戦災の廃墟の前で憤り、涙を流したイエス ― 2015年07月03日 11時11分
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『七十年目の試練』(3)
戦争は軍事力によっては無くなりません。戦争を無くすには私たちが互いに愛し合えるようにならなければなりません。そのためには、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言ったイエスについての理解を深めることが、どうしても必要です。そしてイエスを深く知るためには、紀元30年頃のイエスの言動を記したマタイ・マルコ・ルカの福音書だけでなく、アブラハムが生まれる前(ヨハネ8:58)の初めからいる(ヨハネ1:1)イエスについて記されたヨハネの福音書を霊的なレベルで深く知ることが、やはりどうしても必要です。
前回のノートでも短く触れましたが、ヨハネの福音書11章のイエスは戦災で廃墟と化したエルサレムの前で涙を流しています。ヨハネ11章で肉のイエスはラザロの墓の前にいますが、霊のイエスはバビロン捕囚から帰還した人々と共に廃墟のエルサレムの前におり、また再臨前の戦争の廃墟の前にいます。肉のイエスは紀元30年頃にいますが、霊のイエスは天地創造以前の初めから現代、そして未来の終末に至るまでのあらゆる時代にいます。
上の「ヨハネの福音書の多重時間構造」の図に示すように、霊のイエスはヨハネ1~11章においては「旧約聖書の時代」と「福音書の時代」と「使徒の働きの時代」の三つの時間の重なりの中にいて御父と聖霊と共にいます。そして、この三つの時間はヨハネ12章で一つに合流し、13章以降で霊のイエスはヨハネの福音書の読者と共にいます。この福音書の読者は「愛弟子」としてイエスのすぐそばの特等席でイエスの話を聞き、十字架を霊的に目撃します。このイエスの愛弟子である読者にはもちろん現代の私たちも含まれており、さらに私たちがこれから伝える次世代の読者たちも含まれています。
ヨハネ1~11章の三つの時間の重なりの例としては、例えばヨハネ4章で肉のイエスはサマリヤ地方にいますが、霊のイエスは旧約聖書のエリヤの時代の北王国におり、また同時に使徒の働き8章でピリポがサマリヤ人に伝道した時代のサマリヤにもいます。或いはヨハネ9章で肉のイエスは盲人の目を開けましたが、霊のイエスは旧約聖書のヨシヤ王の時代に律法の書が発見されて人々の目が開かれた現場にいます。また同時にダマスコ途上で目が見えなくなったパウロの目からウロコが落ちて目が見えるようになった現場にもいました。
ヨハネ1~11章に肉のイエスと共に霊のイエスが「旧約の時代」と「使徒の時代」にも同時にいることは、たまたまそのように見えるのではありません。「旧約の時代」で言えば霊のイエスはヨハネ1章では創世記の時代におり、2章では出エジプト記の時代に、3章では出エジプト記~サムエル記の時代に、4章と6章では北王国の時代に、7章ではヒゼキヤ王の時代に、8章ではマナセ・アモン王の時代、9章ではヨシヤ王の時代に、10章では南王国が滅亡に向かった時代に、11章ではエルサレム再建の時代に霊のイエスがいるというように、時代順に説明付けすることができます。
また「使徒の時代」で言えばヨハネ2章のカナの婚礼でガリラヤ人の弟子たちがイエスを信じたこと(ヨハネ2:11)はガリラヤ人への聖霊の注ぎ(使徒2:2)のことであり、またエルサレムの人々がイエスを信じたこと(ヨハネ2:23)はエルサレムにいたユダヤ人たちがバプテスマを受けたこと(使徒2:41)であって霊のイエスがその現場にいたことを示します。同様にヨハネ4章でサマリヤ人たちがイエスを信じたこと(ヨハネ4:39)はサマリヤ人が聖霊を受けたこと(使徒8:17)であり、王室の役人と彼の家族がイエスを信じたこと(ヨハネ4:53)は異邦人のコルネリオと彼の親族たちに聖霊が下ったこと(使徒10:44)であって霊のイエスがその現場にいたことを示します。
このように、ヨハネ1~11章で霊のイエスが時間を超越してあらゆる時代に存在することが霊的に見えるように読者がなるなら、その読者はヨハネ13章以降で「愛弟子」としてイエスのすぐそばの特等席で十字架を霊的に目撃し、その霊的な体験を次世代の「愛弟子」たちに継承して行くことになります。
国際テロ組織が勢力を拡大して混迷の度を深めている世界、そして再び戦争ができる国になろうとしている日本の中にあって私たちが「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)というイエスの教えを守ることができるよう、紀元30年頃の肉のイエスだけではなく、あらゆる時代にいる霊のイエスについての理解を私たちは深めていかなければならないと思います。そして戦災による廃墟の前で憤り、涙を流したイエスの思いを霊的に共有して、私たちもまたこの霊的な体験を次世代に継承して行きたいと思います。(続く)
