聖書はなぜ平和の役に立っていないのか2014年10月16日 10時45分

 聖書が平和を説いているのに、なぜ世界は平和にならないのか。聖書はなぜ平和の役に立っていないのか。このテーマについて、ここ何か月か考えて来たが、当初は全く考えていなかった方向で考えがまとまりつつある。

 聖書が平和の役に立っていないのは、聖書を実生活の役に立たせようとする傾向が強すぎるからではないか。実生活の役とは、例えば日常生活の道徳の規範にすることだ。これは聖書の正しい用い方ではあるが、これが過ぎると聖書が描く壮大な世界に思いが行かなくなり、却って聖書の読者の視野を狭める。

 このように考えるようになったきっかけは、2014年10月8日付の朝日新聞デジタルで次のような記事を目にしたことだ。これは青色LEDの作製に成功した日本人研究者にノーベル物理学賞が授与されることになったことに対する、小柴昌俊氏(2002年ノーベル物理学賞受賞者)のコメントである。

「一番うらやましいのが実生活に役立つ発明で受賞されること。私は史上はじめて自然に発生したニュートリノの観測に成功したことで受賞しましたが、これと言って実生活にお役に立ったという実感がありません。自分の発明で人々が幸せになる。その功績でノーベル賞をいただく。このうえない喜びでしょうね。」

 この記事を読んだ時に私は、「小柴先生の研究は平和の役に立っているのに」と思った。小柴氏は宇宙の遥か彼方で起きた超新星爆発で発生したニュートリノを観測した。壮大な宇宙に思いを馳せている時、人は狭い地球上で戦争をすることなど考えないであろう。それゆえ小柴氏の研究は平和に貢献しているのだ。

 飛行機のことを考えてみよう。もし飛行機が空中散歩を楽しむだけの乗り物であったなら、戦争には使われなかっただろう。熱気球やパラグライダーは現代の戦争には使われない。飛行機は道路が無い場所を高速で移動できるという実生活の役に立つ乗り物になったために、戦争に使われるようになってしまった。

 科学者は科学の大空の空中散歩を楽しんでいる時が、一番平和な時であろう。核分裂の発見も、既知の学説では説明できない未知の現象であった間は、科学者は真理の探究を楽しむ平和があった。しかし原子核が分裂して質量欠損が生じていると分かった時、核兵器開発への道が開けて平和ではなくなった。

 『荘子』は九万里の上空を飛翔する雄大な大鵬の話で始まるが、恵子は荘子の話は大きいだけで何の役にも立たないと批判した。それに対して荘子は、こぶだらけで曲がりくねった大木は木材として役に立たないので切り倒される心配もない、君もその木陰でゆうゆうと昼寝でもしたら良い、と諭した。

 聖書の読者の多くは、聖書の大空の空中散歩や、聖書の大木の陰でゆうゆうと昼寝をする楽しみ方を知らないのではないか。聖書の言葉を実生活に役立てることを優先して、役に立たない大きなことにゆったりと思いを巡らすゆとりが無いのではないか。聖書が平和の役に立っていないのはそのためではないか。

 実生活の「過去→現在→未来」という時間の流れを離れて聖書を読むなら、過去・現在・未来が一体になった永遠の中を生きるイエス・キリストの姿が見えるようになる。実生活とは違う永遠の中にいる御父と御子と交わる喜びを味わえるようになって初めて、聖書の読者は平和を作る幸いな者になれるのであろう。

光の三原色と三位一体の神論2014年10月08日 06時47分

 便乗とは軽薄だが、この際、青色LEDに便乗して、以前から温めていた三位一体の神を光の三原色に例える試みを、推進させてみようと思う。青・緑・赤の光から白色の光を作り出せることをマスコミが説明してくれているので、今ならわかってもらいやすいのではないかと思う。なお、以下の例えはヨハネの福音書の理解から得られることである。

