという自覚を持ち続ける」ことはどうでしょうか。これは一見とても難しいことのように思われます。しかし、神様が私たちと共にいてくださるということを、ただ文字通り神様が近くにいてくださるととらえるか、自分が幼な子のイエスを自分の腕で抱いているととらえるかでは、随分と違うはずです。自分で抱いていると考えると、聖めということに、より意識的に、より自発的に取り組めるのではないでしょうか。
 幼な子のイエス様を抱き続けるということは、天の父なる神様の御子であられるイエス様を抱くにふさわしい者であり続けるということです。イエス様を抱いたままで人と争ったり、人を激しくののしったり、陰口を叩いたりすることは、神を畏れぬふるまいと言えるでしょう。もし自分にそういう傾向があるなら、改善していかなければなりません。ここから聖めが始まります。これがウエスレーが説くところの「新生から聖化へ」ということではないかと思います。イエス様を信じて救われた時点では不完全であっても構わない、むしろ不完全であることが当たり前なのですが、そこから出発して完全への道のりをたどり始めなければなりません。それを、自分の腕の中にいるイエス様が助けてくださいます。このように、幼な子のイエス様を腕に抱いていることで自制心が働き、聖化の道を進んでいくことができます。では、ちょっと脇道にそれたくなった時は、どうしたらよいでしょうか。道端にイエス様をちょっとだけのつもりで置き去りにして、しばらくの間だけ放蕩息子を楽しみますか?そうして放蕩して戻ってきた時、そこにまだ幼な子のイエス様が何事もなかったように、いてくだされば良いですが、そのようなことはないでしょうね。
 幼な子のイエス様を見放す罪をおかすことは、同時に神様からも見放されるということです。そのようにならないためには、私たちはこの世を去る時まで幼な子のイエス様を抱き続けていなければなりません。そして、この世を去る時に幼な子のイエス様をきちんと両親にお返しします。そうすることで私たちは神の国に入ることができます。
 シメオンは、26節、「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げをうけていた」とあり、27節、彼が御霊に感じて宮に入ると、幼な子イエスを連れた両親が入ってき、28節、シメオンは幼な子を腕に抱き、29節、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばとおり、安らかに去らせてくださいます。」と言いましたから、イエス様を両親の手に戻して間もなく天に召されたことと思います。私たちは、私たちが天に召される時が来るまで、私たちの腕の中にイエス様を抱き続けることになります。
 天に召されて神の国に入れば、私たちは意識しなくても神様が私たちと共におられることを実感できることでしょう。しかし、この世にあっては、それは容易なことではありません。でも、私たちがシメオンのようにイエス様を自分の腕の中に抱くことを想像する時、究極のインマヌエルとして神様が共にいてくださることを感じることができるのです。そのようにしてイエス様を腕の中で抱き続けることで、私たちはシメオンのように、正しく、敬虔な信仰生活を送ることができます。

 きょうは、マリヤとヨセフにとってのシメオンではなく、私たちにとってのシメオンについて考えてみました。言わばシメオンの歴史的役割です。シメオンという人物がいたお陰で、私たちは私たち自身の腕の中に幼な子のイエス様を抱くイメージを描くことができます。このイメージを描くことで、教理的には分かりにくい「新生から聖化へ」というプロセスを、イメージとして分かりやすく、とらえることができます。
 ぜひ皆さんも心を静めて、イエス様を自分の腕の中に抱くイメージを膨らませてみてください。イエス様がいつも自分の腕の中にいる時、どのような信仰生活を送っていったらよいか、自ずと思い浮かべることができるようになるのではないでしょうか。

満月と十字架2008年12月12日 22時39分


 今夜は満月みたいです。
 夕方の5時過ぎから6時ごろまで、ウエスレー・チャペルの十字架の左側をゆっくりと昇っていくのを、しばらく眺めていました。
 ずーっと忙しかったのですが、今日で今年の授業が終わり、少しホッとしています。おかげで、ゆったりした気分で1時間近く月見を楽しむことができました。
 1時間近くもずっと十字架の左側を昇る月を眺めていたのは、十字架の照明が点くのが5時半だと思っていたのに、実際は6時だったからですが ^^;
 明日は、午後4時半から青葉台駅前でキャロリングがあります。

いったいこの子は何になるのでしょう2008年12月14日 08時44分

 クリスマス前の約4週間、キリストの降誕についての思いを深める待降節の期間も半ばを過ぎました。この待降節に入ってから礼拝・祈祷会やその他のいろいろな時に、キリスト生誕の記事が書かれている新約聖書のマタイの福音書1章2章、ルカの福音書1章2章、或いはヨハネの福音書1章(別の表現がされていますが)を開くことが多くなりました。
 神学院での朝の食卓や午前の授業後のチャペルの時間、早天祈祷会や晩祷でも開いていますから、もう既にこの2週間で何度このキリスト生誕の箇所を開いたか分からないほど数多く開きました。
 その中で特に強く心に残ったメッセージがあります。先週の木曜日の授業後のチャペルの時間に矢木先生が示してくださった、ルカの福音書1章66節からのメッセージです。

