神様は見えない?2014年07月18日 10時37分


 ご存知の方も多いと思いますが、テレビやエアコンのリモコンの赤外線は私たちの目には見えませんが、デジカメや携帯電話のカメラで撮影するとリモコンが発光している様子を観察することができます。

 つまり人の目には見えない赤外線もカメラという機械の目には見えています。逆に嗅覚などは機械よりも人の鼻の方が感度が良いと言われています。においを発する物質が人の鼻には見えているのですね。

 さて神様も人の目には見えませんが、人の霊的な目には見えます。ただし霊的な目は人によって感度が違いますから、神様が見える人と見えない人とがいます。毎日を忙しく過ごしていると神様はなかなか見えて来ないかもしれません。

 できれば毎日、最低でも週に1回は忙しさから解放されて静まる時を持ち、霊性を研ぎ澄ますことで、神様がよく見えるようになりたいと思います。毎週日曜日、お近くのキリスト教会はそのような時と場所を与えてくれるでしょう。

みことばの源泉「神の愛」に浸ろう2014年07月29日 04時44分

『みことばの源泉「神の愛」に浸ろう』
~平和をつくる聖書の味わい方~

 「ことば」であるイエス・キリストの働きを、繭糸を吐き出す蚕(カイコ)の働きに例えてみたい。

 蚕は繭糸の原液を糸にして吐き出す。人間はその糸を拠り、布を編み、衣服等を作る。

 イエス・キリストは「神の愛」という源泉からみことばの糸を人々に供給する。人はそのみことばの糸を拠り、聖書という布を編み、聖書を題材にした本という衣服などの布製品を作る。そして人は、この服はデザインが良いとか悪いとか、着心地が良いとか悪いとか様々に論評し合ったりする。

 しかし、そもそもイエス・キリストがみことばの糸を供給し、聖書の記者たちが糸を拠り、聖書の編者が聖書の布を編んだのは、人々を「神の愛」の源泉に導くためではないのか。生まれながらの人間は霊的に覚醒していないので源泉の存在に気付くことができない。聖書が必要なのはそのためだが、イエス・キリストを信じて聖霊が注がれたなら、源泉の「神の愛」を感じることができるようになる。

 それゆえ聖霊が注がれて「神の愛」に気付いた者たちがすべきことは衣服を着て布地や衣服について論評し合うことではなく、裸になって源泉の湯にどっぷりと浸かることではないか。裸になってすべてを神の愛に委ねる時、私たちの心は平和で満たされる。従って私たちが作るべき布製品は衣服ではなく、温泉の入口の「のれん」である(笑)

「みことばの糸」の解き明かし2014年07月29日 06時30分

 前回の独言でみことばを蚕(カイコ)が吐き出す繭糸に例えたのは、みことばを聞く私たちが過去→現在→未来という線的な時間観に囚われているという含みがある。

 みことばの源泉の神の愛には時間が存在しないが、みことばの糸には人間の線的な時間が伴う。先に語られたみことばは旧く、後に語られたみことばは新しいと人間は判断するが、源泉においては過去・現在・未来が混然としている。それゆえ新約における旧約の預言の成就も不思議なことではない。

 イエス・キリストがみことばの糸を供給するのは霊的に十分に覚醒していない私たちでも神の愛のことがわかるようになるためであるから、神の愛のことが少しでもわかるようになったのなら、いつまでも線的な時間観の中にいるのでなく、過去も現在も未来も渾然一体となった神の愛の中にどっぷりと浸るべきである。

 神の愛に満たされ、線的な時間観の奴隷状態から解放されて自由になるなら、過去の恨みを未来の復讐で晴らす報復の連鎖からも脱却できるであろう。領土や領海を巡る争いも線的な狭い時間観と無縁ではない。人は狭い時間の中で相手よりも優位な位置に立とうと懸命になるが、神の愛の中では優劣は存在しない。