 父・御子・聖霊の三位一体の神を青・緑・赤からなる白色光に例えてみたい。ふだん我々が感じている神は白色光である。この白色光を分光すると父・御子・聖霊の性質に分かれて見えるのである。ただし、ここまでの例えなら、私だけでなく多くの人が考えることであろう。面白いのはここからだ。

 預言者・イエス・使徒にはフィルターのような働きがあって、白色光の三位一体の神は預言者を通ると父だけが見えるようになる。同様にイエスというフィルターを通ると御子が見え、使徒のフィルターを通ると聖霊が見える(この場合の「見える」とは霊的に見えるという意味である)。

 ヨハネの福音書がわかりづらいのは、イエスが地上生涯のイエスだけでなく、預言者としても、復活後のイエスとしても、或いはまた御使いとしても登場している点にある(御使いというフィルターは預言者のフィルターともまた異なるのでなかなか興味深いが、ここでは深くは追究しない)。

 以上は単なる例え話であるので青・緑・赤の光が父・御子・聖霊のどれに対応するかまで考える必要は無いと思うが、あえて対応させるとすれば、エネルギーが一番高い青色の光が第一の位格の父、次にエネルギーが高い緑色の光が第二の位格の御子、三番目の赤色が第三の位格の聖霊ということになるであろうか。

『平和と聖書』2014年09月11日 06時47分

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日時:9月15日(月・祝)午後2時~
場所:沼津・千本プラザ
メッセージ:『平和と聖書』

お近くの方は、是非いらして下さい。

時間の荒野を放浪する私たち2014年09月06日 04時27分

 時間は人間の脳の中で組み立てられますから、時間が無いエデンの園にいたアダムが「善悪の知識の木」の実を食べたことで時間が有る世界に追放されたことは、人間がなぜ「流れる時間」の中で苦しんでいるのかを見事に描写していると思います。
 イエスを信じて永遠の命を与えられた者は、この「流れる時間」の苦悩からは既に解放されている筈なのですが、クリスチャンでさえ未だに苦しんでいます。これはモーセに率いられてエジプトから救い出されたイスラエルの民が、カナンに定住するまでの40年間を荒野の放浪で苦しんだ状況と似ているように見えます。十字架から二千年経った今、そろそろ「降り積もる時間」の中で安住すべき時が来ているのだと感じています。

折り鶴2014年08月09日 12時27分


 広島の式典の冊子に入っていた金紙で鶴を折りました。今年の広島の原爆の日は雨で、傘を手にしていたので会場で折ることができなかったのです。

 長崎の式典のテレビ中継を見ながら折りました。核兵器の無い世界、戦争の無い平和な世界の実現を祈りつつ。

「みことばの糸」の解き明かし2014年07月29日 06時30分

 前回の独言でみことばを蚕(カイコ)が吐き出す繭糸に例えたのは、みことばを聞く私たちが過去→現在→未来という線的な時間観に囚われているという含みがある。

 みことばの源泉の神の愛には時間が存在しないが、みことばの糸には人間の線的な時間が伴う。先に語られたみことばは旧く、後に語られたみことばは新しいと人間は判断するが、源泉においては過去・現在・未来が混然としている。それゆえ新約における旧約の預言の成就も不思議なことではない。

 イエス・キリストがみことばの糸を供給するのは霊的に十分に覚醒していない私たちでも神の愛のことがわかるようになるためであるから、神の愛のことが少しでもわかるようになったのなら、いつまでも線的な時間観の中にいるのでなく、過去も現在も未来も渾然一体となった神の愛の中にどっぷりと浸るべきである。

 神の愛に満たされ、線的な時間観の奴隷状態から解放されて自由になるなら、過去の恨みを未来の復讐で晴らす報復の連鎖からも脱却できるであろう。領土や領海を巡る争いも線的な狭い時間観と無縁ではない。人は狭い時間の中で相手よりも優位な位置に立とうと懸命になるが、神の愛の中では優劣は存在しない。

