1月31日礼拝説教原稿2010年02月02日 06時48分


 礼拝に来てくださった皆さん、どうもありがとうございました!
 たまっていた宿題を片付けていたので遅くなりましたが、原稿を載せます。
 よろしくお願いします。

深川教会礼拝説教原稿(2010年1月31日)

『ヨハネの四重奏曲』

 おはようございます。
 神学院の働きと神学生のために、いつもお祈りとサポートをありがとうございます。
 早いもので、私が去年の4月に初めてこの深川教会を訪れてから9ヶ月以上が過ぎました。
 今日このように礼拝説教の御用を務めさせていただけることは、私にとっては大きな喜びであり、このような機会を与えてくださったことに感謝いたします。
 きょうの、説教のタイトルは、「ヨハネの四重奏曲」です。
 実は少し前まで、タイトルは「時をかける使徒ヨハネ」を予定していました。
 時間の流れの中を過去へ未来へ自由に駆け巡るヨハネの福音書の面白さを味わっていただきたくてそのようなタイトルを考えていましたが、礼拝の説教の限られた時間の中では時間旅行のスケジュールが厳しく、置いてきぼりになって、時の迷子になってしまう方がいるかもしれないと思い、変更することにしました。
 それで、今日は音楽に関係のあるタイトルにしました。私がこの教会に初めて来た時、この教会がティアラ江東のすぐ近くにあることにビックリしました。
 私は以前、バイオリンの高嶋ちさ子さんとピアノの加羽沢美濃さんによる「Chisa & Mino」のコンサートを聴きに来たことがあったからです。
 私はこのようにこの教会に来る前から、音楽を聴くことに関心を持っていましたから、こちらに来て、今日もまた午後に持たれるアフターヌーンコンサートや、クリスマス・コンサート、また、マナの方々や子どもたちの賛美やオペレッタなど、さまざまな音楽を楽しませていただくことができ、とてもうれしく思っています。
 それらへの感謝の思いも込めて、きょうは、このようなタイトルにしました。
 きょうの私の願いは、ぜひ皆さんに、ヨハネの福音書が持つ、立体的で厚みのある神様の恵み、音楽で言えばソロよりも人数の多い合奏のような、豊かさを感じていただくことです。そのことを、願っています。

 それでは、まずお配りしたプリントを、ご覧ください。皆さんの手にありますか?
 タイトルの下に、【三位一体の神】と書いてありますね。イエス・キリストを信じるクリスチャンの神は、三位一体の神です。
 三位一体の神は、天におられる父と、その御子イエス・キリスト、そして聖霊の三つの人格が一体となった神です。
 五線譜の図は、ヨハネの福音書を一つの曲としてイメージすると、こんな感じになるということを示しています。
 新約聖書には、他にも3つの福音書、マタイ、マルコ、ルカによる福音書があります。
 福音書はイエスの地上生涯を描いています。
 そして、その中心はイエスが30代前半の時の出来事です。
 イスラエルの人々に福音を語り、捕らえられて十字架に付けられて死に、そして3日目に復活したイエス・キリストについて書かれています。
 ですから、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書はほとんどが地上生涯のイエスのパートだけについてしか書かれていません。
 他のパートはほとんどありません。
 しかし、ヨハネの福音書は違うのです。
 復活したイエスと聖霊、そして天の父も、この福音書の中には陰に陽に様々な形で現れ、この福音書に大きな厚みを持たせています。
 ここで重要な点は、地上生涯のイエスは2000年前の限られた期間だけこの世に存在していましたが、地上生涯「以外」のイエスと天の父と聖霊は永遠の時の中にいらっしゃるということです。
 ですから、この福音書が書かれた西暦90年頃から今日に至るまでずっと、そしてこれからの未来も、神様は私たちのすぐそばにいらっしゃり、この福音書の読者に語りかけてくださっている存在なのです。

 このようなヨハネの四重奏が福音書の中で実際にどのように実現されているのかを、実際に聖書を読みながら見ていきたく思います。
なお、五線譜の下に書いてあるみことばは、きょう、お開きする箇所の抜粋です。
 説教の中であちこち開くと、朗読箇所以外は、どこを開いたのか、すぐに忘れてしまいますよね。
 きょうは、どこを開いたか、後でまた思い出していただけると良いな、と思って印刷しました。
 特に、きょう初めてこの深川教会においでくださった方には、週報と共にとっておいていただけると感謝だなと思います。

