風はおのが好むところに吹く2010年01月07日 06時08分


 一昨年の秋、私が神学校に正式に入学する直前のことですが、『風はおのが好むところに吹く』という小冊子を、この冊子を編集した方からいただきました。「タイトルはヨハネ伝3章8節からとった」と編集後記にありました。
 この時以来、私はヨハネの福音書3章8節が何を意味するのかを、折にふれて考えるようになりました。ヨハネ3:8は文語訳ですと「風はおのが…」ですが、新改訳第3版ですと下記になります。

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊(みたま=聖霊)によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

 ギリシャ語でもヘブル語でも、「風」と「霊」は同じ単語が使われています。ですから、紀元前の人々が風と霊を似たものとして見ていた、ということまでは分かります。しかし、どこがどう似ているのか、ということが私には、なかなか分かりませんでした。注解書を読んでも、なかなか納得できる解説はありませんでした。
 ところが、2,3日前、この聖句の意味するところを再び考え始めた時、大きなヒントが与えられました。
 それは、風が移動する様子ではなく、【音】に注目すべきではないか、ということです。このヒントを基に、さらに思い巡らしを続けました。そして下記のような結論を得ました。

 風そのものには【音】はありません。風が音を出すのは、風が空気の振動を誘発するからです。空気の振動が発生するメカニズムは複数あると思いますが、最も単純なのは物体の振動です。例えば声です。声(有声音)は肺からの呼気が声帯を振動させて音になります。
 御霊(=聖霊)の風が吹くとき、神を信じる者の心(魂)は歓喜で震えます。私たちは、素晴らしい感動を味わうことができます。しかし、神を信じない者の心は震えません。
 聖霊の風は絶えず吹いています。多くの場合は、そよ風(やさしい風)であり、稀に激しく吹く時(リバイバル)もあります。そうして聖霊はかたくなな人の心を部分的にも揺らし、それに気付いた者には少しずつそのかたくなさを溶かしていってくれます。そうして心全体が聖霊の風により振動する時、素晴らしい歓喜が訪れます。
 ヨハネの福音書には、読者が聖霊の風を感じることができるように仕込まれた仕掛けが、あちこちにあります。

 ヨハネの福音書3章8節は、そのことを暗に示しています。

 この福音書は本当に深いです。私は益々この福音書の世界に引き込まれていっています ^^

コメント

_ たなかやすこ ― 2010年01月08日 11時08分

KOJIMAさま

学者さんらしいご説明に感心しましたが、まったくアーメンです。ヨハネにはまっていると、最近おっしゃっていましたが、ヨハネ3:8の聖霊についてのこの個所の意味をそのように捉えることができて、感動しておられ、そのひたむきさ故に、私たちもまたその霊の振動が伝わりますから感謝です。

私に最初にここを教えてくれた人は、シスターでしたので、とても優しい表現でした。つまり、『プネウマ』ギリシャ語で霊、息、風、空気などは、同じこの言葉で表わされ、見えないものですが、私たちは木の葉が揺れるのを見て、また風の吹く音を聞いて、ああ風があるんだなぁとか、風が強いんだなぁとかが分かるようなものだとおっしゃったのです。

そういえば音と声も同じギリシャ語の原語だと聞きました。

今私は自分の心のときめきが悪霊の誘惑でなく、神の霊(聖霊)によるものだといつも確信が持てるような生活をしたいと思います。

_ S.KOJIMA ― 2010年01月09日 22時51分

たなかさん、今年もよろしくお願いいたします。
 いつも教会HPに説教を載せてくださり、ありがとうございます。
 今年は私も大胆に恵みの御座に近づかせていただこうと思います。
 1/31の深川教会礼拝説教は大胆に語る予定で、説教原稿も9割ぐらい出来上がりました。その前に、明日10日と24日は教会学校での紙芝居を使ったおはなしがあります。
 教会学校の子ども向けの話の奉仕があるおかげで、礼拝説教も学者っぽい話になるのを防いでくれると思いますから、感謝です。

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