私の師匠と原田昌樹監督の壮絶な最期2008年03月01日 21時16分

 けさの『ちりとてちん』には泣かされました。
 師匠とおかみさんが弟子を我が子のように思っていたのに、当の弟子はいつまでも他人行儀のままでいて、その挙句に飛び出して行ってしまったことが師匠とおかみさんは許せなかった…。涙が止まりませんでした。私も師匠の下を飛び出して別の専門を本職にしてしまったからです。でも、師匠に教わった専門こそが自分に一番合っていたと気付き、本職の傍ら、師匠が晩年に命を懸けて打ち込んだ10億円の研究プロジェクトに私も参加させてもらいました。そんな私を師匠は優しく受け入れてくれました。亡くなる3ヶ月前の2002年の秋に最後にお会いした時に広島の居酒屋で二人で一緒に飲み、翌日は車で実験室から駅まで送ってくださった時のことを今でも鮮明に覚えています。けさの『ちりとてちん』を見てあの最後にお会いした時を思い起こし、師匠が私を大事に思っていてくださったことの重さに「いまさっき」、気付かされました。
 いまさっきとは、原田昌樹監督の訃報を知った時のことです。原田監督は佐々部監督が助監督時代の先輩で、つい最近、最高裁判所が企画・制作した裁判員制度広報用映画『審理』を撮り終えたばかりの方です。その『審理』の撮影のうちエキストラが必要な3日間に劇団巌流第二級のメンバーに声が掛かったので、私は1日だけ裁判所の傍聴人の役で参加させてもらいました。時間が限られた中にも関わらず出来る限り妥協せずにより良いカメラ位置を求めて撮影スタッフを上手くなだめながら現場を統率していました。時間が押している中で別のカメラ位置を求める監督に不満顔なスタッフもいましたが、笑顔で押し切っていました。今思うと自分の死期が迫っていることを知った上で絶対に妥協しないという覚悟で臨んでいたのかもしれません。原田監督の最期の現場に、たった一日でしたが居合わせることができて幸せでした。原田監督は『審理』をきっちり仕上げて亡くなりました。
 私の師匠も10億円のプロジェクトを論文集の編集完結により、きっちりと締めくくった直後に亡くなりました。その壮絶な最期を今日、原田監督の死を知り、一層重く受けとめるようになりました。その師匠が命を懸けて行なった研究の成果は学会では冷ややかな異端扱いをされています。私はそれが悔しくて仕方がありません。しかし、パラダイムシフトが起きる前の状態とは、それが一般的なことのようです。一月の中旬、私は師匠も予期していなかったほどの畏るべき発見を師匠のやり遺した研究の中でしてしまいました。この発見により師匠の名誉が回復されるだけでなく、この分野の学問も一から組み直さなければなりません。それほどの大発見を学会の人々が容易に認めるとは思えませんが、私も全力でパラダイムシフトに取り組みます。原田監督の訃報に接し、ますますその意が強くなりました。

コメント

_ ジェージェーサリー ― 2008年03月01日 22時33分

あの時はすでに大変だったでしょうに、監督はお元気だったし笑顔でしたよね。まさかこんなこととは・・・。私も泣けてしまいました。イルマーレさんも思うところ一杯のご様子ですが、頑張ってくださいね!

_ S.KOJIMA ― 2008年03月06日 05時40分

ジェージェーサリーさま
 カメラ移動用のレールの軌道の変更を指示するなど、時間がないのにカメラ位置にかなりこだわっていましたね。監督さんが常に笑顔でいましたから現場の雰囲気が悪くならずにいたと思います。できそうでなかなかできないことだと思いました。

_  よゆぽん ― 2008年03月27日 10時05分

おじゃまします。

「審理」「原田昌樹」で検索してこちらに辿り着きました。
原田さんとは「旅の贈りも 0:00発」から某ネットで知り合いました。
「審理」の試写、25日にあったんですよね。
天から試写をご覧になってたんでしょうね。

_ S.KOJIMA ― 2008年03月28日 00時09分

よゆぽんさま
 25日の『審理』の最高裁での試写は、私は仕事で行けませんでしたが、エキストラの仲間のほとんどは行って感銘を受けたようです。私も行きたかった!
 『旅の贈りもの 0:00発』はコテコテの人情話の作りになっているのが気に入り、私も好きな映画です。DVDも買いました ^^

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