早天祈祷会メッセージ原稿2008年08月06日 00時39分

 静岡教会の集会に出席するようになってから、一ヶ月がたちました。
 7月の間はただ座って聞いているだけでよかったですが、8月からはいろいろとご奉仕する機会をいただいています。
 まず手始めは、8月6日の早天祈祷会(朝6:30~)の当番です。ここで15分ほどのメッセージを語る時間をいただきました。8月6日と言えば広島に原爆が投下された日であり、私の名を刻んだ一粒のタイルが原爆資料館にあることや、映画『夕凪の街 桜の日』のことなどで私が格別にこだわりを持っている日です。私が予め希望を伝えたわけでもないのに、8月6日の早朝に最初のご奉仕の機会をいただいたことは偶然ではなく、神様の働きがあってのことと思います。ですから、この日のメッセージは当然、広島のことを語らせていただくことにしました。
 メッセージの準備ができましたので、ここを訪れる方にも読んでみていただけたらと思います。よろしくお願いいたします。

 本日(8月6日)の聖書箇所
 マタイの福音書26章36-46節

 きょう8月6日は63年前にアメリカが広島に原子爆弾を投下した日です。
 私はこの原爆投下という行為は人類史上最悪の行為の一つと言って間違いないと思います。私はこれまでに何度も広島の平和公園に行き、平和の祈りを捧げてきました。なぜそんなに広島に何回も行ったかは8月24日の礼拝でお証ししたく思いますので、ここでは省略しますが、特にここ2年は数多く足を運び、一昨年の8月15日の終戦の日と昨年の8月6日の広島の原爆の日は一日の大半をこの平和公園の中で過ごし、「私を平和のために用いてください」という祈りを長く捧げました。当時は献身のことは全く考えていませんでしたが、今は、この「私を平和のために用いてください」という祈りが応えられた結果、献身することになったのだと思っています。そして、きょう、静岡教会で初めて集会の当番を担当させていただく日が8月6日となったのも、偶然ではなく神様の働きと思い、感謝しています。きょうのこの日にふさわしい聖書箇所はどこだろうかと考える過程で、聖書の記述と原爆投下とを関連付けて考える機会を持つことができたことは感謝なことでした。
 さて、きょうのメッセージのために示された聖書箇所は、主イエス・キリストがゲッセマネで捕らえられる直前に苦しみもだえながら、祈る場面です。私は1945年に広島に原爆が投下される直前にもイエス様がこのように苦しみもだえていたのではないかと思います。
 2005年に、いのちのことば社から出版されたリー・ストロベル著・峯岸麻子訳の『それでも神は実在するのか? ― 「信仰」を調べたジャーナリストの記録』という本の中で、著者は、「悪や苦難がこの世に存在する以上、『愛の神』は存在しえないのではないか」という疑問を哲学者のピーター・ジョン・クリーフト博士にぶつけた時のインタビュー記事を書いています。以下は長いインタビューの中のほんの短い抜粋ですが、クリーフト博士はこのように答えています(p.89-90)。

 「私たちがどん底を体験しているとき、イエスもそのどん底にいるのです。ナチス・ドイツの死の収容所を経験したコーリー・テン・ブームは、
『我々がどんな暗闇にいようとも、イエスはさらに深い暗闇の中にいる』
と書いています。
 神であるイエスこそ、アウシュビッツでガスを浴び、ソビエトや北アイルランドで侮蔑的な扱いを受け、スーダンで奴隷になっていたのです。人間がイエスへの憎悪を燃やす中、神は私たちを愛することを選んだのです。
 私たちが流す涙の一粒、一粒は、イエスが流す涙です。その涙は、いまだに流され続けているかもしれません。しかし、いつの日か、イエスがその涙を拭う日がやってきます。」(引用終わり)

