『悪人』を観て2011年11月07日 11時18分

 昨晩のTV放映で映画『悪人』を観ました。

 劇場公開時は横浜の寮にいたので自由に映画を観に行ける環境ではありませんでしたし、タイトルにも魅力を感じなかったのでパスしましたが、けっこう話題になった映画なので、どんな内容か知っておいた方が良いかな、ぐらいの感じで観始めました。

 ほとんど期待しないで観た映画だったのに、初めから画面に引き込まれ、劇場で観るべきだったなと思いました。人が抱える孤独感がずっしりと伝わってくる秀逸な作品だと思いました。

 この映画の登場人物の多くが孤独であり、人との絆を求めていました。主人公の二人はもちろんですし、犯人の祖母の孤独は観ていて切なかったです。そして被害者の両親もそれぞれ別々に孤独を感じているところなど、多彩な孤独を巧みに描いている映画だと思いました。

 このような多彩な孤独を描いている点において、私はこの春に観た『阪急電車』に似ていると思いました。題材も味付けも『悪人』と『阪急電車』とでは全く異なりますが、人との絆を求める孤独な人々の群像を描いている点において、似ていると思いました。そして、『阪急電車』の時も思いましたが、教会がこのような人々の孤独を癒す場所となることができるはずなのに、そうはなっていないことを残念に思いました。

 来春、どこの教会に遣わされるのかまだ分かりませんが、神学校を卒業して牧師になったら、孤独を抱える人が訪れやすい教会を作りたいと、強く思わされました。

卒論執筆中です2011年11月14日 20時44分

 ブログ更新の間隔が開き気味になってしまっていますが、卒論の執筆を本格的に始めたからです。説教原稿を作ったり、教会会計の事務作業をしたり、その他にもいろいろやることがあるので、卒論だけになかなか集中できませんが、何とか年内に第1稿を書き上げて先生に見てもらい、1月中に第2稿を書き上げ、2月に完成稿を出せれば良いなあ、と思っています。しかし、グズグズしていると、1月下旬に第1稿をやっとで書き上げ、第2稿が完成稿ということになってしまうかもしれません。

 9月と10月にタイトルと構成で悩みに悩みました。良いと思った構想も2,3日後にはつまらなく思えてやり直し、ということの繰り返しでした。しかし、半月ほど前にようやくタイトルと構成が固まり、本文の執筆もある程度進めることが出来たので、もう始めからやり直すことはしないつもりです。

   『ヨハネ3:16はなぜ3章にあるのか?』
―― ヨハネの福音書の奥義を読み解く ――

 これがタイトルとサブタイトルです。神学校の関係者だけでなく、お世話になった教会の方々にも読んでもらいたいと思うので、研究論文のスタイルではなく、もう少し読みやすい形にしています。それで、タイトルもこのようにしました。お気付きの方もあるかもしれませんが、このタイトルは山田真哉著『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』を参考にしました ^^;

 この卒論は当初は、聖書を読んだことがない人にも読んでもらえるものにしたいと思って、少し書いてみたりもしましたが、それはさすがに難しく、あまりに初心者向きにすると、「ヨハネの福音書の奥義」という焦点がボケてしまうと思ったので、今回は断念することにしました。ですから、聖書のことをある程度知っている人が対象です。

 しかし、聖書を「かなり」知っている人でなく、「ある程度」の人にも興味を持って読んでもらうには、大胆な構成が必要だと思い、今回、多くの人に愛されているヨハネ3章16節を入口と出口に持ってくることにしました。このことで、私自身のヨハネ3:16への理解もまた一段と深まりましたので、この構成にして良かったと思っています。

 いや~、ヨハネ3:16は、本当に深いですね。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)

超光速ニュートリノの話はどうなっているかな?2011年11月18日 19時21分

 2ヵ月ほど前に話題になった超光速ニュートリノの話で、他機関による検証の実験はどうなっているかが、少し気になっています。それは、昨晩の教会の祈祷会の説教の中で、こんな話をしたからです。

 いま木曜夜の祈祷会の説教では「パウロの生涯」を学んでいます。昨晩は使徒の働き15章のエルサレム会議の箇所でした。

 当時、クリスチャンの間で激しい論争がありました。ユダヤ人の中に、「ユダヤ人でない異邦人はイエス・キリストを信じても、ユダヤ人と同じ割礼を受けていなければ救われない」と主張する人々がいたのです。これはユダヤ人の常識から考えたら当然の主張とも言えるでしょう。しかし、パウロやペテロは割礼を受けていない異邦人が実際に救われる現場を見ていましたから、異邦人に割礼は必要ないと主張していました。

 この2000年前の記事を、私は現代の理系の実験の研究者の世界とよく似ているなあと思いました。これまでの常識をくつがえす新しい事実が発見された時、だいたい常識派の人々が新しい結果を疑って否定するのです。超光速ニュートリノの話がそうであり、無割礼の異邦人が救われたこともそうでした。

 私は超光速ニュートリノは十分にあり得ると考えています。なぜなら祈りの世界では、祈りが過去に届けられるということが現実にあるからです。過去に届く祈りは言わば超光速通信ですから、光速より速い粒子があったとしても少しもおかしくないのです。

 祈りが過去に届けられる例は多くあり、典型的なのはこんな例です。教会でお金が急に必要になった時に、皆でお祈りしたら、間もなく誰かからお金が届いた。その金の送り主が発送した日付は祈った日より前だったという例です。これは、送り主が未来の必要を予知して送金したというよりは、祈りが過去に届けられたと解釈したほうが良いだろうと私は以前から考えていました。ですから、超光速ニュートリノの話を聞いた時、いよいよ過去に届けられる祈りが荒唐無稽な話ではなく、現実の話となるなと思ったのでした。

 祈りを過去に届ける媒体は超光速であればニュートリノである必要はないので、ニュートリノにはこだわりませんが、超光速の粒子があることが早く実証されると良いなと思っています ^^

って、書いてアップした後、ネットの新聞見てたら、「.『光より速い』ニュートリノ、再実験でも超光速」という記事が出てました。
 なんか、すごいタイミング… ^^;

http://www.asahi.com/science/update/1118/TKY201111180425.html

広島の休日2011年11月23日 20時45分


 21日と22日に一泊二日で広島(呉の大和ミュージアム、平和公園、宮島)に行って来ました。好天に恵まれ、紅葉狩りも出来て、とても良い休日を過ごすことができました。

 平和公園へはいつも夏の暑い時期に行っていたので、今年は涼しくなったら行こうと思っていたのでした。夏休みの時期にはあまり見かけなかった小中学生の団体が、たくさん来ていました。

 私は広島の平和公園ほど多種多様な人々が集い、そこで共通の願いを持つ場所は他にないのではないかと思います。小さな子供からお年寄りまで、全世界から、あらゆる民族、あらゆる宗派の人々が集って、平和な世界の実現という願いを持ちます。

 広島を訪れた人々が地元に戻り、自分にできる小さなことを始める人も多いことと思います。私も時間を大切に使いながら、自分に与えられた役割を淡々と遂行していきたく思います。