みことばの源泉「神の愛」に浸ろう2014年07月29日 04時44分

『みことばの源泉「神の愛」に浸ろう』
~平和をつくる聖書の味わい方~

 「ことば」であるイエス・キリストの働きを、繭糸を吐き出す蚕(カイコ)の働きに例えてみたい。

 蚕は繭糸の原液を糸にして吐き出す。人間はその糸を拠り、布を編み、衣服等を作る。

 イエス・キリストは「神の愛」という源泉からみことばの糸を人々に供給する。人はそのみことばの糸を拠り、聖書という布を編み、聖書を題材にした本という衣服などの布製品を作る。そして人は、この服はデザインが良いとか悪いとか、着心地が良いとか悪いとか様々に論評し合ったりする。

 しかし、そもそもイエス・キリストがみことばの糸を供給し、聖書の記者たちが糸を拠り、聖書の編者が聖書の布を編んだのは、人々を「神の愛」の源泉に導くためではないのか。生まれながらの人間は霊的に覚醒していないので源泉の存在に気付くことができない。聖書が必要なのはそのためだが、イエス・キリストを信じて聖霊が注がれたなら、源泉の「神の愛」を感じることができるようになる。

 それゆえ聖霊が注がれて「神の愛」に気付いた者たちがすべきことは衣服を着て布地や衣服について論評し合うことではなく、裸になって源泉の湯にどっぷりと浸かることではないか。裸になってすべてを神の愛に委ねる時、私たちの心は平和で満たされる。従って私たちが作るべき布製品は衣服ではなく、温泉の入口の「のれん」である(笑)

コメント

トラックバック