説教準備の醍醐味2009年09月01日 21時00分

 次の日曜日の伝道礼拝の説教の準備を引き続き進めています。

 チラシ3000枚が近隣に配布されたので、いま出来得る限りの準備をしなければなりません。

 説教準備の面白さは何と言っても、準備を始めた段階では考えてもいなかった新しいアイデアが天から与えられることです。

 今度の説教のテーマの「聖句(みことば)のお風呂に浸ろう」もそうです。聖書の聖句の恵みは、お風呂の気持ち良さとよく似ているという漠然としたアイデアはあっても、説教の細かいアイデアまでは、あまりありませんでした。

 そもそも「お風呂」をテーマにした理由は、西洋臭いと思われがちなキリスト教をが、実は日本人の好みに根底で通じるところがある、ということを言いたいためなのですが、いまひとつ、それだけでは足りないと感じていました。

 何かもう一つ欲しいと思っていたところ、「旅人」というアイデアが今日、天から与えられました。

 これで決まりです。

 「旅と温泉」

 日本人が大好きなものです。

 日本人が大好きな松尾芭蕉や水戸黄門は旅人でした。

 聖書の登場人物も、その多くが旅人です。

 旧約聖書ではカイン、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセとイスラエルの民、ヨシュア、エリヤとエリシャ、・・・

 新約聖書ではイエス・キリストと十二弟子、パウロ、ルカ、テモテ、・・・

 荒れ野を旅する旅人には、特に「水」の重要さは切実に分かっています。それゆえ、聖書では、水の恵みは神の恵みに良く例えられます。神の恵みは、すなわち「愛」です。

 旅人、羊飼い、水、羊水、温泉、愛、・・・

 これらのキーワード群の中に「旅人」が含まれるか含まれないかでは、全体のまとまりが全く違ってきます。

 「旅人」というアイデアが与えられ、説教準備の醍醐味をしみじみと感じます。

ハートのタネ2009年09月08日 09時51分


 昨日の夕方、神学院に戻りました。

 今朝は、伸び放題になっていた風船カズラからハートのタネを収穫しました。

 これは、まさに一粒の麦ですね。

 わずか20粒ほどのハートのタネが、取りきれないほどに増えました。皆のハートがいつもこんな風に愛らしくありますように。

「麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
 しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
 (ヨハネの福音書 12章24節)

母の入院と退院2009年09月11日 21時41分

 頚椎の手術のため、母は静岡の病院に8月30日(日)に入院、9月3日(木)に手術をした。術後の経過が順調なため、明日の12日(土)の午前に退院できることになった。
 全身麻酔で首の後ろを切開し、頚椎の内側に癒着した神経をはがし、さらに首の骨のズレを矯正して支持具を取り付けた手術なのに、もう退院とは、最近の手術の技術の進歩と母の回復力には驚くばかりだ。
 手術が決まった数ヶ月前から、この手術のために祈り、7月中旬に静岡教会での夏期実習のために帰省してからは、母と妹との毎日の聖書の勉強会の後で必ず手術のために三人で祈り、入院してからは静岡教会の皆さんも祈ってくださり、手術をしてからは高津教会の壮年会の方々も祈りに加わってくださった。この祈りの力であると私は信じている。
 母の首の状態が相当に悪くなっているのを私が知ったのは、昨年の2月に、浜松アクトシティでの村松崇継さんのコンサートに母と一緒に行った時だ。首の神経が圧迫されているために歩行に支障をきたしており、以前と比べると階段を降りるスピードが極端に遅くなっていた。
 頚椎の手術をするべきか母は迷っていたが、そうこうしているうちに乳ガンが見つかったため、昨年の3月に乳ガンの手術を受け、1年間は乳ガンの治療に専念した。そして1年以上たった今年の春に再び頚椎の診察を受け始め、9月3日の手術が決まったのだ。
 手術が終わり、全身麻酔から覚めたばかりの弱々しい母を見た時はさすがに胸がつまった。
 そして9月7日、病院に母を見舞ってから横浜に戻った。手術のために後ろの髪を短く刈り上げられ、手術した部位にまだ大きな絆創膏が張られている痛々しい姿の母と別れて来る時には、胸が痛んだ。その時は、まだまだ当分は入院していると思っていたから、なおさらだった。後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。
 ・・・・・・
 横浜の神学院に戻ってからは、イエス・キリストと母マリヤとの関係に思いを巡らしている。イエスの母マリヤへの愛情・心情を思いながら、イエス・キリストの存在が私の中でますます大きくなってきている。

あなたがたは何を求めているのですか2009年09月17日 06時32分

 神学院の朝晩の祈祷会での私の説教は、しばらくの間、「ヨハネの福音書」に記されているイエス・キリストの言葉を取り上げていきたく思っています。

「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1章)
「来なさい。そうすればわかります。」

「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20章)
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
「見ずに信じる者は幸いです。」

 「あなたがた~」と「来なさい~」はこの福音書に記されているイエスの最初の2つの言葉、「平安が~」以下が最後の3つの言葉です(ヨハネの福音書は20章でいったん閉じられます)。
 途中、イエスは様々なことを言いますが、この最初と最後の言葉は見事に呼応していることが分かります。