「(老夫婦のザカリヤとエリサベツがヨハネと名付けられた子を授かったことを)聞いた人々はみな、それを心にとどめて、『いったいこの子は何になるのでしょう』と言った。主の御手が彼とともにあったからである。」(ルカ1:66)

 これはイエス・キリストが生まれる約半年前にバプテスマのヨハネが生まれた時の様子を描いた記事です。矢木先生は、われわれ神学生に向け、母教会の教会員の方々もこのように思ってらっしゃるということを心にしっかりととどめて、この神学院での学びの期間を過ごすようにとおっしゃいました。このメッセージは私の心にズッシリと重みをもって響きました。全くその通りであろうと思ったからです。それは、高津教会で私より1年先にキリスト教の伝道者になる献身を表明した小林兄のことを思ったからです。ある水曜の晩の祈祷会で、確か3月末に彼が会社を辞めた時だったと思いますが、神学院入学に向けての近況と感謝の挨拶を彼がしました。それがとても立派な挨拶だったことに感銘を受けました。失礼ながら、それまでの彼とは随分と違うように思われたからです。それで、帰り際に近くにいたT兄に「小林兄の挨拶、すごく立派でしたね。彼は成長してますね。」と私が言ったところ、T兄は「彼は選ばれた人ですから」と、きっぱりとおっしゃいました。なるほど、彼は「選ばれた人=主の御手が置かれた人」なんだなあ、と私も同感しました。まだ私自身が献身を思う少し前の出来事でした。
 イエス・キリストの福音のメッセンジャーとして選ばれた者とはイエス・キリストが十字架に掛かる前のペテロなどの弟子たちを見ても分かるように、世間的な意味で優れた者というのでは全くありません。主は不思議な方法で私たちを用いますから、私たちが必ずしも適していないのではないかと思うような人も時に用いられます。
 そうして召された私たちのことを母教会の方々は、私たちに主の御手が置かれていると思い、「いったいこの神学生は何になるのでしょう」と思ってらっしゃることを思うと、身の引き締まる思いがし、心してこの神学院での生活を送らなければならないと思わされます。昨日、青葉台駅前のキャロリングの最後で、聴衆の方々がわれわれ聖歌隊と一緒に「きよしこの夜」を歌ってくださいました。そのように神様に祝福されたひと時を過ごせたことを思い返すとき、なお一層、その気持ちが強まります。

奇跡の夜2008年12月22日 21時31分

 明日の23日の晩は午後7時から聖宣神学院教会で「クリスマスの夕べ」というイベントが行われます。
 子どものキャロル、トーンチャイムの演奏などが行われた後、聖歌隊による「奇跡の夜」というカンタータの合唱があります。約20分の大作で、教会では9月から練習が行われていました。私もテノールのパートを歌います。さきほど、最後の練習が終わりました。
 歌詞もメロディーも、恵みに満ちた素晴らしいものですので、出だしの部分だけ歌詞を下に書いてみます。この出だしの部分は最後にも歌われてフィナーレとなります。

 素晴らしい夜 奇跡の夜 空は星に満ち
 長く待たれた主の誕生に御使いたちが歌う

 古い昔の預言者たちの言葉が完全に成就された
 喜びあふれる天使の歌 
 星は博士たちを導いて行く

 素晴らしい夜 奇跡の夜 憂いは消え去り
 素晴らしい夜 奇跡の夜 恵みに満ちた神の夜
 祝福あふれた夜

「クリスマスの夕べ」のご案内2008年12月23日 06時00分

 当日のご案内になってしまいましたが、もし今夜、
お時間が空いていましたら、是非お越しください。
入場無料です。
 田園都市線・藤が丘駅とJR横浜線・十日市場駅
とのワゴン車による送迎も行っております。

日時:12月23日(火・祝)19:00~20:30(会場:18:15)
場所:インマヌエル聖宣神学院教会(駐車場あり)
住所:横浜市緑区西八朔町1194-1
   (横浜商科大学とユーランド緑(入浴施設)の間)
http://www.bt-church.com

【クリスマスの夕べ プログラム】
・子どもたちによるキャロル
・トーン・チャイムによるキャロル
・ショート・メッセージ
・聖歌隊によるキャロル(カンタータ「奇跡の夜」)約20分
 ↑私はこれに出ます
・キャンドル・ライト・サービス
・「ハレルヤ」合唱
・感謝の祈り

以上