神学院教会の番犬2008年11月01日 20時12分



 神学院教会のウエスレーチャペルと男子寮の間では犬が2匹飼われています。上の写真がハッピー、下の写真がウイリーです。知らない人に向かっては必ず吠え、番犬の役目を良く務めています。私もここに来た当初はよく吠えられました。でも、最近は吠えられなくなりました。裏表のない犬に認められ、ようやくここの一員になれたみたいで、何だか妙にうれしいです ^^
 それで、調子にのって近づいてカメラを向けたら、警戒されて吠えられちゃいました ^^;



 神学院の敷地には、女子寮の方にも3匹いて、計5匹飼われています。

10月31日早天説教原稿2008年11月03日 20時17分

おはようございます。
 インマヌエル賛美歌492番の「なにゆえ我さえ」をもって今朝の早天祈祷会を始めます。

 ありがとうございました。
 けさは詩篇は開かずに、マルコの福音書とルカの福音書を開くことにいたします。
 マルコの福音書は、今週の火曜日の晩祷でK先生に教えていただいた箇所で、もう一つのルカの福音書は前回のザカリヤの続きで、マリヤとエリサベツが交わっている箇所です。
 前回の早天では、ザカリヤの信仰について見ました。神の御使いの言葉を信じなかったために口がきけなくなってしまったザカリヤでしたが、その間、神を恨むようなことはなく、むしろ神との交わりを深め、バプテスマのヨハネが生まれて再び口がきけるようになった時、壮大な神のほめ歌を歌ったというお話をしました。
 この前回のザカリヤの話を終えた直後から、私は次のマリヤとエリサベツの交わりの箇所から、どんな説教ができるだろうかと思い巡らしをしてきました。しかし、なかなか説教の形が見えて来ませんでした。なぜなら、この箇所は霊的にかなり深い洞察が必要だろうという予測だけはつくものの、それだけに、その深いところまで掘り進めていくことが難しかったからです。しかし、幸いなことに加藤先生の晩祷がきっかけで、このマリヤとエリサベツの箇所をどう読み解いたら良いのかということが私なりに見えてきました。きょうは、そのことについてお話しします。
 それで、きょうはまずルカを開き、少しだけお話をして、次にマルコを開き、その後で両方を見ながら話を進めていくことにします。
 では、まずルカの福音書1章39節をお開きください。ルカの福音書1章39節から56節までを交代で読んでいきます。1章39節から56節までです。

「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。…
 …、マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。」

ありがとうございました。
いまご一緒に読んだ箇所で私が前回以来ずっと思いを巡らしていたのは、41節の、
「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。」
という箇所です。ここを霊的にどう感じ取るかは、自分にとって大きなチャレンジだと思っていました。そして、今回、私なりに理解することができたと思っています。ここをどう読み取ったかは、マルコの箇所を読んでからお話しします。
 それから、このルカの福音書では、46節、47節の、
「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」
という箇所の、46節の「たましい」と47節の「霊」の違いという点についても注目してみたく思います。私が納得したことを、うまくお伝えできるかどうかわかりませんが、できるだけ分かり易く、お話ししたく思いますので、よろしくお願いします。また、間違って解釈している可能性もあります。その場合には、どうか、後で指摘してくださいますようにお願いします。
 では、マルコの箇所を読む前に、ひむなるを一曲、ご一緒に賛美しましょう。
 ひむなる119番「私を祝して」。 ひむなる119番です。

ありがとうございました。
 では、ここで週番のF兄弟に、今日のこの早天祈祷会のためにお祈りしていただきます。

 では、マルコの福音書3章22節をお開きください。マルコの福音書3章22節です。22節から30節までを、私のほうでお読みします。

「また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、…
 このように言われたのは、彼らが、『イエスは汚れた霊につかれている』と言っていたからである。」

以上です。
 火曜日の晩祷でK先生に教えていただいた箇所は、28節、29節の、

「神をけがずことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者は誰でも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

というイエス様のみことばです。三位一体の同じ神様であるはずなのに、なぜ、ここでは聖霊だけ違うことが書いてあるのか。非常に分かりにくいですが、でももしその一部分だけでも理解できれば、聖霊についての理解がグーンと進むはずです。皆さんの中には、父・御子と聖霊の違いをかなりきちんと把握している方もいらっしゃるかもしれませんが、私はこれまでのところ、漠然としたイメージはあるものの、あまり分かっていませんでした。特に聖霊が難しかったです。でもK先生から大きなヒントをいただき、さっそくこの28節、29節を含む、さきほどお読みした箇所について調べてみました。
 参照した本は『新実用聖書注解』(いのちのことば社)で、マルコの福音書については藤本満先生が執筆しています。藤本先生によると

29節の「聖霊をけがす」とは「聖霊を冒とくする」ことで、その聖霊を冒とくする罪とは、イエスの言葉と行いを通して現れる神の救いの力と恵みを意図的・意識的に拒絶することである。人の子の働きを悪霊の働きとして拒むなら、人の子の罪を赦す権威は、その人の上に及ぶことはない。