「あなたがたは何を求めているのですか。」
「分からないのですか。では一緒に来なさい。そうすれば分かります。」
「あなたが求めていたものは平安ですね。平安があなたがたにあるように。」
「私を信じれば、心の平安が得られます。」
「一番大切なものは目に見えません。見ずに信じる者は幸いです。」

 私(S.KOJIMA)自身の10代、20代、30代、40代を振り返って見た時、それぞれの年代で私が求めていたものは異なりますが、掘り下げてみると、どの年代においても究極に求めていたものは、心の平安だったと思います。

 人は皆、心の奥底では心の平安を求めているのだと思います。

 これは、気付きそうでいて、なかなか気付きにくいことです。なぜなら、多くの人が心が平安な状態にないからです。真の平安を知らなければ、実はそれが自分がいちばん求めているものであるということにすら気付くことは難しいのです。

 イエスは、そんな私たちに、「私と一緒に来れば分かりますよ」と、優しく語りかけていてくださいます。

私は渇く2009年09月21日 10時52分

 ヨハネの福音書によれば、イエス・キリストは十字架上で
  「私は渇く」(ヨハネ19:28)
と言い、そして
  「完了した」(ヨハネ19:30)
と言って息を引き取ります。

 「私は渇く」と言った時、神の子イエスは神ではなくなり、完全に人間になっていました。なぜなら、イエスは4章でサマリヤの女に向かって
「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」(ヨハネ4:14)
と言っているからです。イエスは、この神の力を十字架上で完全に失っていました。
 そして、このようにして「神が人となり、死んだ」ときに神の計画が完了し、人類の歴史の大転換がなされました。このことを信じる者に永遠の命が約束され、心の平安が与えられるようになったのです。
 人が神や仏になったのではなく、「神が人となり、死んだ」のです。これは、すごいことだと思います。(つづく)

レンズの焦点2009年09月21日 22時52分

 前項「わたしは渇く」の続きです。

 私は最近、十字架はレンズの焦点のようだと思うようになりました。
 レンズの焦点の前と後ろとでは、結ばれる像が逆さまの関係にあります。
 イエス・キリストが十字架で死ぬことにより、世界は変わりました。それまでは強い者は強い、弱い者は弱いという世界でしたが、十字架後は弱い者こそが強いという世界に変わりました。
 弱い者はすべてを神にゆだねるために、神により強くされます。自分は強いと思い込んでいる者は神を求めないので、強いようでいて実はもろく壊れやすい心を持っています。
 イエス・キリストは十字架上で神から切り離され、大きな神から小さな人間になりました。しかし、天の父なる神により再び命が与えられ、復活しました。
 まさにレンズの焦点ではないでしょうか。
 レンズの焦点を境に旧約から新約の恵みの世界に入り、復活のイエスを信じる者には、神から新たな命が与えられるようになりました。

新約の光学2009年09月26日 22時11分

 最近はキリスト教ネタに偏っていますが、さらに続けます。
 前回のレンズの焦点を図式化してみました。

 キリスト教と言うと西洋の宗教と思われがちですが、もともとはパレスチナが発祥の地です。
 紀元前に、このパレスチナの地にあった小国イスラエルは、エジプト、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国などの強大な国の侵攻に悩まされ続け、ついには滅亡します。
 しかし、ローマ帝国に征服されたことで、逆にキリストの福音はローマが整備した交通網により地中海沿岸の諸国に広がり、さらには全世界へと広まって行くことになりました。
 下の光学レンズを用いた図では、そのことも表現できています。



 以下、この図の説明ですが、神学院の授業(イザヤ書)のレポートからのコピー&ペーストなので、ちょっと難しいかもしれませんが、そのまま貼り付けさせていただきます。

 この図は、旧約の神から発せられた光がイエスの誕生の時に置かれた集光レンズを通じて屈折して十字架上で焦点を結び、今度は十字架から発せられた光として拡大していく様子を描いています。
 先ず、この図は聖書のいくつかの重要な御言葉の図式化に成功しています。

①焦点(十字架)における闇の支配
「さて、十二時から、全地が暗くなって、 三時まで続いた」(マタイ27:45)
②180°の転回
「『目には目で』と言われたのを、(中略)あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)
「律法ではなく恵みの下」(ロマ6:14)
③世の光
「わたしは、世の光です」(ヨハネ8:12)
④地の果てにまで
「地の果てにまでわたしの救いを」(イザヤ49:6)
「地の果てにまでわたしの証人となります」(使徒1:8)

 また、この図から新たな洞察も得られます。例えば十字架への道とは、神のあらゆる感情が焦点に向けて集中していく道でもあるために、十字架は人のそむきの罪に怒る神の怒りの感情に刺し通される(イザヤ53:5)場所であると同時に、神の愛が凝集した究極の愛の塊の場所でもあるということ、等々です。つまり、十字架とはあらゆることがクロス・オーバー(cross over)する場所であることが分かります。律法もこの十字架で一つに溶け合います。「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです』」(ガラテヤ5:14)。

 イザヤ書全体の中で52章13節~53章12節は極めて特異な箇所です。53章5節の「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」には、怒りと平安、傷と癒しという相反するものが一つに凝集されています。それは、まるで集光レンズの焦点のようです。そして、この焦点は新たな光源となり、光は地の果てにまで広がって行きます。イザヤは遠い未来に地の果てにまで広がった光を見たとき、その光源に苦難のしもべの姿を見たのではないでしょうか。