祈りの力2009年08月12日 06時55分

 昨日の地震のことでは、お祈りとお見舞いをどうもありがとうございました。

 昨日と今日の予定だった、教会の朝霧一泊キャンプは、今日だけの朝霧遠足に変更になりました。これから、行って来ます。

 9日の日曜日に私が担当した礼拝説教の原稿を載せます。タイトルは「私たちは教会のアロンとフル」でしたが、内容は「祈りの力」の大きさについて話したので、今日の日記のタイトルは「祈りの力」にしました。

2009年8月9日礼拝説教原稿

「私たちは教会のアロンとフル」
聖書箇所:出エジプト記17章8~16節

 今日の聖書箇所は、実は私が昨年の春、まだ高津教会に通っていた時に聞いて非常に励まされた説教と同じ聖書箇所です。その時に私が受けた大きな励ましを静岡教会の皆さんとも是非とも共有したいと思い、今日は同じ聖書箇所を選びました。その時の藤本先生の説教のタイトルは「アドナイ・ニシ」でした。これは、他にも「アドナイ」が地名や祭壇名に使われている「アドナイ・イルエ」、そして「アドナイ・シャロム」のことが書かれている箇所があり、それらとシリーズの説教になっていたからです。
 今日の説教では、特に12節のアロンとフルの役割に注目したく思い、「私たちは教会のアロンとフル」というタイトルでお話しさせていただきます。

 この、出エジプト記の17章というのは、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトの地を出て来てから、まだ間もない頃のことです。モーセが海の上に手を差し伸べると海が二つに割れたので、その海の中の乾いた所を進んで行った、と記されているのが14章です。イスラエルの民が渡りきったところでモーセが海の上に手を差し伸べると、今度は海の水が元に戻ったため、追ってきたエジプトの軍隊は海の中に消えてしまい、もはや追ってくることができなくなりました。その神の偉大な御業を賛美しているのが、15章です。16章では、神は荒野を行く民のために天からパンを降らせてくださいます。そして17章の前半では民はモーセに「飲み水をください」と迫り、不満を爆発させます。神はそんな民のために、ホレブの岩から水が出るようにしてくださいました。

 さて、今日の聖書箇所の17章の後半では、まず
8節「さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った」
とあります。もし地図付きの聖書をお持ちでしたら、後ろの地図の「出エジプトの経路」というページを見てみてください。アマレク人は遊牧民として、カナンとシナイ山(ホレブ山)の間を放浪していました。レフィディムはシナイ山の近くにあります。
 
9節「モーセはヨシュアに言った。『私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。』」

 ここに登場するヨシュアは、ヨシュア記のヨシュアです。ヨシュアがモーセからリーダーの座を引き継いでヨルダン川を渡って行くのは、これから40年後のことです。今朝歌ったインマヌエル賛美歌の481番「あたらしき地に」はヨシュアのように勇ましい信仰者であれという歌です。

 40年後のヨシュアはイスラエルの民を従えて勇ましくヨルダン川を渡って新しい地に踏み出でて行ったことがヨシュア記に記されています。しかし、この時は、まだ戦闘の経験がない若者でした。少し前まではエジプトで奴隷としてレンガ作りをしていたヨシュアたちですから、いきなりアマレク人と戦闘を交えることになって、大きな不安があったに違いありません。
 そんなヨシュアにモーセは「私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます」と言います。「神の杖」、これこそが戦いの陣営の「旗」でした。15節にある「アドナイ・ニシ」(主はわが旗)のニシ、つまり旗でした。

