人類は何故ヨハネの福音書の多重時間構造に気付かなかったのか?2014年02月24日 11時37分

 『東京難民』を観るための平塚遠征は、いろいろ用事があって明日になる予定です。

 さて、今朝のtwitterでのつぶやきを以下にまとめます。「人類は何故ヨハネの福音書の多重時間構造に気付かなかったのか?」の問題の重要性が広く認識されるようになるまで、粘り強く広報活動を続けたいと思います。

 ヨハネの福音書は「イエスの時代」に「旧約の時代」と「使徒の時代」を重ねた多重時間構造を持つ。人類が何故この構造に気付かなかったのかの解明は平和実現に貢献すると思う。従って私一人が無い知恵を絞るのでなく、人類全体で考えるべきだ。この問題の重要性がわかってもらえるまで地道に頑張ろう。

 ヨハネの福音書の多重時間構造の例①:9章の「盲人の開眼」の背後には旧約の善王ヨシヤの時代の「律法の書の発見」と使徒の時代の「パウロの開眼」がある。例②:8章の「悪魔」(44節)の背後には旧約の悪王マナセ・アモンの時代の「悪行」と使徒の時代の「ステパノやイエス信者への迫害」がある。

 ヨハネの福音書の多重時間構造の例③:7章でイエスが大声で宣教したことの背後には旧約のヒゼキヤ王の時代のイザヤの預言と使徒の時代の五旬節の聖霊降臨がある。逆に並べたが、例①~③のように背後の「旧約の時代」と「使徒の時代」は時間順に並んでいる。人類は何故この構造に気付かなかったのか?

 人類がなぜヨハネの福音書の多重時間構造に気付かなかったのか?要因の一つはマタイ・マルコ・ルカとヨハネは同類の書であるという強烈な思い込み。しかしマタイ・マルコ・ルカはイエスの地上生涯を描き、ヨハネは永遠の中を生きるイエスを描いたのだから全く違う。天動説と地動説ほどの大きな違いだ。

 マタイ・マルコ・ルカの福音書は地球に、ヨハネの福音書は宇宙に例えることができる。マタイ・マルコ・ルカと同じ地球の視座からヨハネの宇宙を眺めるから天動説になってしまう。イエスがいる旧約の時代・イエスの時代・使徒の時代・現代が一体の永遠という広大な時空に私達読者も身を置く必要がある。

 宇宙サイズのヨハネの福音書を、マタイ・マルコ・ルカの福音書と同様の地球サイズにしか捉えていなかったのは、人類の思考回路に何か重大な欠陥があるからではないか。だから人類は互いに愛せず戦争を繰り返すのではないか。この重大な欠陥の究明に人類が英知を結集するなら世界は平和に向かうだろう。

身近にある永遠2014年02月09日 00時16分

「身近にある永遠」
(沼津コーストFM76.7MHz「潮風の中で」2014年2月8日放送)