 では、まず今日の聖書箇所の2章を見る前に、1章37節を見てみてください。
 備付けの聖書ですと、いま開いているページの右のページ、174ページの最初のほうにあります。

1章37節「ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。」
38節「 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」
そしてイエスは39節で彼らに言いました。「来なさい。そうすればわかります。」

 この箇所は、表面的にはもちろん、イエスが2000年前の地上生涯において最初の弟子たちと出会った場面です。
 しかし、この福音書を一度最後まで読み、もう一度はじめから読む読者にとっては、復活したイエスについて書かれているようにも感じられるのです。
 そして、私たち読者自身がこの福音書の中にいて、復活したイエスと出会っているように感じられるのです。

 いったい全体どうして、そのように感じられるのでしょうか。
それは、そのようになるような仕掛けが、この福音書の中に仕込んであるからです。
 ここでは、この1章の35節から39節までの一連の出来事の最中には弟子の名前が明らかにされず、ただ「ふたりの弟子」としか書かれていません。
 そして、一段落してから、ようやく40節でイエスについて行ったふたりのうちのひとりはアンデレであったことが明らかにされます。
 もう一人の弟子はこの福音書の記者である使徒ヨハネであったと考えられますが、名前は明らかにされていません。
このことにより、私たち読者は、使徒ヨハネの代わりに、この福音書の中に入り込むことができるのです。
 ヨハネは私たちのために居場所を空けてくれたのです。それゆえ、私たちが実際に復活したイエス様から「来なさい。そうすればわかります。」と声を掛けられているような気になるのです。
 このような巧妙な仕掛けがヨハネの福音書にはあちこちに仕込んであります。

 ここで、聖霊の働きについて少し説明しておきます。私たちがこの福音書を読んで、復活したイエスと出会っているように感じることの背後には、聖霊の働きがあります。
 聖霊は、私たちの最も身近にいて、さまざまな働きかけを私たちに対してします。
 そして神様は三位一体の神ですから、聖霊が働くとイエスを感じるし、また天の父の大きな存在も意識することができるのです。
 つまり、ヨハネの四重奏は、すでにこの第一章の時点で始まっているのです。
 そして、この四重奏は、2章、3章、4章とずっと続いていきます。
 これらについてすべてお話できると良いのですが、2章だけでも、たくさんお話しすることがありますから、きょうは2章についてだけお話しします。
 では、2章に入りますが、まず、地上生涯のイエスのパートだけ簡単に見ておきましょう。
 2章の1節から11節までは、「カナの婚礼」と呼ばれている箇所です。
 婚礼の宴会のぶどう酒がなくなってしまったことを母のマリヤから聞かされたイエスは、宴会の手伝いの人たちに、水がめに水を満たすように言いました。
 そして、イエスは、その水がめの水をぶどう酒に変えたのです。
 そのぶどう酒を味わってみた宴会の世話役は花婿を呼んで言いました。
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」

 いい話ですね~。私は、この箇所が大好きです。
 それから、舞台はガリラヤのカナから、エルサレムに移ります。
13節 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

 ここは、いわゆる「宮きよめ」と呼ばれる箇所です。エルサレムの町の中にある神殿の敷地の中で商売をしていた人々や売り物の動物たちを追い散らす場面です。

 この、2章のカナの婚礼と宮きよめの場面は、ほかのパートも含めた四重奏では、どんな場面になるのでしょうか。

 去年の秋、このヨハネの福音書についての個人的な勉強を始めたばかりの時、わたしは面白いことに気付きました。
 カナの婚礼に登場するイエスの母マリヤとぶどう酒は、ヨハネの福音書では、あとは19章の十字架の場面にしか出てこないのです。
 そうすると、このカナの婚礼はイエス・キリストが十字架に掛けられたことと深い関係があるということになります。
 ちょっと、19章の十字架の場面をご一緒に声を出して読んでみましょう。221ページの下の段になります。
19章の25節から30節までを交読します。25節から30節までを交代で読みます。

25節 兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。
26節 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
27節 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
28節 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
29節 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
30節 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

 母マリヤにとっては、自分の目の前で息子が十字架にはりつけになって死んでいったのですから、まさに人生最悪の出来事でした。
 2章のカナの婚礼の華やいだ雰囲気と、何と対照的なことでしょうか。
 ぶどう酒も同様ですね。酸いぶどう酒です。
 酸っぱくなったぶどう酒は、まさに死ぬ寸前のぶどう酒と言えるでしょう。
 そして、ぶどう酒はイエスの血を象徴していますから、酸いぶどう酒は死にゆくイエスの血と言ってよいでしょう。
 では、皆さん、19章の酸いぶどう酒が死にゆくイエスの血であるとしたら、2章のカナの婚礼の良いぶどう酒からは、何を連想しますか?