 戦いの旗と言うと、私は思い出すことがあります。それは、高校野球の応援席にひるがえる、大きな校旗です。私は高校生の時、高校野球の夏の静岡県予選で、自分の高校の旗を草薙球場で持ったことがあります。なぜ持ったことがあるかと言うと、当時、私のいた高校では校旗を持つのは剣道部の役目だったからです。本来は応援団の役目なんですが、当時、応援団員の数が非常に少なかったんですね。今のインマヌエルの聖宣神学院の男子神学生の数みたいに少なかったです。ですから、もし応援団員が旗を持つことになると、それだけ応援をリードする人が少なくなってしまいます。と、いうわけで、剣道部員が旗を持っていました。私は剣道部員でした。
 真夏の炎天下に黒い詰め襟の学生服を着て、重い校旗を持つのは大変な役目でしたが、自分の高校の校旗を持つことができたことは、大変光栄で、良い思い出として残っています。

 味方の旗というのは、戦場で戦う戦士にとって、大きな励みになります。モーセは神の杖という旗を持って、丘の頂に立ちました。この旗は単に陣営の「しるし」としての旗ではありませんでした。戦うのは神様でした。神様が共にいてくださり、神様が戦ってくださったからこそ、ヨシュアたちは勝利をおさめることができました。
 勝利をおさめた時、主はモーセに仰せられました。
14節「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。」

 主はこのことを記録として、書き物に書き記すように言われました。モーセの時代というのは、いつ頃のことか、ご存知でしょうか。だいたい紀元前1400年、今から3400年ぐらい前のことです。日本の『古事記』と『日本書紀』が成立したのが紀元700年ぐらい、イエス・キリストが母マリヤから生まれてから700年後のことです。
 『古事記』・『日本書紀』が編纂される700年前にイエス・キリストがいたことが福音書として記録に残され、さらには、そのイエス・キリストが生まれる1400年前にモーセやヨシュアがいて、旧約聖書のモーセ五書として当時の記録に残されたということ。このことの重みを私たちはもっともっと噛み締める必要があるのではないかと私は思います。この3400年前の記録は、その後、忘れ去られることなく、脈々と現代に至るまで伝えられてきました。忘れ去られたことが遺跡の発掘によって発見された、というのではなく、脈々と受け継がれてきました。これこそが、神は生きておられる、ということの良き証しではないでしょうか。
 生きておられる神は共にいてくださり、共に戦ってくださいます。ヨシュアの戦いがそうでした。ギデオンの戦いがそうでした。ダビデの戦いもそうでした。ヨシャパテ王の戦いでは、何と賛美歌を歌う聖歌隊が軍隊の「前に」立ちました。それでも勝利をおさめることができました。

 その、ヨシャパテ王の戦いを、ちょっとご一緒に見てみましょう。
 第二歴代誌20章の15節をまず見てください。
旧約聖書の第二版ですと698ページ、第三版ですと762ページです。

15節「彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍ゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。』」

「この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである」と言っています。

次に20節を見てください。
20節「こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。『ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。』」
21節「それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。
『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』」
22節「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」

 ここには、聖歌隊が武装した者の前に出て行ったことが記されています。

 主が戦ってくださるとは、こういうことです。しかし、このようにして主の戦いで勝利をおさめるには、当然のことながら、主への絶大なる信仰が必要です。
 その信仰を示すために、きょうの聖書箇所でモーセはどのようにしたでしょうか。

出エジプト記17章に戻りましょう。

10節「ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。」
11節「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。」

 モーセは手を上げていたと書いてあります。モーセは祈りの手を上げ、祈っていたのです。
 礼拝の最後に捧げる祝祷のとき、先生は両手を上げて祈っておられますね。この祝祷の一つ前の頌栄から、ずっと真面目に目を閉じておられる方は、ご覧になっていないかもしれませんが、私は時々目を開けて、チラッと見させていただいています。牧師先生によって、上げ方のスタイルがいろいろあるので、先生はどんな上げ方をするのかなと、チラッとだけ見させていただいています。
 モーセはそのようにして、片方の手に神の杖を持ちながらですが、両手を上げて祈っていました。

 信仰で、祈ることほど大切なことはありません。祈ることで神様と交わることができるからです。ここにおられる皆さんの信仰歴は様々だと思いますから、祈りに対する考え方も様々だと思います。皆さんのお一人お一人は、いま、祈りの力というものを、どの程度に評価していらっしゃるでしょうか。

