カインの幼稚な信仰2009年08月14日 08時07分

 次の私の礼拝説教担当は8月23日になります。聖書箇所をどうしようか、だいぶ苦しみました。

 8月の礼拝説教を交代で行う牧師先生と、8月中の聖書箇所は旧約聖書から、それもあまり難しくない所からという申し合わせをしています。9日に行った説教の、出エジプト記のアロンとフルの箇所は比較的すんなりと決めることができましたが、あと1回の、23日の聖書箇所をどうしようか、先月の段階からさんざん迷いました。
 ダビデが有力候補で、そこからなかなか離れられずにいました。しかし、ダビデの生涯をたった1回の説教で取り上げるのは無理があります。それで、どうしようかと悩みましたが、どうやらやっと定まってきました。

 「神の憐れみはカインにもアベルにも」と題して、創世記4章1~16節からのメッセージにしようかと思います。兄のカインが弟のアベルを殺した有名な箇所です。
 神様は弟を殺したカインをも憐れんだ、まして殺されたアベルを憐れまないはずがない、つまり神様の前にへりくだる者は死ぬも生きるも関係なく神様が憐れんでくださるというメッセージになろうかと思います。
 それにしても、神に憐れみを請う前のカインの信仰は、読めば読むほどいかにも幼稚で情けない信仰です。そしてそれは、とりもなおさず私たちの信仰そのものであることに気付かされます。

・神へのささげ物は、神への感謝・礼拝のためではなく、ご利益を期待してのものであるために、心がこもっていない(この程度ささげておけば良いだろう、これ以上ささげるのはもったいない)。
・それでいて、自分より神に祝福された者がいると嫉妬する。
・自分の信仰の甘さを反省せず、神に祝福された者への憎しみを却って増大させる。
・罪を犯した現場を神は見てはいないだろうと、たかをくくる。
・神に指摘されると言い逃れをする。
・神に罰を与えられそうになって初めて、自分のしたことの重大さに気付き、憐れみを請う。

 私たちはカインのような殺人まではしませんから、カインと自分とを切り離して見てしまいがちですが、カインの幼稚さは私たち自身であることを覚えたく思います。