霊的なシェルターへの避難2011年03月21日 09時24分

 昨日をもって、船橋での1年間の聖日ミッションが終わりました。
 29日に関西(京都と姫路)に移動し、最終学年の1年間のインターン実習に就きます。
 昨晩の伝道会でお証しをしましたので、原稿を掲載します。

 こんばんは。
 神学生のKOJIMAです。現在は3年生で、この4月からは最終学年の4年生になります。教会の皆さんには、いつもお祈りとご支援をありがとうございます。
 きょうは、この教会での私のご奉仕の最後の日ですが、その最後のご奉仕として、このように体験談を話す時間をいただけて、とても感謝に思っています。

 私は今月の28日に、神学院を離れ、翌日の29日から、いよいよインターン実習が始まります。この、いよいよ実践の現場に出ようとしている直前の時期に大きな地震と原発の事故があったことで、私は今、次のように感じています。

 それは、3年前に私が伝道者として召されたこと、つまり、神様が私に牧師になるように声を掛けてくださったことは、まさに3年後の今日のためであったのだなぁ、ということです。

 大災害に見舞われた日本で、いま私が人々に伝えなければならないと思っている神様のことばは、新約聖書のヨハネの黙示録と、ヨハネの福音書の聖句です。これらの聖句は、後でお読みしますが、そこでは、「霊的なシェルター」のことが言われていると私は考えています。シェルターというのは、核戦争が起こった時などに避難する場所です。ですから、「霊的なシェルター」とは、人がこの中にとどまるなら、たとえ大災害によって肉体が滅んだとしても、魂は救われる、という場所です。大災害が起こった日本で、私はこのことを訴えていきたいと考えています。

 どうして、こう考えるようになったかの経緯を、まず話を20数年前に戻して始めようと思います。従いまして、今日の体験談は、いわゆる「救いの証し」と「召命の証し」の2つを含みます。すなわち、どのようにしてイエス・キリストを信じるようになったのか、と、どのようにして「牧師になりなさい」という神様からの声を聞いたのか、の二つの体験談です。限られた時間の中ですから、十分なことはお話しできませんが、できるだけ分かりやすく、お話しできたらと、願っています。

 私は1989年の10月、30歳の時でしたが、N大学工学部の原子核工学科の助手に採用されて着任しました。所属していたのは原子炉材料講座という研究室です。その前の一年間は、ポスト・ドクター研究員という肩書きで、アメリカのO国立研究所にいました。このOの研究所は、戦時中は広島に投下した原爆を製造するためのウラン濃縮をしていたところで、戦後も核兵器や原子力関係の研究を中心に進めているところです。ですから、私は20代の後半から30代の前半に掛けては、原子力の分野にどっぷりと浸かっていました。ただし、私の立場は原子力のための材料を開発するというよりは、材料の研究のために原子力を利用するという、材料科学の研究者です。ですから、原子力の専門家というわけではありません。しかし、原子力の分野に身を置いていたことは確かですから、いま福島の原発の中で起こっていることは、一般の方々に比べれば、ずっとリアルに想像することができます。今回の災害を経て私は、日本の人々に霊的なシェルターに避難することを強く勧めたく思っているわけです。

 さて1989年の10月にN大学の原子核工学科に就職した私ですが、1993年の8月に退職しました。研究室の教授に、どうしても付いて行くことができなくなったからです。辞めてどうしたら良いか、すぐにアイデアはありませんでしたが、とにかく辞めようと思いました。
 こうして私は材料の世界から離れることにしたのですが、次に何をしたら良いかということについては、本当に悩みに悩みました。そうして、たどり着いた結論が、日本語教師になることでした。知人に日本語教師がいたことや、私自身の興味の対象が物質から人間に移りつつあった、ということもあります。これには伏線があり、まずアメリカのOに一人で暮らしていた、ということがあります。このOの研究所は戦時中に原爆の製造を秘密で行っていたくらいですから、ものすごい田舎にあるんですね。ですから、寂しくて寂しくて仕方がありませんでした。こうして物質だけでなく人間を慕う気持ちが私の中で育っていました。