 華やいだ婚礼の宴席での良いぶどう酒です。
 それは、死にゆくイエスの血とは正反対の、生命力にあふれた、生きた血、人を生かす血です。
 人を新しく生まれ変わらせる血です。
 この血こそ、人の罪を洗いきよめ、新しい命を与える血です。
 したがって、カナの婚礼のあとに記されている宮きよめの場面は、心の罪をイエスの血により洗う、心の宮きよめを表します。
 商売などで利益を得ることは私たちの生活にもちろん必要なことですが、私たちの心の中心である、「心の宮」に、自分の利益を追求する思いが居座っているようでは、いけません。
 自分のことばかり考えている心の中に神様は入ってきてくださいません。
 私たちは、そのような自分中心ではなく、神様中心でなければなりません。
 神様に私たちの心の中に入っていただくためには、心が汚れているままではダメです。
 しかし、心の汚れを落とすことは、自分の力では無理で、神様に洗っていただく必要があります。
 そのように神様に心を洗っていただくために、イエス・キリストの血が必要なのです。
 水では心をきよめることはできません。水がきよめることができるのは、体の表面だけです。私たちの内側をきよめていただくには、私たちの体の中を流れる血管に、イエス・キリストの血が流れなければならないのです。

 イエス・キリストの血は、私たちの罪を洗いきよめ、新しい命を与えてくださいます。
 では、皆さん、私たちの心はいったいどれくらい汚れているのでしょうか。
 私たちはもともと汚れた世界に生まれ育っていますから、なかなか分かりませんね。
 私は最近、ある本を読んで、そのことを思い知らされました。
 その本とは、大正時代の1920年に出版された、賀川豊彦の『死線を越えて』という小説です。
 昨年、復刻版が出版され、新聞でも紹介されましたから、読みたいと思っていたところ、ブックファーストで目にしましたので、その復刻版を買って読みました。
 それは驚異の大ベストセラーで、今より人口が半分以下であった1920年に100万部以上が売れたということですから、今なら200万部以上売れたということになります。
 この作品は若き日に神戸のスラム街に身を投じて、そこでイエス・キリストの福音を伝道した作者の自伝的小説です。
 このスラム街の住人は、善人もいますが、多くは刃物を見せながら金をせびる前科者たちや売春している女性たちです。
 このような人たちが狭く汚い場所に密集して住んでいます。
 このスラム街は、外の世界と比べると全くヒドイ環境ですが、一歩引いてもう少し広い目で見るとき、実はこのスラム街は私たちが住んでいる外の世界がギュッと濃縮されているだけであって、私たちもここと変わりない汚れた世界に住んでいるのだ、ということに気付きます。
 つまりスラム街の内側も外側も汚れの度合いが濃いか薄いかというだけで、たいして変わらないということです。
 私たちの住んでいる所はもともと汚れており、そこに住む私たちの心も汚れているのです。
 そんな私たちの心の汚れをきれいにしてくださるのは、きよいお方であるイエス・キリストしかいないのです。
 さきほど1章で、復活したイエス・キリストが「来なさい。そうすればわかります。」と私たちに声を掛けてくださっているということを、見ました。
 このイエスの呼び掛けに心を開いて応答すれば、復活したイエス・キリストはご自身が十字架で流された血で、私たちの心の宮をきよめてくださいます。
 ただし、これはきよめの始まりで、すぐに全てきよめられるわけでは、もちろんありません。
 しかし、ここからすべてが始まるのです。
 応答しなければ、何事も起こらず、私たちの心は汚れたままです。
 イエスの呼びかけに応答すれば、2章の宮みよめの箇所で見たように、まず大きな目につきやすい物から、復活したイエス・キリストが片付けてくださいます。

 皆さんは引越し前や引っ越した後の空っぽの部屋で声や音を出すと、音がよく響くということを経験したことがあるでしょうか。
 机や椅子が置いてない学校の教室なども同様です。物が一杯置いてあると音の波は複雑に反射してしまうので、響くことがありませんが、部屋の中に余計な物がなくなると、とても良く響くようになります。
 私たちの心の中も同じではないでしょうか。
 これは大事、あれも大事と心の部屋の中に自分の物を一杯持っていると、神様の声はなかなか響きません。しかし、自分の物を手放して、全てのことを神様に明け渡して心の中を空っぽにすると、神様の声が、それも四重唱の素晴らしいハーモニーが響いてきます。

