きよめの説教2010年10月06日 09時32分

 「ホーリネス(聖)と聖書」 という授業の前期のレポートとして、聖別会の説教を一つ作るようにという課題が出されて、提出しました。いわゆる、「きよめの説教」です。

 今週、私たちの神学校では、信徒伝道者養成コースの方々のための授業が行なわれており、このコースを受講している信徒さんたちと神学生とが一緒に寮に寝泊りしています。
 今朝の早朝の寮の集会では私が説教を担当し、この「きよめの説教」をそのまま話しました。

 かなり長いですが、読んでみていただけると感謝です。


説教題: 「復活したイエスによる心の掃除」

聖書箇所: ヨハネの福音書2章1-16節

1.はじめに
 ヨハネの福音書2章の1節から12節までは、いわゆる「カナの婚礼」と呼ばれる箇所です。そして、それ以降の箇所は「宮きよめ」と呼ばれています。普通、この2つの個所を一緒に説教するということは、まず無いだろうと思います。ヨハネの福音書の注解書を見ても、『ウェスレアン聖書注解』や『新聖書注解』では、全体の構成の大きな区分け(大区分)で「カナの婚礼」までを【序論(序説)】、そして「宮きよめ」からをイエスの【公生涯(公的宣教)】と解釈して、この2つの出来事をバッサリと分断してしまっています(・・・)。
 しかし、私は「きよめ」という観点でヨハネの2章を読んだ場合、この2つの出来事は切っても切れない関係にあると考えています。きょうの聖別会では、このことを詳しくお話ししますから、きょうの話を通じてイエス・キリストが私たちの心をきよめてくださるとは、どういうことかを、是非とも霊的に感じ取っていただきたいと願っています。

2.宮きよめ
 今日の聖書箇所と「きよめ」がどのように関係しているのかを理解していただくには、後ろの「宮きよめ」の方から始めたほうが分かりやすいと思いますので、まず13節から16節を見てみましょう。ここには、イエス・キリストがエルサレムの神殿の敷地の中から売り物用のいけにえの動物たちや商売人たちを追い出している場面が描かれています。私が今日、皆さんにお伝えしたいと願っている「きよめ」を一言で言えば、この神殿(或いは宮)とは私たちの心のことであり、「きよめられる」とは、この中にある余計な物をイエス様が全部きれいに片付けてくださることだ、ということです。
 こう言ってしまうと随分と簡単に聞こえますね。このような単純な理解だけでも、もしかしたら十分かもしれません。しかし、実はこの「宮きよめ」の場面には、もっともっと奥深いことがたくさん含まれていますので、それらも理解していただけたなら、とても感謝に思います。
 ヨハネの福音書2章のこの「宮きよめ」の箇所についてじっくりと思い巡らすと、少なくとも4つの意味が含まれていることが分かります。

①読んだ通りのイエスによる宮きよめの出来事
②いけにえ用の動物たちを追い出し、イエス自らがいけにえの小羊となること
③律法の祭儀のいけにえの動物を追い出すことで、律法の時代の終焉を宣言すること
④イエス・キリストが私たちの心の中をきよめてくださること。

 このうち、①は読んだ通りのことですので次に進み、②番目のイエスが「いけにえ用の動物たちを追い出し、イエス自らがいけにえの小羊となること」について、まず詳しく話します。
 「宮きよめ」の記事はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書の全てに載っていますが、ヨハネには他の3つの福音書にはない特徴があります。よく言われることは、他の3つの福音書では十字架の場面が近づいた終盤にこの記事が登場するのに対して、ヨハネでは2章という早い段階で登場するということです。このことはもちろん大切ですが、それ以外にも重要な違いがあります。
 それは、マタイ・マルコ・ルカには牛や羊までをも追い出したことは書かれていない、ということです。商売人を追い出したことだけが書いてあります。一方、ヨハネ2章15節には「羊も牛もみな、宮から追い出し」と書いてあります。このことは非常に重要です。なぜなら、このことにより、イエスは羊や牛に代わって自らがいけにえの小羊となるのだということを宣言していると読み取ることができるからです。
 バプテスマのヨハネは、イエスが自分のほうに来られるのを見て、

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)

と言いました。また、マタイ・マルコ・ルカでは最後の晩餐が過越の食事であったのに対して、ヨハネの最後の晩餐は過越の食事の日の前日であり、イエスは過越のいけにえの動物がほふられる、まさにその時刻に十字架の上で血を流して死んだことになっています。ですから、これらを勘案すれば、宮きよめの場面でイエスが牛や羊を神殿から追い出したことは、自らがいけにえの小羊になることを示しているのは明らかです。

 このことは同時に、律法の時代の終焉をも宣言しています。これが、ヨハネの福音書における「宮きよめ」の③番目の意味です。律法の時代の終焉とは、つまり旧約から新約への歴史的な大転換が起こったということです。マタイ・マルコ・ルカではイエスが十字架で死んだ時に

「神殿の幕が真っ二つに裂けた」(マタイ27:51、マルコ15:38、ルカ23:45)