 今夜は「永遠」について、皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。
 「永遠」と聞くと、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか。現在から未来へと続く時間の先にある、「遠い未来」のことを思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。あるいは「遠い過去」から「遠い未来」までの時間のつながりを感じる方もいらっしゃるかもしれません。いずれにしても、時間を一本の直線のようにイメージして、その遠い先にあるのが「永遠」であると考える方が多いのではないでしょうか。私自身も以前は、「永遠」とは現在から未来への時間の延長線上にある、「遠い未来」のことというイメージを持っていました。
 しかし聖書を深く学ぶようになり、また現代物理学に関する一般向けの本などをあれこれ読んで思いを巡らすうちに、実は時間とは一本の直線で表せるようなものではなく、また「永遠」も遠くにあるものではないのだと、私は考えるようになりました。「永遠」とは、実は私たちが考えているよりも、もっとずっと近くにあるもののようです。
 例えば、こんな風に考えてみたらどうでしょうか。良く晴れた夜に暗い開けた場所に立つと、たくさんの星を見ることができます。その時私たちは、いろいろな距離からのたくさんの光を浴びています。もし星だけでなく地上の光も見えているなら、一番近い距離にある光は地上の光です。次に遠いのは、もし夜空を飛行機が飛んでいるなら、飛行機からの光でしょう。そして月が出ていれば、月からの光も、比較的近くからの光です。次に遠いのは火星や木星などの惑星の光ですね。そして一番たくさん見える光は、私たちの銀河にある星からの光です。それらの光は、近い星からは数年前、遠い星からは数万年前に出た光です。また、私たちの銀河の外にあるアンドロメダ星雲からの光は約250万年前に出た光だそうです。このように私たちは、様々な距離にある遠い過去の光から比較的最近の光に至るまでの色々な光を同時に浴びています。それはつまり、私たちは色々な時間に包まれているということではないでしょうか。
 時間を、過去から未来へ向かって飛ぶ弓矢の矢で表現するなら、私たちは、矢が存在している「今」という瞬間にしかいないことになります。その場合、「過去」や「未来」は私たちが「今」いる所とは別のところにあります。しかし、たくさんの星の光を浴びている私たちは、実は飛んでいる矢の中にいるのではなくて、「過去」も「現在」も「未来」も渾然一体となった時間の中にいるのではないでしょうか。
 このことは、永遠の中を生きる神について書かれた聖書についても、同様のことが言えます。いま私の手元には一冊の聖書があります。聖書にはいろいろな時代についての記事が、ほぼ時代順に一冊の中に収められています。聖書のおしまいの方、つまり現代に近い方から簡単に説明して行くと、聖書の最後には、未来について書かれたヨハネの黙示録があります。その前にはペテロやヨハネやパウロなどの使徒たちの手紙の書簡集と彼らの働きについて書かれた使徒行伝があり、その前にはイエス・キリストの言動を記した福音書があります。ここまでが新約聖書です。これらの新約聖書の記事は紀元1世紀に書かれました。また、新約聖書より前の紀元前に書かれた旧約聖書も現代に近い方から見て行くと、イスラエルがペルシャ帝国やバビロニア帝国に支配されていた時代の記事があり、その前にはヒゼキヤ王やソロモン王、ダビデ王などのイスラエルの王たちの時代の記事があり、さらにその前には、モーセやアブラハムの時代のことが書かれています。このように聖書には様々な時代のことが書かれていますが、これらの時代の全てを支配しているのは唯一の神です。この唯一の神は永遠の中を生きていますから、旧約聖書の時代も新約聖書の時代も、そして現代も同時に生きています。そして、その神は聖書のことばを通して現代の私たちに語り掛けて来ます。この状況は、私たちが星の光を浴びているのと、とても良く似ていると思います。聖書の神のことばは、モーセやイザヤなど、様々な時代の預言者たちを通して語られ、それらを現代の私たちが受け取ります。ですから聖書のことばは、過去の人々に対してだけではなく、現代の私たちに対しても語られています。
 私たちが様々な時代からの星の光の中にいるように、私たちは様々な時代からの神のことばの中にいます。神は永遠の中にいますから、この神を信じるなら、私たちもまた永遠の中に入れられます。ですから、この永遠とは、遠い所にあるものではなく、もっとずっと身近にあるものです。私たちは聖書のことばを通して、永遠を身近に感じることができます。それゆえ聖書に親しむようになると2千年前のイエス・キリストの十字架の出来事も身近に感じますし、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出した3千年以上も前の出来事も、とても身近な出来事として感じるようになります。