 この本のこの箇所を読んだ時、私(小島)は、目からうろこが落ちる思いがしました。イエス様はマタイ25章40節の中で、「あなたがたが、これらのわたしたちの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」と言います。この話の中で小さい者たちが受けたことは、良いことです。しかし、イエス様はいつも私たちのそばにいてくださる方ですから、悪いことでも全く同じことなのだと気付かされました。あの原爆が閃光を放って地獄と化した広島の地にイエス様もおられて、戦闘要員ではない最も小さい者である広島の人々と同じ苦しみを受けたのです。そしてそのことを知っていたイエス様はその原爆投下の前から苦しみもだえていたに違いないだろうと思います。
 ルカの福音書22章44節には、「イエスは、苦しみ、もだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とあります。広島への原爆投下の前にこのようにして苦しんだに違いないイエス様は、原爆投下後の地獄を思って苦しんだことは、もちろんだと思いますが、投下前に緻密な計画を立案して準備を着々と進めるアメリカの罪のあまりにも大きいことにも苦しみ悶えただろうと私は思います。
 アメリカは多くの年月と人材と莫大な開発費をつぎ込んで完成させた原爆を最も有効に活用するため、周到な準備をします。まず、標的の候補地とした広島や長崎などの幾つかの都市への空襲を禁止して建物を温存させます。また、従来の爆弾とは桁違いに威力が大きく一般市民への被害も甚大なものとなることを知っていながら、予告なく投下することを決めました。戦争を終結させるのが目的なら、山林など人のいない所に投下して原爆の威力を見せつけ、威嚇するだけでも十分な効果があったはずです。それを地方都市の中でも大きいほうである広島市に投下したということは、明らかに建物や人に対する被害の大きさのデータ収集も大きな目的としていたと考えざるを得ません。しかも長崎市にも広島とは異なるタイプの原爆を投下したのですから、ウラン型とプルトニウム型の両方を試験し、威力の違いを比較したかったのでしょう。広島と長崎の人々はこの悪魔の兵器の実験台にされたのです。このことを知っていたイエス様の苦しみは、いったい幾ばくであっただろうかと思います。
 ここで我々は、アメリカを強く非難するとともに、なぜこのようなアメリカの行為を神は引き止めなかったのかと、神がしたことに不信感を抱くこともできると思います。しかし、今日の聖書箇所から、もう一つ学ばなければならないことがあります。私自身のことを思う時、平和のために祈ると口では簡単に言いますが、ゲッセマネでのペテロたちのように私はろくな祈りも捧げずに寝てしまっているのではないかということです。いや、間違いなくそうです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。わたしといっしょに目をさましていなさい。」というイエス様のすぐそばで私は寝てしまうような祈りの足りない者であることを自覚しています。このことを私は猛省しなければならないと思っています。
 広島と長崎への原爆投下は本当に不幸な出来事でしたが、幸いにして、それ以降は戦争での核兵器使用はありません。アメリカとソ連が対立する中、朝鮮戦争やキューバ危機などで核兵器使用の危機があったにも関わらず回避されたのは、広島・長崎の悲劇を二度と繰り返してはならないという切実な祈りが世界中で積まれ、それに神様が応えてくださったからだと私は思います。21世紀に生きる我々はこの20世紀後半の祈りの精神を引き継ぎ、また伝えていかなければならないと思います。
 もし平和のために祈るということに今ひとつ実感が湧かないという人がいたら、環境問題の観点から考えてもよいと思います。もし核兵器が使用されたなら、放射能や気候変動による被害は攻撃を受けた地域だけでなく、地球規模の広範囲に広がります。いま二酸化炭素やメタンガスなど温室効果ガスによる気候変動の問題に世界が大きな関心を寄せていますが、それとは比較にならない環境被害が地球規模で広がると言って良いでしょう。このことからも核兵器廃絶へ向けた祈りは、どの地域に住んでいようと、世界中で祈られなければならない課題だということがわかると思います。そしてその祈りの力を強めるには、イエス・キリストの救いの恵みに与る人がもっともっと増えていかなければならないのです。
 きょう8月6日と9日は世界中で平和のための祈りが捧げられます。広島と長崎の悲劇を繰り返してはならないという思いを世界中の人たちと心を一つにして祈らなければなりません。その時、イエス様もまた大変に悶え苦しんでいることを覚え、またイエス様のそばにいながら寝てしまったペテロたちのように祈りがいい加減なものになっていないかという内省もしつつ、真剣に祈らなければならないと思います。

「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来てみると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。」
(ルカの福音書22章44,45節)

コメント

_ poko ― 2008年08月06日 20時31分

素晴らしいお話をありがとうございます。
私も実際にこのお話が聞けたら、もっと自分自身へ届くのではないかと思いました。でもこうして読めただけでも感謝しています。

_ S.KOJIMA ― 2008年08月07日 08時44分

pokoさん、メッセージを読んでくださり、どうもありがとうございました。

仕事をしていると、どうしても優先順位が1.仕事 2.信仰 になってしまいがちですが、今は1.信仰 にできることの幸せを感じています。多くの人の祈りに支えられてこの道を進んで行けることを感謝しつつ、これからも学びの期間を大切に過ごしていきたく思っています。

_ T・Y ― 2008年08月07日 15時10分

平和とか平安ということばは、(シャローム)と挨拶にもなっており、神のご性質を表しているものですから、平和を求めることが、単なる活動に終わってはいけません。
この天地万物を創造され、支配されている神がおられること、そして、姿を変えて我々の間に今も住んで働いておられることを信じないでは、本当の神から来る平和はありえないのでしょうね。
8/6というその日に小島さんの新しい人生を証しする初めてのメッセージの機会を与えられたことは、本当に神さまの摂理だと信じます。本当に嬉しく思いました。

さて、WOWOWで、今晩真夜中12:00から「夕凪の街 桜の国」を、そして来週15日(金)10時PMから「出口のない海」と、佐々部監督の戦争を考えさせるよい作品が続きます。あの感動をもう一度と楽しみにしています。

_ S.KOJIMA ― 2008年08月08日 00時36分

T・Yさま
 佐々部監督作品のWOWOWでのオンエア情報をありがとうございました。そうでしたね。高津のマンションではWOWOWと契約していましたが退去する時に解約し、静岡の実家では契約していないので、すっかり忘れていました。いつも佐々部監督作品のことを気に掛けてくださっていて、ありがとうございます。
 佐々部監督は、いま渡哲也さん主演のテレビドラマ「告知せず」の撮影をしています。
 http://www.tv-asahi.co.jp/kokuchisezu/
私もこのドラマにエキストラで参加させていただきました。ガン患者に対する告知の問題については私も、すい臓がんで死んだ父のことで無力感を感じたことがあり、これがきっかけで教会に導かれた経緯があります。この「告知せず」を軸にして私が教会に導かれたことと、佐々部監督の「夕凪の街 桜の国」で献身に導かれたことのお証しと説教をまとまった形でできそうな気がしますので、静岡教会での礼拝で今月か来月に語らせていただこうかと思い始めているところです。聖書箇所は詩篇23篇です。

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