 ここで、祈りについての私のお証しを、少しさせていただきます。
 私は2001年の8月に高津教会に通うようになりましたが、通い始めてから、まだ2回目か3回目ぐらいの時だと思います。礼拝の中で、ある兄弟が挨拶をされました。その兄弟はガンの大手術をして、一時は命が危ない状態にもなりましたが、長い闘病期間を経て、見事に回復して退院し、礼拝に出席できるまでに元気になっていました。
 その時、兄弟はこのような挨拶をされていました。「皆さんのお祈りのおかげで、このように快復しました。お祈りに感謝します。」
これを聞いたとき、私はまだ教会に通い始めたばかりで、祈りの力を全然信じていませんでしたから、この兄弟のことを、心の中であざ笑い、つぶやきました。
「祈りで病気が治るわけないでしょう。」
今から思うと、私こそがあざ笑われなければならない者です。このわたしのあざ笑いとつぶやきは、聖霊を汚す者と言われても仕方がないほどに最大級に大きな罪だったと思います。
 そんな私がどのようにして、祈りの力を信じるようになったのでしょうか。
 まず、教会の中で40代の男性を中心にした組会があり、メールを使ってお祈りの課題をお互いに出し合ったりしていました。そうして、祈りが応えられたことの報告のメールがあると、私はそれは本当に祈りの力なのだろうかと考え、次第に祈りの持つ力に関心を持つようになりました。やがて私は昼の礼拝だけでなく、夜の祈祷会にも段々と参加するようになりました。そして、その祈祷会で教会員の熱心な祈りの言葉を聞くうちに、私は少しずつ変えられていったのだと思います。また、私が教会に通うようになった1年半後の2003年からは、礼拝説教で、旧約聖書の人物が様々な祈りをささげる場面を取り上げた、「祈る人びと」の説教シリーズが始まりました。この祈りの説教のシリーズにより、私は祈りとはどういうものかということについて急速に関心を深め、祈りについての本を何冊も買い求めて、読むようになりました。
 そして、2004年の春に、私にとって、とても大きな出来事が起きました。
 皆さんは覚えておられるでしょうか。イラクで3名の日本人が拉致された事件です。拉致された3名のうちの一人はTさんという女性でした。私は、以前、札幌の、外国人に日本語を教える日本語学校の日本語教師養成科で、Tさんと一緒の教室で半年間、日本語教師になるための勉強をしていたことがありました。
 そのTさんたちがイラクで拉致され、犯人グループにより、自衛隊が72時間以内にイラクから撤退しなければ、人質を殺すという声明が発表されました。
 最初、私はTという名前をニュースで見たとき、何か聞いたことがある名前だなとは思いましたが、すぐには思い出せませんでした。しかし、しばらくして、同じ教室で勉強したTさんだということを思い出しました。
 それから私は急いで当時の日本語教師養成科の仲間と連絡を取り合い、とにかく何とかしなければ、と行動を開始しました。高津教会の皆さんにもお祈りをお願いしました。そして私は、最新の情報を得るためと、できることなら自衛隊に撤退してもらいたい、すぐの撤退は無理でも、一時的に国外へ退去してもらえたらと願い、総理官邸前で開かれた市民集会にも連日参加しました。とにかく私は、この72時間でできることは何でもしようと思い、多くの人に、できるだけ連絡を取り、ホームページも立ち上げ、集会への参加を呼びかけました。
 そうして72時間の期限が切れる朝の前日の深夜には、私は後にも先にもこんなに集中して祈ったことはない、というぐらいに深い祈りを長い時間捧げました。それは、どういう祈りだったかというと、もちろんTさんたち3名の命を助けて下さいという祈りですが、祈っていると雑念が入るんですね。こんなに祈っても、もし殺されてしまったら、どうしようという雑念が入ります。しかし、それでは神様を信用していないということになります。それで、神様は絶対に3名の命を助けてくださると信じ切らなければダメだと思い、雑念を完全に排除し、神様を100%信頼して、神様を信じ切って、祈りに祈りました。ただ、心は燃えていても、肉体は弱いですから、情けないですが、そのうちに疲れて寝てしまいました。
 目が覚めたときは、期限の72時間を過ぎていました。それで、急いでテレビのスイッチを入れてニュースを見て、犯人グループは人質を殺害しなかったということを知りました。この時、私は神様への感謝の気持ちで一杯になり、涙がボロボロ出てきました。この時は世界中で祈りが捧げられていたと思いますから、私一人の祈りが応えられて3人の命が救われたのではなく、多くの人々の祈りの結果だ、ということは、よく分かっています。しかし、この時から、私と神様との関係は、それまでと大きく変わりました。何よりも私は、自分が神様への疑いを一切排除して、神様を完全に信じ切って祈ることができたことを、うれしく思い、そのことを神様はきっと義と認めてくださっていると確信することができましたから、私と神様との距離は一気に縮まったように感じました。そして、そのことにより、私は祈りの絶大な力を確信できるようになりました。

