朝の祈り ― 2008年07月22日 09時19分
祈りはいかなる時もきちんとした姿勢で行うべきと考える方からは邪道とされるかもしれませんが、私は朝の祈りは布団の中で仰向けに寝たままで行います。朝、目覚めた直後にまず「主の祈り」を唱えることで頭を半分だけ覚醒させ、次いでこの半醒半睡の状態の中で祈りの課題に挙げられていることを祈ったり、解決がついていないことに如何に対処するかなどを考えたりします。
なぜ私がこうするかと言うと、この仰向けでの半醒半睡の状態の方が、100%覚醒した状態の時よりも聖霊との交わりが確実にできるという実感があるからです。仰向けでいる時、エリシャが少年を蘇生させた時の少年をイメージすることもあります。旧約聖書の第二列王記の4章32-35節に、エリシャが死んで仰向けに寝かされた少年に、目と口と両手とをぴったりと合わせる形でおおいかぶさり、生き返らせる場面があります。この時の少年の側をイメージする時、私は聖霊との一体感を感じることができます。世俗にまみれて半分死んだ状態にある自分が聖霊により生き返らされたような気持ちの良さを味わうことができます。
誤解を与えるといけないので、再度記すと、私はこれを「主の祈り」を唱えた後で行います。すなわち、天の父にきちんと呼び掛けをした上で瞑想状態に入ります。さもないと、悪霊に支配される危険性があります。最近の女子中学生による父親刺殺事件に代表されるように、悪霊の仕業としか思えない事件がこのところ急速に増えているように思います。私の考えでは、これらの事件の大半は加害者が携帯メールやネット掲示板、ゲーム等に夢中になることで魂を吸い取られ、その抜け殻に悪霊が侵入して引き起こしているのです。それは、天の父のようにきちんと呼び掛ける対象を持たないために、守られていないからだと言ってもよいと思います。現代の日本ではそのように呼び掛ける対象を持たない人が大半を占めていますから、今後もこのような事件が起き続けるのかもしれません。人々がきちんとした信仰を持つことの重要性に早く気付くよう、強く祈る必要性を感じています。
「主の祈り」
天にまします我らの父よ。
願わくは、御名を崇めさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らにおいめあるものを我らがゆるすごとく、われらのおいめをもゆるしたまえ。
我らをこころみに会わせず、悪より救い出したまえ。
国とちからと栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり。
アーメン。
関連記事「祈りとは何だろうか」(2007年8月7日)
http://skojima.asablo.jp/blog/2007/08/07/1709547
なぜ私がこうするかと言うと、この仰向けでの半醒半睡の状態の方が、100%覚醒した状態の時よりも聖霊との交わりが確実にできるという実感があるからです。仰向けでいる時、エリシャが少年を蘇生させた時の少年をイメージすることもあります。旧約聖書の第二列王記の4章32-35節に、エリシャが死んで仰向けに寝かされた少年に、目と口と両手とをぴったりと合わせる形でおおいかぶさり、生き返らせる場面があります。この時の少年の側をイメージする時、私は聖霊との一体感を感じることができます。世俗にまみれて半分死んだ状態にある自分が聖霊により生き返らされたような気持ちの良さを味わうことができます。
誤解を与えるといけないので、再度記すと、私はこれを「主の祈り」を唱えた後で行います。すなわち、天の父にきちんと呼び掛けをした上で瞑想状態に入ります。さもないと、悪霊に支配される危険性があります。最近の女子中学生による父親刺殺事件に代表されるように、悪霊の仕業としか思えない事件がこのところ急速に増えているように思います。私の考えでは、これらの事件の大半は加害者が携帯メールやネット掲示板、ゲーム等に夢中になることで魂を吸い取られ、その抜け殻に悪霊が侵入して引き起こしているのです。それは、天の父のようにきちんと呼び掛ける対象を持たないために、守られていないからだと言ってもよいと思います。現代の日本ではそのように呼び掛ける対象を持たない人が大半を占めていますから、今後もこのような事件が起き続けるのかもしれません。人々がきちんとした信仰を持つことの重要性に早く気付くよう、強く祈る必要性を感じています。
「主の祈り」
天にまします我らの父よ。
願わくは、御名を崇めさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らにおいめあるものを我らがゆるすごとく、われらのおいめをもゆるしたまえ。
我らをこころみに会わせず、悪より救い出したまえ。
国とちからと栄えとは、限りなく、なんじのものなればなり。
アーメン。
関連記事「祈りとは何だろうか」(2007年8月7日)
http://skojima.asablo.jp/blog/2007/08/07/1709547
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