映画の「恵みの座」とヨハネのそれ2010年01月13日 15時30分

 映画のエキストラの醍醐味の一つは、映画の撮影現場を内側から見学できることです。撮影現場の見学は外側からでも可能ですが、遠巻きにしか見ることができません。しかし、エキストラになると監督さんが俳優さんに演技指導している様子なども、すぐ近くから見ることができます。現場の息づかいを肌で感じることができます。この恵まれたポジションは映画の「恵みの座」と言えるでしょう。

 さて、「ヨハネの福音書」には、これ以上に素晴らしい「恵みの座」が用意されていることに、最近になって気付きました。
 ヨハネの福音書には、使徒ヨハネの名前は登場しません。従って、表面上は使徒ヨハネがどの場面にいるのか我々には分かりません。しかし、最初にイエスに出会った二人の弟子(1章35節)のうちの一人はヨハネであり、捕らえられたイエスの様子を見にペテロと共に大祭司の中庭に入ったもう一人の弟子(18章15節)もヨハネであろうことは我々にも想像がつきます。

 なぜヨハネは福音書の中で自らの居場所を明らかにしていないのでしょうか?

 それは、私たちにその居場所を提供するためだと私は考えます。

 ヨハネが私たちに居場所を提供してくれているおかげで、私たちは福音書の登場人物たちと同じ場の中に身を置くことができ、彼らの息づかいを肌で感じることができるのです。
 そして、13章以降では、な!な!なんと、ヨハネは「イエスが愛しておられた者」(13:23、19:26、20:2、21:7、21:20)という最上級の「恵みの座」を私たちに提供してくれています。

 何という素晴らしい恵みでしょうか。
 イエスはこれほどまでに私たちを愛してくださり、近くにいてくださるのです。

 ヨハネは我々読者にここまで感じ取ってほしいと思っているのではないでしょうか。

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