永遠に確かなもの2007年03月19日 07時28分

☆草は枯れ、花はしぼむ。
だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
(イザヤ書40章8節)

 昨日の日曜日はいろいろなことがあった。
 まず朝5時に起きなければならなかった。疲れていたので、しばしの葛藤があり、結局布団を出たのは5時半ごろだった。PCに向かい、5月6日の高津教会でのユーオーディア・コンサートのチラシ作りをした。デザインを考え、午前の礼拝前に配るべく、150部印刷した。8時ごろには出来上がったので感謝だった。10時半からの礼拝にはまだ時間があったので、一眠りしたいところだったが、前日の日本語教育方法研究会に来てくださった視覚障害者支援団体の方に御礼のメールを早めに出しておいたほうが良いと思い、メールを書いて送信した。土曜日の研究会では、映画の音声ガイドを日本語教育に活用するアイデアに強い関心を持ってくださった方がいて、大変に心強く思った。4月7日の第1回「日本語教育への音声ガイド活用研究会」は絶対に成功させなければならないと、強く思った。
 礼拝での藤本満先生の説教はヨハネの福音書14章6節を引用しての「私が道です」だった。来週は教団の合同礼拝があるので、今年度の高津教会での最後の礼拝のメッセージとして信仰の基本に立ち返る御言葉をいただけて感謝であった。午後の集会では教会員の兄姉から幸いな信仰の証しが聞けてこれまた大感謝であった。
 午後の集会の後で自宅に戻り、今度こそ一眠りして、夕方は川崎チネチッタに向かい、映画『バッテリー』を見た。予告編では兄と弟の物語のように宣伝していたので、そうなのかなと思っていたら、題名通り投手と捕手のバッテリーの話で、いい映画だった。終わり方もとても良かった。やっぱり映画はこうでなくっちゃ、という感じだ。それにしても萩原聖人さん、すっかりオジサンになっちゃいましたね。山田洋次監督の『学校』に出ていた頃はまだまだ子供っぽさが残る若者だったのに、今ではその時の先生役の西田敏行さん並みの貫禄。自分も年をとるわけだと我が身を振り返り、ちょっと寂しい気がした。
 帰宅してからは録画しておいたカーリング女子世界選手権の日本対ロシア戦を食事しながら観戦。スキップ目黒さんの最後の1投は、ほんのちょこっとだけ強すぎて、ロシアに残念な負け方をしてしまった。惜しい、あまりに惜しすぎる。氷のすべりが良すぎるのに戸惑っており、カーリングの難しさ、奥深さがまた1つ分かった一戦だった。
 チネチッタへ向かう行き帰りの電車とチネチッタでの上映開始までの間には、読みかけの飯塚訓『墜落遺体』(講談社+α文庫)を読み、読み終えることができた。これは山口のPさんのブログで紹介されていた本で、1985年の日航ジャンボ機墜落事故で520名分の遺体の身元確認作業の陣頭指揮を執った警察官が自ら描いた凄まじいノンフィクションだ。Pさんのブログに日本人と外国人で遺体に対する思い入れが全然違うということが書かれていて俄然読みたくなり、アマゾンのお急ぎ便で翌日には手に入れていたものだ。
 日本人と外国人の遺体に対する考え方の違いには宗教観の違いが浮き彫りになっているはずだと思って取り寄せた本であり、果たして著者も「宗教観」という言葉を使ってこの違いを考察していた。確かにその通りなのだろうと思う。しかし私はさらにもう一歩踏み込んで、確かなものを持つ者と持たない者の違いと考えたいと思った。遺体を大事に思う者は他に確かなものを持たないから遺体を確かなものとして大事に思うのだと言ったら言い過ぎであろうか。このブログを読んで不愉快に思う方がいたら申し訳なく思うが、私自身もかつては確かなものを持たずに荒れ野をさまよっていた者だから分かるのだ。では、確かなものとは何か。それは冒頭に示した通り、神のことばだ。私たち聖書を読む者は、この中にある御言葉にしっかりと支えられて日々を過ごしている。今ではあまりに安定し過ぎていて、不安を抱えて生きていた頃の不安定さが懐かしいと不謹慎なことを思ってしまうほどに聖書は私の心の背骨をしっかりと安定させてくれている。神のことばは肉体のように朽ち果てることはなく永遠に残るものであり、それを信じる者には永遠の命が与えられる。遺体は貴いものであり、それを出来得る限りの努力で丁重に扱い、きれいにして遺族のもとに戻した日航ジャンボ機事故処理関係者の活動もまた大変に貴いものであり、敬意を表したい。しかしそれ以上に貴いものが他にあるということを再認識することができた一冊でもあり、この本を読むことができたこともまた感謝であった。

☆初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
 (ヨハネの福音書1章1節)

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