とあり、このことを持って律法の時代の終焉を告げていますが、ヨハネの場合は私はこの「宮きよめ」が律法の時代の終焉を告げているのだと思います。このことは「旧約から新約への転換」ということと「聖(ホーリネス)」とが深い関係にあることを意味しています。
 今年の7月に出版された『聖書神学事典』の【聖・聖化】の項目には、イエスによって旧約の聖の概念が新しくされたとして、次のように書かれています。

「旧約の時代、聖なる神に近づくためには、いけにえときよめの儀式、倫理的聖と祭儀的聖の実践が要求されたが、聖なる神イエスは、愛とあわれみをもって倫理的、祭儀的に汚れた人々に近づき、きよめ、さらに祭儀的聖の要求を廃止したのである。」

 イエスの十字架上の死は最後の過越のいけにえであると同時に、最後の贖罪のいけにえでもあったとも言えます。動物のいけにえの血を聖所で用いる「贖罪の儀式」についてはレビ記16章に詳しく書かれています。私たちの罪がこのような動物の血できよめられるような軽いものではないことを、旧約聖書の様々な記述により私たちは知っています。イエス・キリストはこのような私たちの重い罪をきよめるために十字架で血を流してくださいました。
 
 この私たちの罪をきよめるためのイエス様の言動の具体的な表れが、「宮きよめ」のもう一つ(④番目)の意味です。
 神のすべての命令の中で、どれが一番大切か問われたイエスは次のように答えています。

「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(申命記6:5、マタイ22:37、マルコ12:30、ルカ10:27)

 しかし、私たちの心の中では様々な余計な物が占領していて、心を神に向けることを妨げています。神聖な場においても、なお一儲けしてやろうという自己中心的な考えであったり、一見すると信仰熱心であっても実は神から離れている律法主義など、実に様々な余計な物があります。イエス・キリストはそれらを追い出してくださり、私たちの心が純粋に神様だけに向くようにしてくださるのです。「宮きよめ」の場面のイエス様は少々乱暴のようにも見えますが、私たちの心の中は、軽くホウキで掃く程度ではその場を動かない、様々な重い罪で占領されているのです。私たちがイエスに対して心を閉ざしている間は、これらの罪は私たちの心を占領し続けますが、イエス・キリストに対して心を開き、明け渡す時、イエス様は私たちの心をきれいに掃除してくださいます。

3.カナの婚礼
 旧約の贖罪の儀式で使われたいけにえの動物の血は、ほふって殺した、死んだ動物の血です。イエス・キリストも十字架で死にました。だとすれば、私たちの罪をきよめてくださるイエス・キリストの血も死んだ血なのでしょうか。いいえ、絶対にそんなことはありません。イエス・キリストは復活しました。イエス・キリストの血は生きています。
 イエスの血は生きている。そのことを示しているのが、2章前半の「カナの婚礼」の場面です。この婚礼の場面と19章の十字架の場面を比べてみてください。

(19章25-30節を読む)

 2章の婚礼と19章の十字架の場面とが鮮やかなコントラストをなしていることに気付かないでしょうか。「祝福」と「のろい」、「生」と「死」です。2章と19章の関係が深いことは、この2つの章にしか登場しないキーワードがあることから分かります。「母」マリヤと「ぶどう酒」です。この2つのキーワードは2章と19章で実に鮮やかなコントラストを示しています。
 2章の母マリヤには婚礼の場の生き生きとした様子が感じられます。しかし、19章では息子の死刑の場面に立ち会うという悲痛な母の姿が思い浮かびます。何と言う大きなコントラストでしょうか。この福音書の記者ヨハネは、この母マリヤの姿を通して2章と19章は深い関係にあることを教えてくれています。
 そして、もう一つのキーワードが「ぶどう酒」です。2章が「良いぶどう酒」、19章が「酸いぶどう酒」です。「酸いぶどう酒」は発酵が進み過ぎた死ぬ寸前のぶどう酒です。それに対して「良いぶどう酒」は生きています。生命力にあふれています。
 この良いぶどう酒こそが、私たちの罪をきよめてくださるイエスの血です。ほふられた、酸いぶどう酒である死んだ動物の血ではなく、生命力にあふれた、復活した生けるキリストの血です。ここにも旧約から新約への大転換が描かれています。質の劣ったぶどう酒がなくなり(3節「ぶどう酒がありません」)、良いぶどう酒に新しく代わったのです。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いものを出す」ものですが、神様がなさることは、その逆です。神様は、イエス・キリストという良いぶどうの木(ヨハネ15:1)を今まで取っておいてくださいました。
 また、カナの婚礼はイエスの復活の祝祭と考えても良いでしょう。イエス・キリストの血は復活の祝福に満ちた血です。
 そしてさらに、カナの婚礼には、もう一つの祝福があります。それは「悔い改めの祝福」です。悔い改めの原語のギリシャ語はメタノイアで、元々の意味は「向きを変える」という意味だそうです。このカナの婚礼に招かれた弟子たちは、向きを変えた者たちでした。弟子たちは

「来なさい」(ヨハネ1:39,43)