 時間が、飛んでいる矢のようなものだとすると2千年前の十字架は、遥か昔の出来事です。しかし、聖書に親しむようになると2千年前が昔ではなくなるということは、実は時間とは飛んでいる矢のようなものではなく、星の光のようなものであると言えるのではないでしょうか。私は今、54歳ですが、目をつむって私のこれまでの人生を振り返るなら、小学生の時代のことも昔のこととは感じずに、ついこの間のことのように感じます。時間とはそういうものではないでしょうか。自分の姿を鏡で見ると、年を取ったなあと感じ、昔には戻れないと思ってしまいますが、目をつむれば、すぐに昔に戻ることができます。目に見える世界と目に見えない世界とでは随分と違うのですね。実は物理学の量子力学の世界でも、目に見えない小さな粒子は、目に見える大きな物とは全く違う時間の中にいることがわかっています。ですから、目に見える世界が本当の世界ではなく、実は目に見えない世界の方が本当の世界なのかもしれません。人間の目に見える世界は、人間の脳が作り出す世界です。脳はいろいろな錯覚も起こしますから、目に見える世界が本当の世界かどうかは怪しいと思います。たとえば映画のフィルムの1コマ1コマは本当は止まっているのに、私たちの目には映像が動いているように見えます。本当は止まっているのに動いて見えるのですから、目に見える世界が必ずしも本当の世界ではありません。
 このコーストFMの放送もまた、目には見えない電波を利用していますね。電波はテレビや携帯電話や様々な通信に利用されていますから、現代の私たちの便利な暮らしに電波は欠かせません。X線や赤外線も目には見えませんが、私たちの生活の役に立っています。このように、私たちの生活の多くは、目に見えないものによって支えられています。
 そして聖書の世界もまた、目には見えない世界です。目には見えませんが世界中の多くの人々が聖書の神のことばに支えられて生きています。目に見えない神のことばは私たちを慰め、励まし、私たちに生きる希望と力を与えてくれます。
 ここで聖書のことばを一つお読みします。新約聖書のヨハネの福音書13章34節です。これはイエス・キリストが最後の晩餐の席で弟子たちに語ったことばです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 イエス・キリストは永遠の中を生きていますから、この弟子たちに対する「互いに愛し合いなさい」ということばは、現代の私たちに対することばでもあります。イエスは、私たちに「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言いました。しかし、私たちはどうでしょうか。私たちは争い事を繰り返してばかりいて、互いに愛し合うことができていないのではないでしょうか。
 どうして私たちは、互いに愛し合うことができないのでしょうか。それは、私たちが時間のことを飛んでいる矢のように考えているからではないでしょうか。そして、「永遠」を遠い所にあるものだと思い込んでいるからではないでしょうか。私たちの多くは過去に人から傷つけられた経験があるでしょう。それゆえ私たちは自分を傷つけた相手を恨み、今度は自分が加害者になって相手を傷つけたりします。そうして人は代わり番こに人を傷つけたり傷つけられたりします。相手が同じでなくても、人は自分がやられたことを今度は別の人に対して行って鬱憤を晴らしたりします。時間を飛んでいる矢のように考えてしまうと、どうしてもこのような争いを繰り返してしまうことになります。自分が相手を傷つける時、相手の痛みがなかなかわかりません。自分が傷つけられている時は痛みがわかりますが、相手を傷つけるとき、その痛みを忘れてしまいます。
 しかし時間が、星の光のように過去も現在も未来も渾然一体になっているなら、自分は人から傷つけられるだけではなく、人を傷つける罪深い存在であることもわかるのではないでしょうか。過去も未来も一体の時間の中にいるなら、自分の痛みが相手の痛みでもあることがわかります。こうして誰もが皆、被害者であると同時に加害者でもあるのだという共通認識を、多くの人々が共有するようになるなら、私たちは互いに赦し合うことができるようになり、そして互いに愛し合うことができるようになるのではないでしょうか。
 イエス・キリストの「互いに愛し合いなさい」ということばは、私たちが過去も現在も未来も渾然一体になった永遠の中にいることを前提にしたことばではないでしょうか。なぜなら、イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言ったからです。イエス・キリストは永遠の中にいます。永遠の中にいるイエスが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言ったのですから、私たちも永遠の中にいて、互いに愛し合わなければなりません。永遠とは、決して遠い所にあるものではなく、身近にあるものです。この過去・現在・未来が一体の永遠は、聖書に親しむようになると身近に感じることができるようになります。
 時間を飛ぶ矢のように考えている間は、私たちの生活は良くなったり悪くなったりを繰り返しますから、心がなかなか安定しません。安定しないから人を攻撃するようなことにもなるのでしょう。しかし、過去・現在・未来が渾然一体の永遠の中に身を置くことができるようになると、驚くほどの心の安定を得ることができます。聖書に親しみ、2千年前のイエス・キリストの十字架の出来事を身近に感じることができるようになるなら、この素晴らしい恵みを感じることができます。
 明日の日曜日は、是非お近くの教会にお出掛けになって、聖書のことばに触れる時をお持ちになってみませんか。皆さんが、永遠を感じる恵みを経験することができますように、お祈りしています。

