悲しむ者は慰められる ― 2011年03月22日 08時55分
地震が起こる前のことですが、私は3月13日の晩に行う予定の、私としては4回目の船橋駅前通りでの街頭説教の準備を進めていました。
しかし、11日の大震災により、準備していた説教は、震災後の人々の空気には合わないと感じました。そもそも13日に街頭説教をするかも、分からなくなりました。12日の午前に教会の牧師先生に連絡したところ、街頭説教を行うか行わないかは、もう少し様子を見てから判断したいから、一応準備しておいて下さいと言われました。
さあ、困りました。震災の2日後に、街角で一体どんな説教をしたら良いのだろう。ものすごく悩みました。そうして遅くまで掛かって下記の説教原稿を作りました。
結局、街頭説教は中止になりましたので、この説教を行うことはありませんでしたが、ここに掲載させていただきます。
「悲しむ者は慰められる」
きょうは、まず、私が船橋に来る前に通っていた教会で聞いた、ある女性の、阪神大震災の時の体験談を、ご紹介したく思います。
その方は阪神大震災の時、神戸市内の公園で、ボランティア活動をしていたそうです。
その公園では、地震で家を失った人たちが、多数、テント生活をしており、彼女はその方々の生活を支援するボランティアをしていました。その公園には、毎日、夕暮れ時だったでしょうか、毎日決まった時間に現れて、プロ級の美しい声で賛美歌を歌うクリスチャンの女性がいたそうです。
最初の頃は、皆は、変な人がいるという感じで無視していたので、その女性はただ一人でポツンと立ち、歌っていたそうです。しかし、何日かするうち、公園で生活している被災者の何人かが、その女性の近くで聞くようになり、やがて日がたつごとに、その輪は大きくなり、最後の方では、大勢の被災者が、その女性の近くで賛美歌を聞くようになり、その歌声に慰められていたということです。
この様子を、ボランティア活動をしながら見ていた女性は、それまではキリスト教とは無縁の暮らしをしていましたが、このことを通してキリスト教に大きな関心を抱くようになったのだそうです。
公園で賛美歌を歌っていた女性は、誰にも相手にされなかったのに、一人で歌い続けていました。そのようなことを実行できる力は、いったい、どこから湧いてくるのだろうか。どうして、誰にも相手にされない中、一人でそんなことを何日も続けることができたのか、とても不思議で、気になったそうです。それで彼女は、キリスト教のことを知りたくなり、しばらくしてから、近所の教会を訪れたのだそうです。そうして、彼女は聖書を読むようになり、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けてクリスチャンになりました。
この体験談は、キリスト教がどんな宗教であるかを、よく物語っていると思います。
そこで、今夜は、この女性の体験談にスポットを当てながら、私たちが信じるキリスト教がどのような宗教なのかについて、3つのポイントから、お話しさせていただきます。
第一のポイントは、阪神大震災の被災者のために賛美歌を歌っていた女性の心の中には、イエス・キリストが住んでいた、ということです。
第二のポイントは、イエス・キリストは慰め主である、ということです。
第三のポイントは、この慰めはイエス・キリストが十字架で、はりつけになったがゆえに、もたらされるものなのだ、ということです。
まず第一のポイントは、阪神大震災の被災者のために公園で賛美歌を歌っていた女性の心の中には、イエス・キリストが住んでいた、ということです。実はこのことは、すべてのクリスチャンについて言えることです。
イエス・キリストを信じると、その人の心の中にはイエス・キリストの霊が入り、心がきよめられていきます。そうして、その人は次第にイエス・キリストに似た者へと変えられていきます。ただし、その変化の速さや度合いは人によって大きく異なります。なかなか変わらない人もいれば、イエス・キリストに似た者へと、どんどん変わっていく人もいます。
阪神大震災の被災者のために公園で賛美歌を歌った女性は、まさにイエス・キリストに似た人でした。私はその公園にいたわけではありませんから、その女性のことを直接は知りません。しかし、その女性がイエス・キリストのかおりを放っていたことは、間違いありません。
イエス・キリストの他に、いったい誰が歌の力だけで、大震災で途方に暮れている人々の心を慰めることができるでしょうか。彼女は、人々に食べ物を与えたわけでもなければ、衣服を与えたわけでもありません。物質的な物は何も与えていません。ただ賛美歌を歌って、そのことによって人々の心を癒し、満たし、慰めました。
このことは、第二のポイントへとつながっていきます。
第二のポイントは、イエス・キリストは慰め主である、ということです。
イエス・キリストが人々を慰めることができる慰め主であるからこそ、イエス・キリストが心の中に住んでいる女性が賛美歌を歌うことで、被災した人々を慰めることができたのです。
イエス・キリストはおっしゃいました。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)
イエス・キリストは、いつも弱い立場の人々に寄り添っていました。
弱い立場の人々は様々なことに苦しみ、悲しんでいました。イエス・キリストはそのような人々の体を癒し、人々の心に平安を与えました。
心の平安。
これこそが私たちが心の奥底から求めるものです。
イエス・キリストは、人々に問い掛け、呼びかけました。
「あなたがたは、何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)
「来なさい、そうすればわかります。」(ヨハネ1:39)
「あなたがたは、何を求めているのですか。」人が心の奥底で本当に求めているもの、それは、心の平安です。
