わたしはアルファであり、オメガである2010年10月04日 07時09分

 昨晩、船橋駅の近くで行なった街頭説教の原稿です。
 通行人が通り過ぎる短い間に最低限のメッセージを伝えるため、短いメッセージをつなげる形式にしてあります。


「わたしはアルファであり、オメガである」

 こんばんは。

 今夜、ご紹介するのは新約聖書の「ヨハネの黙示録」に出てくる、次の言葉です。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(ヨハネの黙示録22:13)

 アルファはギリシャ語のアルファベットの最初の文字、オメガは最後の文字です。つまり、「わたしはアルファであり、オメガである」は、英語のアルファベットで言えば、「わたしはAであり、Zである」ということです。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

 どうしてギリシャ語なのでしょうか?
 それは、新約聖書がギリシャ語で書かれているからです。当時、ギリシャ語は地中海沿岸の地域で広く使われていました。新約聖書に収められている書物の一つ一つは、元々は必ずしも広い地域の人々に読んでもらうためのものではありませんでしたが、ギリシャ語で書かれた結果、イエス・キリストの教えは比較的短い期間の間に、広い地域に広まって行きました。神様のなさることは、本当に不思議だなあ、と思います。もしギリシャ語で書かれていなかったなら、イエス・キリストの教えが今のように世界中に広まることはなかったでしょう。
 その神様が、このようにおっしゃいました。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

 神は私たちが住む、この世界を支配されているお方です。なぜなら、最初であり、最後であるお方だからです。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。」

 最初であり、最後であるとは、時間的にも、空間的にも、最初であり、最後であるということです。
 まず空間のほうから見てみましょう。神が空間的に「私は最初であり、最後である」とおっしゃる時、神は私たちが歩く道の先頭に立って私たちを導き、それと同時に、一番後ろにも立って背後を守ってくださっています。
 私たちが進んで行く時、先にはどんな危険が待ち構えているか分かりません。しかし、どんな危険があろうと、神が共にいてくださるなら、安心です。また神は時に、私たちに敢えて試練を与えることもあります。しかし、神が共にいてくださるなら、どんな困難でも乗り超えることができます。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

 神はまた、私たちの「後ろ」も守ってくださっています。私たちが前に進む時、後ろには目が付いていませんから、後ろからどんな危険が迫っているか分かりません。神は私たちを後ろからも守ってくださるお方です。
 グループで山歩きをする時など、一番後ろを行く人には、遅れ気味の人を優しくケアしたり、また励ましたりする役割が求められますね。一番後ろを行ってくださる神は、歩みの遅い私たちを優しく励ましてくださるお方です。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

 このように神様は私たちの先を行ってくださり、また後ろを守ってくださるお方です。

「わたしはアルファであり、オメガである。」

 アルファはギリシャ語のアルファベットの最初の文字であり、オメガは最後の文字です。ギリシャ語のアルファベットはアルファ、ベータ、ガンマー、デルタで始まり、途中、皆さんも良くご存知の円周率のパイやシグマなどがあり、最後の文字がオメガです。

 神が「わたしはアルファであり、オメガである。」とおっしゃる時、神は東の果てから西の果てまで、また南の果てから北の果てまで、支配しているのだということです。ですから、神様は私たちの先頭を行ってくださると同時に、後ろを守ってくださることもできるのです。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

 これまで空間の話をしてきましたが、神様はまた、時間の中、時の流れの中でも最初であり、最後である方です。

 新約聖書のヨハネの黙示録には、次のようにも記されています。

「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」(ヨハネの黙示録1:8)

 神は永遠の昔からいらっしゃり、永遠の未来までいらっしゃる方です。神は私たちが生まれる遥か以前から、いらっしゃり、私たちがこの世を去った後も存在し続ける方です。
 神は時間を超越しているお方ですから、私たちの過去も未来も全てご存知です。私たちの未来は、私たちがどのような行動を取るかによって変わります。しかし、私たちがどのような行動を取ろうとも、その先にある未来を神は全てご存知です。時間と空間を超越し、万物を支配しておられる神とは、そのようなお方です。