『七十年目の試練』(3)
戦争は軍事力によっては無くなりません。戦争を無くすには私たちが互いに愛し合えるようにならなければなりません。そのためには、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言ったイエスについての理解を深めることが、どうしても必要です。そしてイエスを深く知るためには、紀元30年頃のイエスの言動を記したマタイ・マルコ・ルカの福音書だけでなく、アブラハムが生まれる前(ヨハネ8:58)の初めからいる(ヨハネ1:1)イエスについて記されたヨハネの福音書を霊的なレベルで深く知ることが、やはりどうしても必要です。
前回のノートでも短く触れましたが、ヨハネの福音書11章のイエスは戦災で廃墟と化したエルサレムの前で涙を流しています。ヨハネ11章で肉のイエスはラザロの墓の前にいますが、霊のイエスはバビロン捕囚から帰還した人々と共に廃墟のエルサレムの前におり、また再臨前の戦争の廃墟の前にいます。肉のイエスは紀元30年頃にいますが、霊のイエスは天地創造以前の初めから現代、そして未来の終末に至るまでのあらゆる時代にいます。
上の「ヨハネの福音書の多重時間構造」の図に示すように、霊のイエスはヨハネ1~11章においては「旧約聖書の時代」と「福音書の時代」と「使徒の働きの時代」の三つの時間の重なりの中にいて御父と聖霊と共にいます。そして、この三つの時間はヨハネ12章で一つに合流し、13章以降で霊のイエスはヨハネの福音書の読者と共にいます。この福音書の読者は「愛弟子」としてイエスのすぐそばの特等席でイエスの話を聞き、十字架を霊的に目撃します。このイエスの愛弟子である読者にはもちろん現代の私たちも含まれており、さらに私たちがこれから伝える次世代の読者たちも含まれています。
ヨハネ1~11章の三つの時間の重なりの例としては、例えばヨハネ4章で肉のイエスはサマリヤ地方にいますが、霊のイエスは旧約聖書のエリヤの時代の北王国におり、また同時に使徒の働き8章でピリポがサマリヤ人に伝道した時代のサマリヤにもいます。或いはヨハネ9章で肉のイエスは盲人の目を開けましたが、霊のイエスは旧約聖書のヨシヤ王の時代に律法の書が発見されて人々の目が開かれた現場にいます。また同時にダマスコ途上で目が見えなくなったパウロの目からウロコが落ちて目が見えるようになった現場にもいました。
ヨハネ1~11章に肉のイエスと共に霊のイエスが「旧約の時代」と「使徒の時代」にも同時にいることは、たまたまそのように見えるのではありません。「旧約の時代」で言えば霊のイエスはヨハネ1章では創世記の時代におり、2章では出エジプト記の時代に、3章では出エジプト記~サムエル記の時代に、4章と6章では北王国の時代に、7章ではヒゼキヤ王の時代に、8章ではマナセ・アモン王の時代、9章ではヨシヤ王の時代に、10章では南王国が滅亡に向かった時代に、11章ではエルサレム再建の時代に霊のイエスがいるというように、時代順に説明付けすることができます。
また「使徒の時代」で言えばヨハネ2章のカナの婚礼でガリラヤ人の弟子たちがイエスを信じたこと(ヨハネ2:11)はガリラヤ人への聖霊の注ぎ(使徒2:2)のことであり、またエルサレムの人々がイエスを信じたこと(ヨハネ2:23)はエルサレムにいたユダヤ人たちがバプテスマを受けたこと(使徒2:41)であって霊のイエスがその現場にいたことを示します。同様にヨハネ4章でサマリヤ人たちがイエスを信じたこと(ヨハネ4:39)はサマリヤ人が聖霊を受けたこと(使徒8:17)であり、王室の役人と彼の家族がイエスを信じたこと(ヨハネ4:53)は異邦人のコルネリオと彼の親族たちに聖霊が下ったこと(使徒10:44)であって霊のイエスがその現場にいたことを示します。
このように、ヨハネ1~11章で霊のイエスが時間を超越してあらゆる時代に存在することが霊的に見えるように読者がなるなら、その読者はヨハネ13章以降で「愛弟子」としてイエスのすぐそばの特等席で十字架を霊的に目撃し、その霊的な体験を次世代の「愛弟子」たちに継承して行くことになります。
国際テロ組織が勢力を拡大して混迷の度を深めている世界、そして再び戦争ができる国になろうとしている日本の中にあって私たちが「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)というイエスの教えを守ることができるよう、紀元30年頃の肉のイエスだけではなく、あらゆる時代にいる霊のイエスについての理解を私たちは深めていかなければならないと思います。そして戦災による廃墟の前で憤り、涙を流したイエスの思いを霊的に共有して、私たちもまたこの霊的な体験を次世代に継承して行きたいと思います。(続く)
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