「来なさい、そうすればわかります。」その答えが心の平安であることが、イエス・キリストのもとに行き、付いて行くと、次第に分かるようになります。慰め主によって心に平安が与えられると、人は深い慰めを感じます。
このような、慰めは、いつ何どきでも感じるものではなく、悲しみの中を通らなければ得られないものかもしれません。すべて順調な人生の中を歩んでいる時には、もしかしたら、わからないことかもしれません。しかし、突然の悲しみに襲われたときなど、そのことが、はっきりとわかる瞬間があります。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)
イエス・キリストは悲しみの中にある人々を、いつくしみ深く慰めてくださいます。ではイエス・キリストは、どうして悲しむ人々を慰めることができるのでしょうか。これが、3つめのポイントです。
それは、イエス・キリストご自身が、十字架という、大きな苦しみと悲しみの中を通ったからです。イエス・キリストは人々からあざけられ、ののしられ、愛する弟子たちにさえも裏切られ、また、全身がボロボロになるまでムチで打たれ、傷だらけになった後に十字架に付けられました。
イエス・キリストは死ぬ直前に、十字架の上でこのように叫びました。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)
イエス・キリストは、ご自身がこのような絶望的な苦しみと悲しみの中を通った方だからこそ、人々を慰めることができるのです。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)
イエス・キリストに似た者とされた女性、すなわち阪神大震災の時に、公園で被災した人々を慰める賛美歌を歌っていた女性、この方も大変な悲しみの中を通った経験があったのかもしれません。そして、イエス・キリストによって慰められたという経験をお持ちだったのかもしれません。
実は、私自身も悲しみの中にあったとき、賛美歌によって慰められたという経験を持っています。ちょうど10年前のことでしたが、私の父は、すい臓ガンで、突然のように死にました。
その悲しみの中にあった時、私を教会へ連れて行ってくれた人がいて、私は教会で歌われていた賛美歌によって、慰められたのです。今まで、その人にいくら誘われても行こうとしなかった教会に、自分から行きたいと頼み、そうして私は教会で慰められました。本当に不思議な出来事でした。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)
イエス・キリストは、ご自身が、
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)
と叫ぶほどの苦しみと悲しみの中を通りました。
だからこそ、私たちが苦しみや悲しみの中にあるとき、イエス・キリストは私たち一人一人と個人的に出会ってくださり、慰めることができるのです。
皆さんが、主イエス・キリストと個人的に出会うことができるよう、心の底から願っています。
しかし、11日の大震災により、準備していた説教は、震災後の人々の空気には合わないと感じました。そもそも13日に街頭説教をするかも、分からなくなりました。12日の午前に教会の牧師先生に連絡したところ、街頭説教を行うか行わないかは、もう少し様子を見てから判断したいから、一応準備しておいて下さいと言われました。
さあ、困りました。震災の2日後に、街角で一体どんな説教をしたら良いのだろう。ものすごく悩みました。そうして遅くまで掛かって下記の説教原稿を作りました。
結局、街頭説教は中止になりましたので、この説教を行うことはありませんでしたが、ここに掲載させていただきます。
「悲しむ者は慰められる」
きょうは、まず、私が船橋に来る前に通っていた教会で聞いた、ある女性の、阪神大震災の時の体験談を、ご紹介したく思います。
その方は阪神大震災の時、神戸市内の公園で、ボランティア活動をしていたそうです。
その公園では、地震で家を失った人たちが、多数、テント生活をしており、彼女はその方々の生活を支援するボランティアをしていました。その公園には、毎日、夕暮れ時だったでしょうか、毎日決まった時間に現れて、プロ級の美しい声で賛美歌を歌うクリスチャンの女性がいたそうです。
最初の頃は、皆は、変な人がいるという感じで無視していたので、その女性はただ一人でポツンと立ち、歌っていたそうです。しかし、何日かするうち、公園で生活している被災者の何人かが、その女性の近くで聞くようになり、やがて日がたつごとに、その輪は大きくなり、最後の方では、大勢の被災者が、その女性の近くで賛美歌を聞くようになり、その歌声に慰められていたということです。
この様子を、ボランティア活動をしながら見ていた女性は、それまではキリスト教とは無縁の暮らしをしていましたが、このことを通してキリスト教に大きな関心を抱くようになったのだそうです。
公園で賛美歌を歌っていた女性は、誰にも相手にされなかったのに、一人で歌い続けていました。そのようなことを実行できる力は、いったい、どこから湧いてくるのだろうか。どうして、誰にも相手にされない中、一人でそんなことを何日も続けることができたのか、とても不思議で、気になったそうです。それで彼女は、キリスト教のことを知りたくなり、しばらくしてから、近所の教会を訪れたのだそうです。そうして、彼女は聖書を読むようになり、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けてクリスチャンになりました。
この体験談は、キリスト教がどんな宗教であるかを、よく物語っていると思います。
そこで、今夜は、この女性の体験談にスポットを当てながら、私たちが信じるキリスト教がどのような宗教なのかについて、3つのポイントから、お話しさせていただきます。
第一のポイントは、阪神大震災の被災者のために賛美歌を歌っていた女性の心の中には、イエス・キリストが住んでいた、ということです。
