『冬の小鳥』22010年11月23日 09時37分


 きのうの日記の続きです。

 そう言えば、私は高校生の時、同級生から「小鳥」と呼ばれていたことを思い出しました ^^ 私の姓のKOJIMAが「小鳥」という字に似ているために「ことり」と間違って読んだ者がいて、それ以来、皆が面白がって私を「ことり」と呼ぶようになりました。

 それはともかく、昨晩から今朝にかけて「より大きな愛」ということに思いを巡らしたので、そのことについて書きます。

 キリスト教では良く、「神様は私たちを愛してくださっている」と言います。韓国人が作り、日本でも流行った『きみは愛されるため生まれた』などはそのことが歌われています。それは旧約聖書のイザヤ43章4節にも書いてありますし、新約聖書でもイエス・キリストが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネの福音書13章34節)と言っていることですから、確かに神様は私たちを愛してくださっているのでしょう。

 しかし、実は私には、もう一つその実感がありませんでした。神様の愛は感じるのですが、「神様が私を愛している」と言われると、何となく違和感があるのです。そんな私でしたが、最近、非常にピッタリとくる教えをいただくことができました。それは神学院の教理の授業の中でのことでしたが、敬愛するK先生が、「神様は存在そのものが愛なのだから、愛そうと思わなくても愛してしまうんだ」ということでした。

 「ナルホド!」と、私にとっては正に目からウロコが落ちる思いでした。私には神様が私たちを「愛する」という行為を表わす動詞に何となく違和感を感じていたのですが、神様は存在そのものが愛なのだから、私たちと共にいる時点で既に私たちを愛で包んでくださっているのですね。これは私の実感にも非常にピッタリと来るものでした。

 さて、前置きが長くなりましたが、『冬の小鳥』の主人公の少女ジニは、より大きな愛の存在に気付いたのでした。父親から見放されたことは不幸なことでしたが、父親の愛よりも大きな愛、それは養父の愛であり、またキリストの愛でもありますが、そのような愛があることに気付き、それらの「より大きな愛」に身をゆだねることにしたのです。

 この「より大きな愛」に身をゆだねることの素晴らしさを味わえるのがキリスト教です。この素晴らしさを是非とも、多くの方に知っていただきたいと願っています。

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