 そしてNに来てから、カトリックの神父さんが書いた『自己愛とエゴイズム』という本に出会っていました。後に教会に通うようになって分かりましたが、この本は聖書のことにはほとんど触れていませんが、書いてある内容は聖書的なことです。この本により、私は自分の中の奥深い声に耳を傾けるということを学びました。これは私たちの神学の立場で言えば、先行的な恵みとしての聖霊の声に耳を傾ける、ということです。こうして私は『自己愛とエゴイズム』という本を通して聖霊の声に導かれ始めていました。

 N大学を辞めてからの1年半の間も、本当にいろいろなことがありましたが、それは省略して私は1995年の3月にT大学の留学生関係の部署(以下、C)の日本語教員に採用されました。そうして私は神様の導きにより高津教会の近くのアパートを借りて大学に通勤するようになり、2001年の8月から高津教会に通うようになりました。高津教会を訪れるきっかけとなったのは、6月に私の父がガンで死んだことですが、8月に高津教会を初めて訪れた日が、偶然にもF先生による「ガラテヤ人への手紙」の連続講解説教の第一回目で、これが非常に面白かったので、続けて教会に通うようになり、同じ年の2001年の12月に洗礼を受けました。

 この2001年は父が死に、私が洗礼を受けただけでなく、9月11日の同時多発テロもあったりと、大きな出来事があった年でしたが、私にとって、もう一つ大きな出来事がありました。それは、私がCの仕事に加えて、再び材料の研究も行うようになったことです。私がNで助手をしていた時の教授が、大きな発見をして、それをさらに発展させる研究を進めていました。それは、材料の変形のメカニズムを新たに提案するというものでした。材料の変形に関しては、もう定説になっているメカニズムがあるのですが、それ以外にもある、ということを主張し、それを実証しようとしていました。この研究に私は大きな魅力を感じましたし、何よりも私が教授のもとを飛び出したにも関わらず、教授が私にも声を掛けてくださったことが大変にありがたく、私もこの研究プロジェクトに参加することにしました。

 この、材料の新しい変形機構の研究は実験で多くの新たな発見があり、私たち研究に携わっている者は、新しいメカニズムがあることは確実だと確信していましたが、研究者の世界は保守的な人が多いのか、学会では、このことを、認めませんでした。ですから、私はイエス・キリストの新しい教えを保守的な宗教家たちが受け入れなかったことが、ものすごく良く分かるんですね。神様は、私をこのような中をも通してくださり、今のために備えさせてくださったと思っています。

 さて、そうこうするうちに、2003年の1月に、この教授がガンで亡くなってしまいました。そうしたら、学会の研究者たちは、この私たちの新しい変形メカニズムの研究をほとんど無視するようになってしまいました。この教授は優れた研究業績を持ち、材料科学の分野では有名な研究者でしたから、教授が生きている間は、新しい説は認めないながらも、いちおう皆さん聞く耳は持っていました。しかし教授が死んでからは、私たちは本当に冷たい扱いをされるようになりました。それでも、私は、新しいメカニズムは絶対に存在すると確信していましたから、Cの仕事の傍ら、材料の研究を細々と進めていました。

 そうして教授が亡くなってから、ちょうど5年後の2008年の1月、これは私が献身を決意する約2ヶ月前のことですが、私は、この教授の説を支持する、新たな大発見をしました。ただし、大発見だと思っているのは私だけで、他の人たちは、全然信じてくれませんでした。でも私はそれが大発見だと、今でも確信しています。