「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」

 私たちは、いずれ、この世を去らなければなりません。いま既に大人になっている方なら、どんなに長生きしたとしても100年後には、もうこの世にはいないでしょう。

 私たちは死んだらどうなるのでしょうか。
 残念ながら、私たちには分かりません。

 明日のことなら、昨日からの延長で、だいたいのことは予測できます。
 1年後のこととなると、かなり不確かになりますが、それでも1年前から今日までのことを考えれば、だいたい、その延長線上で考えることができるでしょう。
 10年後のこととなると、もうほとんど分かりませんが、それでも10年前から今日までのことを考えれば、少しは推測することができるかもしれません。
 しかし、私たちがこの世を去ったらどうなるのかは、もう全く分からない、未知の世界です。それは、私たちが生きて来た過去からの延長線上にはないからです。
 死後の世界とは、こうではないだろうかと、いろいろと想像することはできるでしょう。でも、それはただの想像であり、しょせん、私たちには何も分からないのです。
 しかし、たとえ分からなくても、神様が共にいてくだされば、心配することはありません。神様はこのようにおっしゃってくださっています。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」(ヨハネの黙示録21:6)

 イエス・キリストを信じる者に、神はいのちの水を与えてくださいます。その水は私たちの内側で泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。この命の水をいただくと、私たちは永遠の世界に入ることが約束され、心の平安が得られます。なぜなら、時間を超越した神様が共にいてくださるからです。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

 時間を超越した方が共にいてくださることほど、心強いことはありません。
 教会に行くようになる前の私は、いつも心の中に漠然とした不安があることを感じていました。神様のことを知らなかった私は、エンジンが故障した船に乗り、広い海の中を漂流しているような感覚で生きていました。何の基準もなく、どちらに流されて行くのかも分からない。そのような中で時間の流れの中を漂っているだけでした。
 しかし、イエス・キリストを心の内にお迎えしてからは、私の心は全く変わりました。自分で変えたわけではないので、変えられたのです。それまでの漂流感が全くなくなり、心の中に大きな安心感が与えられました。
 時間の中を漂流していくことが、どんなに不安を伴うことなのか、私には良く分かります。皆さんの心の中にも、そのような漂流感、漠然とした不安があるのではないでしょうか。
 しかし、イエス・キリストを心の内にお迎えすれば、そのような不安は全くなくなります。なぜなら、イエス・キリストこそが、次のようにおっしゃる方だからです。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。
最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。』」

「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがない。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出る。」(ヨハネの福音書4:14)

 教会では皆さんがいらっしゃることをお待ちしています。
 今夜、7時から私たちの教会では伝道会が持たれます。
 ぜひ、教会にいらしてください。

コメント

_ たなかやすこ ― 2010年10月06日 11時26分

これはテンポもよく、証しも含まれ、とてもよい街頭演説、いえ、街頭説教だと思いました。
KOJIMAさんって、おとなしくあまり自己表現なさらないように見えて、ホントはお話好きな、喋らせるといくらでも出てくる人だったのですね。これも主がお話されているのでしょうか?感謝します。

_ S.KOJIMA ― 2010年10月06日 17時34分

 たなかさん、コメントありがとうございました。

 前回の船橋の路傍説教・第一弾、すなわち

 「あなたがたは何を求めているのですか。」
 「来なさい。そうすればわかります。」

を連呼した説教は、おかげさまで多くの方に良い評価をいただくことができました。
 恐らくこの第一弾を超える説教はなかなか出来ないだろうと自分でも思っています。
 しかし、超えられないまでも、第二弾もできるだけそのレベルに近い路傍説教にしたいと思い、御言葉を祈り求めたところ、この「わたしはアルファであり、・・・」が与えられました。短時間で作った説教なので、出来はどうかな、と思っていましたが、田中さんに好意的なコメントをいただけて感謝です。
 ただ、第一弾にしても、今回の第二弾にしても、クリスチャンに好意的な評価をいただけたとしても、本来のターゲットの方々の心に響かなくては何もなりませんよね。
 どうしたら聖霊が働いてくださるのか。それは、説教者がおのれ自身をどれだけ捨て、きよめられているのか、に掛かっているのかもしれません。

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