みことばの源泉「神の愛」に浸ろう2014年07月29日 04時44分

『みことばの源泉「神の愛」に浸ろう』
~平和をつくる聖書の味わい方~

 「ことば」であるイエス・キリストの働きを、繭糸を吐き出す蚕(カイコ)の働きに例えてみたい。

 蚕は繭糸の原液を糸にして吐き出す。人間はその糸を拠り、布を編み、衣服等を作る。

 イエス・キリストは「神の愛」という源泉からみことばの糸を人々に供給する。人はそのみことばの糸を拠り、聖書という布を編み、聖書を題材にした本という衣服などの布製品を作る。そして人は、この服はデザインが良いとか悪いとか、着心地が良いとか悪いとか様々に論評し合ったりする。

 しかし、そもそもイエス・キリストがみことばの糸を供給し、聖書の記者たちが糸を拠り、聖書の編者が聖書の布を編んだのは、人々を「神の愛」の源泉に導くためではないのか。生まれながらの人間は霊的に覚醒していないので源泉の存在に気付くことができない。聖書が必要なのはそのためだが、イエス・キリストを信じて聖霊が注がれたなら、源泉の「神の愛」を感じることができるようになる。

 それゆえ聖霊が注がれて「神の愛」に気付いた者たちがすべきことは衣服を着て布地や衣服について論評し合うことではなく、裸になって源泉の湯にどっぷりと浸かることではないか。裸になってすべてを神の愛に委ねる時、私たちの心は平和で満たされる。従って私たちが作るべき布製品は衣服ではなく、温泉の入口の「のれん」である(笑)

日本ができる最高の平和貢献2014年06月27日 08時09分

 日本が世界の中で出来る最高の平和貢献は聖書を究めることではないか。多くの日本人は聖書に馴染みがないので先入観なく聖書を読むことができる。聖書にはまだまだわからないことがたくさんある。これらが解明されれば平和に貢献できる。
 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教とのしがらみがほとんど無いのも日本の強みだ。

『アオギリにたくして』2014年06月06日 06時21分


 昨晩、沼津の試写会で『アオギリにたくして』を観ました。制作者たちの熱い想いが伝わって来る映画でした。沼津での7月17日の上映会に向けて私も宣伝させていただきます。

 広島で被爆して焼けただれたアオギリが翌年に新芽を吹いた時、多くの人々に希望を与えたと言われ、絶望の中にいたこの映画のヒロインもまた、再び立ち上がることができました。

 若い葉を付けた被曝アオギリのシーンで私は旧約聖書のイザヤ書53章を思い起こしました。

「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。
 彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」
(イザヤ書53章2,3節)

 この映画は被爆者の方々が肉体的なダメージだけでなく、差別という精神的な苦しみも受けていたことも伝えています。このような悲劇が二度と起こさぬため、平和のための働きに一層励まなければなりません。

 http://muse-aogiri.seesaa.net/article/398801330.html

永遠の中を生きるイエス2014年02月25日 09時58分

 ヨハネの福音書のイエスが永遠の中を生きていることを、人になかなか理解していただくことができていません。何故かと考えて、まだちゃんと説明していないことがあると気付きました。イエスが永遠の中を生きていることを示す重要な聖句は、
「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)
です。

 イエスは、また、
「わたしはその方(父)から聞いたことをそのまま世に告げる」(8:26)
「ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」(8:28)
「わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話している」(12:50)
と言いました。

 ヨハネの福音書のイエスは以上のように、父と一つであり、且つ父が言う通りのことを話しています。これらの事柄と、背後に「旧約の時代」が重ねられている事とを考え合わせると、モーセやイザヤやエレミヤなどの預言者が聖霊の働きによって語った父のことばは、実はイエスが語ったということになります。

 永遠の中を生きる父と一つのイエスはエレミヤの口を通して、
「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼす牧者たち」(エレミヤ23:1)
と嘆くと同時に、
「わたしは、良い牧者です」(ヨハネ10:11)
と言っています。このようにイエスは父・御子・聖霊の三位一体の神として複数の時代を同時に生きています。