「潮風の中で」2014年02月01日 07時50分


 沼津地域のFM放送局コーストエフエム76.7MHzの番組「潮風の中で」(毎月第二・第四土曜19時~19時半)では、讃美歌が何曲か流され、その合間に沼津のキリスト教会の牧師が交代で話をしています。

 2月8日(土)の放送では、私が「永遠」について語ります。昨日、進行役の先生に原稿を送稿しました。収録は7日(金)の晩にあります。

 聴取可能エリアは上図の地域です。

 放送終了後には、こちらのブログにも放送原稿をアップしようと思います。よろしくお願いします。

あけましておめでとうございます2014年01月02日 12時32分


 新年あけましておめでとうございます。

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

クリスマスは教会へ2013年12月21日 05時47分


 12月22日は、どこの教会においてもクリスマス礼拝が持たれます。初めての方でも歓迎されますので、お近くの教会に出掛けてみてはいかがでしょうか。

 12月24日のクリスマスイブにも、多くの教会でキャンドルサービスなどの時が持たれます。こちらも、初めての方でも歓迎されます。

 今年のクリスマスは教会で過ごしてみませんか。

 上のチラシは沼津市内の教会のクリスマスの案内ですが、全国どこの教会でも、日程はだいたい同じです(クリックすると拡大表示されます)。

悪魔の時間観2013年12月20日 08時31分

 今朝、下記をtwitterにてつぶやきました。ヨハネの永遠の時間観の全貌を説き明かす本が完成しないうちは、いくら永遠の時間観について一生懸命に語っても理解してもらえないことはわかっているので、私も今の所は、ささやかにつぶやいている程度です。それでも、もしかしたら理解してくれる人が少しはいるかもしれないと思って、ちょこちょこつぶやいているのですが、今のところ目立った反応はありませんから、やっぱり、この世は悪魔がガッチリと支配しているのだなと思います。本を何とか早くに完成させて出版の可能性を探りたいです。

(以下、今朝のtwitterでのつぶやき)

 悪魔の正体がわかった気がする。憎しみや悲しみや絶望、虚無や戦争を生む【過去→現在→未来】の直線的な時間観こそが悪魔だったのだ。
 ヨハネの【過去・現在・未来】が一体の時間観が私たちを暗闇から救う。

「今、この世を支配する者は追い出されるのです」(ヨハネ12:31)

 https://twitter.com/chissonosuke

平和な世へのパラダイムシフトを目指して2013年12月12日 05時51分

 戦争ができる国への準備が加速している今の日本。

 だからこそ今、日本発で「戦争の世」から「平和な世」へパラダイムを移行させる働きを始めなければなりません。

 『平和な世へのパラダイムシフトを目指して』

 是非、お読み下さい(上記タイトルをクリックすると読めます)。

滅びへ向かう私たちの国2013年12月06日 06時43分

 聖書に何が書いてあるかについて、これまで私はもっぱら、神の愛について語って来ました。神の怒りについては語ることを好まなかったので、ほとんど語って来ませんでした。

 しかし、このところの秘密保護法案を巡る国政の状況を見ていて、この国は神の怒りにより滅びへと向かうであろうことを感じるようになりましたから、これからは神の怒りについても語ることにします。

 いま私はヨハネの福音書の永遠の時間観に関する本を執筆中です。今朝はヨハネ15章について書いています。このヨハネ15章の説明で私は滅びについて書く予定は全くありませんでした。しかし、昨日からのニュースを見ていて、滅び、そして神の怒りについて書かなければならないと感じ、そのようにしました。

(以下、執筆中の原稿より)

 御子イエスにつながる者は多くの実を結んで永遠のいのちを得ますが、つながらない者は滅びへと向かいます。

「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(ヨハネ15:6)

 イエスにつながらない者が滅びるのは、神の怒りがその者の上にとどまるからです。ヨハネ3章に次のように書いてある通りです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

 神は不信仰な者に対しては怒りを顕わにします。預言者エレミヤは、不信仰なエルサレムの民に対する神の怒りを叫びつづけました。

「なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか。彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語り、『わたしはなんということをしたのか』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。」(エレミヤ8:5,6)