 聖書の出エジプト記17章に戻ります。
11節、モーセは祈りの手を上げていました。神様を100%信じ切って、祈っていました。ですから、モーセの祈りの手が上がっている時は、イスラエルが優勢になりました。

12節「しかし、モーセの手が重くなった。」
 モーセは疲れてきました。心は燃えていても、肉体は弱いのです。モーセの手が下がると、アマレクが優勢になってしまい、やがては負けてしまいます。モーセ一人の祈りでは、もはやイスラエルに勝ち目はありません。その時です。
「彼らは石をとり、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。」

 きょうの説教のタイトルは「私たちは教会のアロンとフル」です。
モーセの手が疲れた時、アロンとフルが両側からモーセの手をしっかりと支えました。
 モーセが疲れたように、信雄先生も疲れます。春子先生も疲れます。役員の方々も疲れます。CSの先生方も疲れます。奏楽の奉仕者も疲れます。
 教会の働き手が疲れた時、私たちはアロンとフルのように支える者にならなければなりません。では、どうやって支えたらよいでしょうか?
祈りです。祈りによって支えます。祈りには、それだけの大きな力があります。

 我々神学生は特に、多くの方々の祈りによって支えられています。私はこのことを日々実感しています。
 昨年の春、私が献身を希望していることを高津教会の藤本先生に相談したとき、先生はしばらくしてから、このことを教会の役員の方々にまず話され、そのさらに1ヶ月後ぐらいに礼拝の説教の中で、私の決意を教会員の皆さん全体に伝えました。その時の礼拝の説教箇所が、きょうの説教箇所の出エジプト記17章でした。説教の最後に、藤本先生は、兄弟をアロンとフルのように支えましょうと言ってくださいました。これは、本当に大きな励ましとなりました。
 神学院でのこれまでの日々の中では、私は本当に疲れてしまったこともありました。しかし、不思議なように回復が与えられ、今日までやってこられたのは、まさに多くの方々のお祈りのおかげだと思います。

 静岡教会でも、これまで多くの尊い祈りが積まれて来たことと思います。
 困難なことがあった時も、祈りの力で乗り越えてくることができたと思います。
 これからも、多くの祈りが必要とされています。
私たちは、モーセの手を支えたアロンとフルのように、祈りをもって教会を支えていきましょう。祈りの持つ大きな力に確信を持って、教会を支えていきましょう。

 最後に、マザー・テレサの次の言葉で、きょうのメッセージを締めくくります。

「生活の中に、いろいろなことが入り込むので祈れない、という言い訳をする人たちがいます。
 そんなことはあり得ません。
 祈るために、仕事を中断する必要はないのです。
 仕事を、祈りであるかのようにし続ければよいのです。
 黙想をいつもしている必要もなければ、神と語っていることを意識することも必要ではありません。
 大切なのは、神と共にあり、神と共に生き、神のみこころを自分のものとして行うことなのです。」

お祈りします。