 2章のカナの婚礼そして宮きよめと、19章の十字架との関係をお分かりいただけたでしょうか。

 イエス・キリストの血は、死を表すと共に、新しい命を表すものでもあるのです。
 イエス・キリストの血により私たちの罪が死に、私たちは新しく生まれ変わります。
 十字架は、その象徴です。
 イエス・キリストは十字架上で死に、三日目に復活しました。そして、そのことを信じる者の罪を洗いきよめ、新しく生まれ変わらせてくださいます。
 イエス・キリストの十字架の死は、そのために、どうしても必要なことでした。そのために天の父がイエス・キリストをこの世に遣わしたのです。
 なぜなら、神様は愛と正義の神様だからです。
 神様の「愛」は、私たちを全員、罪の世界から救い出すことを望んでいます。
 しかし、神様の「正義」は、神様を信じない者を赦すことはできません。
 自分中心で神様を中心に置かず、神様から離れている者を赦すことはできないのです。
 このジレンマを解決する唯一の方法が、イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架にはりつけにすることでした。
 天の父はイエス・キリストを犠牲のいけにえにして私たちの罪を赦してくださいました。
 そうして、そのことを信じる者には永遠の命を約束してくださったのです。
 有名な3章16節のみことばは、そのことを表しています。
 とても有名なみことばですから、皆さん一緒に読んでみましょう。3章16節です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 この、永遠のいのちを持つ特権は、1章の39節の
「来なさい。そうすればわかります。」
というイエスの招きに応じた者には、誰にでも与えられます。
 そして、イエスの招きに応じた者は、2章のカナの婚礼にも招かれているのです。

 2章2節をごらんください。2章2節、
「イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた」

 この、弟子たちは、私たち、イエス・キリストを信じた者なんですね。イエスの招きに応じてイエスに心を開いた者は、誰でも、このカナの婚礼に招かれています。
 だから、ぶどう酒が足りなくなってしまったのかもしれませんね。
 こうして、私たちは良いぶどう酒である、イエスの血の恵みをいただき、新しい命をいただくことができます。
 これは、素晴らしいことです。だからこその祝宴でしょう。
 ルカの福音書には、神から離れてしまった者が心を改めて神に従う時、「天には喜びが沸き起こる」と書いてあります。家出をしていた放蕩息子が父親のもとに帰ってきた時、父親は息子のために盛大な祝宴を開きました。

 カナの婚礼は、罪を赦されて、新しく生まれ変わる私たちを神様が祝ってくださる、盛大な祝宴です。ここには、もちろんイエスの母マリヤもいます。
 十字架で母親として人生最大の悲劇を味わったマリヤでしたが、マリヤも復活したイエスに会い、新しく生まれ変わりました。
 イエスの兄弟たちもそうです。
 この祝宴の席には、もちろん音楽も流れています。
 祝賀ムードにあふれた四重奏曲です。
 地上生涯のイエス、復活したイエス、聖霊、そして天の父による美しいハーモニーが、私たちの心を平安で満たしてくださいます。
 永遠の神が与えてくださる永遠の命の恵みは計り知れないほど大きく、私たちは神の大きな翼の下で、やすらぐことができます。

「来なさい。そうすればわかります。」

 わたしたちは、イエス・キリストのこの招きに心を開いて応答するだけで、この素晴らしい平安の恵みにあずかることができます。

 お祈りします。

 愛する天の父なる神様。
 きょうも私たちを、この十字架のもとに集めてくださったことを感謝いたします。
 十字架は不思議です。
 十字架はイエス様が残酷な死刑ではりつけになり、死んだところです。
 そんな残酷な十字架なのに、なぜか十字架を見上げるとき、心がやすらぎ、心が平安で満たされます。
 そこに神様の愛があるからでしょうか。
 イエス様は罪で汚れた私たちを救い出し、永遠のいのちを与えてくださいました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 神様、この素晴らしい恵みが、すべての人々に与えられることを、私たちも願っています。
 すべての人々の心が平安で満たされ、私たちが平和に暮らしていくことができるよう、導き続けてくださいますよう、よろしくお願いいたします。

 主イエス・キリストのお名前によって、感謝して、お祈りいたします。   アーメン。

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