 2008年の1月、大発見に夢中になった私は、これをどうやったら材料の学会で認めてもらえるか、必死で考えるようになりました。そうした折、私はCの上司から新たな仕事を命じられました。私は、少しでも多くの時間を材料の研究のために使いたいと思っていましたから、この命令を断わりました。でも、Cの上司は、それでもやるようにと私に言いました。そして、その時、私は、「それなら辞めます」と言ってしまったんですね。もう、とにかく材料の研究をしたくて仕方がありませんでしたから、留学生関係の仕事はやめて、材料関係に再就職したく思いました。再就職が難しいことは分かっていましたが、一年ぐらい浪人してでも、何とか再就職先を探して、材料の世界で再び働きたいと思いました。

 その折も折、静岡の実家の母から、乳がんが見つかったという電話がありました。私はCを辞めることは母に内緒にしていましたから、これには弱りました。もしガンが悪性だったら、再就職先を探すどころではありません。それで私は困ってしまい、研究担当の副学長に面談を申し入れて、大学で何とか材料関係の研究者として残ることはできないだろうかと相談しました。しかし、副学長は私にこう言いました。「私には人事権がないから、そんなことを相談されても困る。まだ正式な辞職願いを提出していないのだったら、Cの先生方に頭を下げて、もう一度Cで働けるようにお願いしなさい」と言われました。

 それで私は泣く泣くCの教員会議の場で先生方に頭を下げ、辞職を撤回したいとお願いしました。でも、Cの先生方は、私を許してはくださいませんでした。それは、当然だと思います。一度辞めると言って大迷惑を掛けたにも関わらず、やっぱり戻りたいと言うのは、虫が良すぎます。私は辞職を撤回することを断念しました。この時、私はイエス・キリストによって、粉々に粉砕されたと感じました。こうして粉々になった私の中で、イエス・キリストのしもべとして働きたいという思いが芽生え始め、急速に大きくなっていきました。

 このような中を通って私は神学生になりました。神学院での学びは本当に大きな恵みであり、導いて下さった神様に私は心から感謝しています。母のガンも幸い、悪性のものではなく、今のところ転移もなく、順調に経過しています。

 さて、ヨハネの黙示録と福音書に書かれている、霊的なシェルターについての話をする時間がほとんどなくなってしまいましたが、簡単に説明すると、黙示録と福音書との間には強い関係があり、黙示録の次の聖句は、ヨハネの福音書のシェルター構造を暗示していると私は考えます。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」(黙示録21:6)

 ここでは、ヨハネの福音書では最初と最後の節で、この世界は入れ物であることが示され、その構造の中心にとどまれば、天から注がれる聖霊に満たされることが示されていると思います。すなわちヨハネの福音書1章1節では、

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

とあり、「ことば」という単語が3回使われます。旧約聖書の創世記1章で神は最初の3つのことばで、光を造り、天と地という入れ物を造りました。また、福音書の最後の21章25節では、

「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」(ヨハネ21:25)

とありますから、この世界は入れ物であると、ヨハネは福音書の最後で言っています。

 こうして、この福音書は前と後ろとが深い関係を持ちながら、入れ子式に中心へと向っていきます。
 例えば、1章後半のイエスと弟子たちの出会いの場面と20章の弟子たちとの再会の場面は良く対応しますし、2章のカナの婚礼の良いぶどう酒は、19章の十字架の場面でイエスが流した血に対応します。また、2章の宮きよめは、18章でイエスが逮捕される直接の原因となっています。このようにして、入れ子式で順次外側から中心へと向かって行き、構造の中心は、7章37節から39節です。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

 ここが、霊的なシェルターです。

 読者はここにとどまることで、天から注がれる聖霊に満たされ続け、たとえ災害に遭って肉体が滅びたとしても、魂は救われるのです。

 地震と原子力の大きな災害の中を通る日本にあって、私はこれから先、この霊的なシェルターに避難することの必要性を訴えていかなければならないと感じています。

 この1年、教会の皆様には、本当にお世話になり、どうもありがとうございました。今後ともお祈りとご支援を、どうかよろしくお願いいたします。

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