と声を掛けてくださったイエス・キリストの方向に向きを変え、イエス・キリストに付き従ったのです。
 この弟子たち、そして私たちは、ルカ15章の放蕩息子と同じです。遠い国で放蕩していた息子は我に返って父親の方に向きを変え、父親のもとに帰りました。その息子を出迎えた父親は祝宴を開きました。
 弟子たち、そして私たちがイエスの方を向き、イエスのもとに来た時、天では盛大な祝宴が開かれたのでした。このようにカナの婚礼には「婚礼の祝福」と「復活の祝福」と「悔い改めの祝福」の3つが描かれています。

4.復活したイエスによるきよめ
 もし、これまでのこの説教の話に、「なるほど」と思っていただけたなら、ヨハネの福音書という書物には、イエス・キリストの生涯が描かれていると同時に、もう一つの物語が描かれているということが、分かっていただけることと思います。そのもう一つの物語とは、復活したイエス・キリストに出会った者が、聖霊の働きによってどのようにして救われ、信仰者としての道を歩んで行くか、ということです。きょうは、そのもう一つの物語の全体について詳しく話す時間はありませんが、ごく簡単に話すと、ヨハネの福音書の1章で復活したイエスに出会い、イエスの招きに応じて付き従った者は6章の前半までで聖霊の働きによる救いの恵みを経験し、そして6章の後半から11章まででは今度はイエスを信じない者や迫害者の中に立たされて信仰が試されることになります。
 しかし、12章以降でイエスの時が到来してからはイエスの示す大きな愛に包まれ、「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを授かり、やがて助け主が遣わされるということを教わり、イエスの十字架の受難と復活を経て、「私の羊を飼いなさい」という宣教命令を受けるに至ります。
 このような、もう一つの物語の大きな流れの中にあって、2章にはイエス・キリストの十字架の贖いによる罪のきよめが描かれているのです。

 イエス・キリストの方を向き、付いて行こうと最初の一歩を踏み出した時、イエス・キリストは私たちの心の中を宮きよめの場面のようにして掃除してくださいました。イエスによる心の掃除は、時に乱暴に感じることもあるかもしれません。しかし、私たちの心の中にある罪は簡単に片付けられるものではないことを思えば、これは仕方がないことです。旧約聖書に繰り返し書かれている、反逆する民に対する神の怒りを読めば納得できることでしょう。
 私たち、イエス・キリストを信じる者は、自らがイエスを十字架に追いやった者であることを知っています。そのイエスが復活して私たちの心の掃除をしてくださるのです。このことを良く覚えておきたく思います。
 私たちの自分中心の心がイエスを十字架に追いやり、そのイエスが復活して自分の心の中を掃除してくださっている。このことの重大さに気付いたなら、私たちは心を完全にイエスに明け渡すべきではないでしょうか。イエス・キリストを信じてイエスが私たちの心を掃除をしてくださっても、最初の段階では、まだまだきれいにはなっていません。まだまだイエスに明け渡していない部分が残ります。自分中心の心は、なかなか自分の大切な物を離そうとはしないものです。これら全てを手離すことを「きよめ」と言いますが、これはなかなかに難しいことです。これら全てを手離すと、自分が自分でなくなる、そんな恐れを感じるからでしょうか。
 しかし、イエス・キリストはそれらを全て片付けたいと願っています。イエスが片付けたいと願っている物を必死になって抱きかかえて片付けられないように抵抗するのは、いかがなものでしょうか。あまり見映えのする光景ではありませんね。きよめられるのに必要なことは、ただ単にイエス・キリストに自分の心を明け渡すことだけです。ただ単に明け渡す、これだけで良いのです。そうすれば、イエス・キリストはいつも私たちの心の中の邪魔な物を片付けてくださいます。

5.おわりに ~互いに愛し合いなさい~
 そうして、イエス・キリストに心を明け渡して、余計な物が片付けられると、何とも言えない、気持ちの良さが味わえることでしょう。それは部屋をそうじした時と同じことです。というより、もっともっと良い気持ちがするでしょう。そして、そうした空っぽの部屋の中では、障害物がないので声も良く響くようになります。神様の声もよく響いてくるようになることでしょう。
 さらにまた、心の中に自分の私物がない状態になると、自然と他人を思いやることができるようになることと思います。自分の物が一杯ある間は、自分のことしか考えられませんが、自分の物がなければ他人のことが考えられるようになり、互いに愛し合うことができるようになります。これこそが、イエス・キリストが私たちに望んでいることです。ヨハネ13章でイエスはこのように言っています。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

 イエス・キリストはエルサレムに入京した時、牛や羊を追い出し、自らがいけにえの小羊となって、律法の時代を終焉させました。旧約から新約への歴史的な大転換が行われたのです。その新約の時代の新しい戒めが「互いに愛し合いなさい」です。
 小羊イエスを十字架に追いやったのは、私たちの中にある自分中心の心です。そのイエスが復活して私たちの心の中を掃除してくださり、互いに愛し合うように導いてくださっています。

 イエス・キリストに心を全て明け渡して、互いに愛し合うことができる者としていただこうではありませんか。