「エルサレムよ。いったい、だれがおまえをあわれもう。だれがおまえのために嘆こう…おまえがわたしを捨てたのだ ― 主の御告げ― おまえはわたしに背を向けた。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。(エレミヤ15:5,6)

 永遠の時間の中では、神が怒ってばかりいた時代が【過去】に過ぎ去ったわけではなく、【現在】においても存在しています。それゆえ、現代を生きる私たちも不信仰であるなら神の怒りが私たちの上にとどまります。もし現代を生きる私たちの大多数が不信仰であるなら、世界は目に見える形で滅びへと向かって行くでしょう。

 霊的に鈍感な者が大多数を占める現代人の現況を見ると、世界はいつ滅びへ向かってもおかしくない状況にあると私は感じています。そうなる前に私たちはヨハネの永遠の時間観を身に付けて平和を実現しなければならないのだと思います。

『飛べ!ダコタ』2013年11月19日 23時54分


 きょう三島で映画『飛べ!ダコタ』(監督・油谷誠至、主演・比嘉愛未)を観ました。今年私が劇場で観た映画ではNo.1だと思いました。そして、きょう感じたことを文章にして残しておく必要を感じました。

【解説】(公式サイトより)
「これは、いまから67年前に、実際にあった出来事である。昭和21年1月14日――太平洋戦争の終結からわずか5ヶ月後のこと。佐渡島の小さな村に、イギリス軍の要人機《ダコタ》が不時着した。わずか5ヶ月前まで、敵国だったイギリス兵の予期せぬ来訪に、驚き、戸惑う村民たち。だが、『困った人を助けるのが「佐渡ん人間(さどんもん)』の精神を貫き、国境を越えた友情と絆を育み、《ダコタ》をふたたび大空へと飛び立たせたのだ。そこには、日英共に戦争という忘れ難い痛みと憎しみを乗り越え、再生と平和への一歩を踏み出そうとする、願いと決意が込められていた。
 それから、64年の歳月が流れて、《ダコタ》の修理を行った整備士の息子が、佐渡を来訪するという出来事があった。彼は、すでに他界した父がこの地で大変お世話になったこと。そして、もう一度、佐渡に行きたいと思いを馳せながら死んだことを告げた。国境を越えた絆は、いまでも人々の心に脈々と生き続けていたのだ。これを機に、『この事実を風化させてはならない』と願う、地元フィルムコミッションの働きかけによって、総製作費約2億円を投じて、ついにその映画化が実現した。」

 わずか5ヶ月前までは敵国だったイギリス兵に対して取った佐渡の人々の行動は非常に聖書的であったと思います。佐渡の人々はほとんど聖書を知らなかっただろうと思いますが、聖書的な行いをすることができました。つまり「福音の文化」の担い手として優れた資質を持つ、信仰の優等生候補と言えるのではないかと思います。このような人々に対して、もし聖書の教えを伝えるとするなら、どのようにアプローチすべきでしょうか。一つ言えることは、彼らが単に聖書を知らないという理由だけで「彼らの信仰は幼稚である」と決めて掛かってはいけないということだろうと思いました。
 佐渡の人々の心を日本人の多くも持っていると思います。『飛べ!ダコタ』を観て私は、日本人に聖書の教えを伝える場合にも、日本人が単に聖書を知らないという理由だけで「日本人の信仰は幼稚である」と決めて掛かってはいけないと感じています。スコット・マクナイト『福音の再発見』が説くところの「福音の文化」の担い手として、日本人は優れた資質を持つ信仰の優等生候補であると私は思います。
 この映画を観て、日本人の心に聖書の教えがフィットする可能性の大きさを感じることができましたから、とても感謝でした。
『飛べ!ダコタ』公式サイト
 http://www.tobedakota.com/

中秋のジョギング2013年09月19日 19時09分

 きょうの夕方の海辺のジョギングは気持ち良かった~。

 西に沈む夕陽に向かって走り、沈んでからUターンして、今度は東から昇る満月に向かって走りました。

 富士山と駿河湾を両サイドに見ながら夕陽と中秋の名月も楽しめる最高のひと時でした ^^