第二のポイントは、イエス・キリストは慰め主である、ということです。
第三のポイントは、この慰めはイエス・キリストが十字架で、はりつけになったがゆえに、もたらされるものなのだ、ということです。
まず第一のポイントは、阪神大震災の被災者のために公園で賛美歌を歌っていた女性の心の中には、イエス・キリストが住んでいた、ということです。実はこのことは、すべてのクリスチャンについて言えることです。
イエス・キリストを信じると、その人の心の中にはイエス・キリストの霊が入り、心がきよめられていきます。そうして、その人は次第にイエス・キリストに似た者へと変えられていきます。ただし、その変化の速さや度合いは人によって大きく異なります。なかなか変わらない人もいれば、イエス・キリストに似た者へと、どんどん変わっていく人もいます。
阪神大震災の被災者のために公園で賛美歌を歌った女性は、まさにイエス・キリストに似た人でした。私はその公園にいたわけではありませんから、その女性のことを直接は知りません。しかし、その女性がイエス・キリストのかおりを放っていたことは、間違いありません。
イエス・キリストの他に、いったい誰が歌の力だけで、大震災で途方に暮れている人々の心を慰めることができるでしょうか。彼女は、人々に食べ物を与えたわけでもなければ、衣服を与えたわけでもありません。物質的な物は何も与えていません。ただ賛美歌を歌って、そのことによって人々の心を癒し、満たし、慰めました。
このことは、第二のポイントへとつながっていきます。
第二のポイントは、イエス・キリストは慰め主である、ということです。
イエス・キリストが人々を慰めることができる慰め主であるからこそ、イエス・キリストが心の中に住んでいる女性が賛美歌を歌うことで、被災した人々を慰めることができたのです。
イエス・キリストはおっしゃいました。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)
イエス・キリストは、いつも弱い立場の人々に寄り添っていました。
弱い立場の人々は様々なことに苦しみ、悲しんでいました。イエス・キリストはそのような人々の体を癒し、人々の心に平安を与えました。
心の平安。
これこそが私たちが心の奥底から求めるものです。
イエス・キリストは、人々に問い掛け、呼びかけました。
「あなたがたは、何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)
「来なさい、そうすればわかります。」(ヨハネ1:39)
「あなたがたは、何を求めているのですか。」人が心の奥底で本当に求めているもの、それは、心の平安です。
「来なさい、そうすればわかります。」その答えが心の平安であることが、イエス・キリストのもとに行き、付いて行くと、次第に分かるようになります。慰め主によって心に平安が与えられると、人は深い慰めを感じます。
このような、慰めは、いつ何どきでも感じるものではなく、悲しみの中を通らなければ得られないものかもしれません。すべて順調な人生の中を歩んでいる時には、もしかしたら、わからないことかもしれません。しかし、突然の悲しみに襲われたときなど、そのことが、はっきりとわかる瞬間があります。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)
イエス・キリストは悲しみの中にある人々を、いつくしみ深く慰めてくださいます。ではイエス・キリストは、どうして悲しむ人々を慰めることができるのでしょうか。これが、3つめのポイントです。
それは、イエス・キリストご自身が、十字架という、大きな苦しみと悲しみの中を通ったからです。イエス・キリストは人々からあざけられ、ののしられ、愛する弟子たちにさえも裏切られ、また、全身がボロボロになるまでムチで打たれ、傷だらけになった後に十字架に付けられました。
イエス・キリストは死ぬ直前に、十字架の上でこのように叫びました。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)
イエス・キリストは、ご自身がこのような絶望的な苦しみと悲しみの中を通った方だからこそ、人々を慰めることができるのです。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)
イエス・キリストに似た者とされた女性、すなわち阪神大震災の時に、公園で被災した人々を慰める賛美歌を歌っていた女性、この方も大変な悲しみの中を通った経験があったのかもしれません。そして、イエス・キリストによって慰められたという経験をお持ちだったのかもしれません。
実は、私自身も悲しみの中にあったとき、賛美歌によって慰められたという経験を持っています。ちょうど10年前のことでしたが、私の父は、すい臓ガンで、突然のように死にました。
その悲しみの中にあった時、私を教会へ連れて行ってくれた人がいて、私は教会で歌われていた賛美歌によって、慰められたのです。今まで、その人にいくら誘われても行こうとしなかった教会に、自分から行きたいと頼み、そうして私は教会で慰められました。本当に不思議な出来事でした。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)
イエス・キリストは、ご自身が、
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)
と叫ぶほどの苦しみと悲しみの中を通りました。
だからこそ、私たちが苦しみや悲しみの中にあるとき、イエス・キリストは私たち一人一人と個人的に出会ってくださり、慰めることができるのです。
皆さんが、主イエス・キリストと個人的に出会うことができるよう、心の底から願っています。
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