ということです。ということは、聖霊の働きとは、神の救いの力が現れる働きということになります。蔦田直毅先生のやさしい教理問答集『信仰のカルシウム』には「聖霊のお働きは何ですか?」というQ&Aが8つも載っていて、かなりのページ数が割かれており、それを読んでも聖霊の役割は、神の働きを人間に直接に現す働きを担うことだということが分かります。その『信仰のカルシウム』にある、「聖霊のお働きは何ですか?」に対する8つの答えのうちのいくつかは次の通りです。

・世の人の罪を示されます。
・イエス様を信じる人を、新たに生まれさせてくださいます。
・信仰者を慰め、助け、導いてくださいます。
・わたしたちの心をきよめ、聖いものとしてくださいます。

などです。
 これらを見ると、聖霊とは私たちの最も近くにいてくださる存在ということが分かってきます。しかし、私たちは、イエス様も近くにいてくださるとか、自分の内に住んでくださるという言い方をします。ですから、近くにいてくださるというだけでは、イエス様と聖霊の違いが依然として分かりにくいです。したがって、なぜイエス様を冒とくしても赦されるのに、聖霊を冒とくすると赦されないとは、どういうことなのかということが、わかりません。
 このマルコ3章29節をどう理解したらいいのか、思いを巡らしていた時、私の目に留まったのが、ルカの1章46,47節の、「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」の箇所です。この「たましい」と「霊」とは、どのように違うのでしょうか。或いは、同じなのでしょうか。この箇所に目が留まったのは、本当に幸いなことでした。これは、先週、I兄弟が当務の晩祷で読んだロマ書の8章の中の16節、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」という箇所が気に掛かっていたからではないかと思います。
 このロマ書8章16節に「御霊ご自身が私たちの霊とともに」とあるということは、聖霊と私たちの霊は、似た性質をもっていると解釈できるのではないでしょうか。では、もう一つの「たましい」とは、どんなものでしょうか。英語で霊はspirit、たましいはsoulです。私はたましいとかsoulというと、固まりのようなものを想像します。ゲゲゲの鬼太郎に出てくるような人魂(ひとだま)を連想してくださっても構いません。それで、私は、霊はたましいから外側に向けて放射される気のようなものではないかと思い至りました。これは、ただの思いつきですが、実はこれがそれほど間違ってはいないことがわかりました。
 『キリスト教辞典』(いのちのことば社)によると、新約聖書における「たましい」はギリシャ語のプシュケー、「霊」はプニューマであり、途中の説明は省略しますが、大体においてプシュケーとプニュマーは同意語であり、新約においては両語はしばしば互換的に使用されているとのことです。しかし、あえて両語を区別しようとすれば、プニューマ(霊)は神の側に向いた人間の非物質的本質、プシュケー(たましい)は人間の側に向いた非物質的本質と言うことができよう、と書いてあります。たましいは人間側、霊は神側ということですから、私が描いた、霊はたましいから外側に向けて放射された気のようなものというイメージも、いい線をいっていると言えると思います。
 そうすると、おのずと聖霊の姿も見えてきます。なぜなら、神様は人をご自身の形として創造された(創世記1章27節)からです。父と御子はたましいのように、ある程度の固まりとしてイメージされ、聖霊は父或いは御子イエスから放射されたような存在というイメージです。
 そうすると、聖霊は空気のように常に我々のまわりにいてくださるということになります。わたしは、これが、かなり正解に近いのではないかと考えています。では、なぜ、すぐ近くで我々をとりまいていてくださる聖霊を、我々はなかなか感じ取ることができないのでしょうか。それは、我々が、頑なな心を持っているからです。
 先月の9月28日の聖日に、私は高津教会の礼拝で「心の鎧(よろい)を脱いだナアマン」という説教をさせていただきました。聖書箇所は第二列王記5章9節から14節です。ツァラアトに侵されたナアマンが、病気を治してもらおうとわざわざエリシャの家まで行ったのに、エリシャはナアマンに会おうとはせず、ただヨルダン川に身を7たび浸して洗えば治ると言ったことにナアマンは怒ってアラムへの戻ろうとしましたが、部下の進言を聞き入れてヨルダン川に7たび身を浸したら、エリシャのいう通りに体が元どおりになって、幼子のからだのようになったという話です。エリシャの家の前に行った時のナアマンはプライドの塊で、心にしっかりと鎧をつけていました。しかし、部下の進言を聞き入れてヨルダン川に身を浸すことにしたナアマンは少しだけ心の鎧をはずした。そして、ツァラアトに侵された身で、あまりきれいではないヨルダン川に身を浸すということは、非常に気持ちの悪いことであるから、ナアマンはその気持ちの悪さを我慢しながら神に必死になって祈ったに違いないと私は説教で話しました。そうして祈るうちに神様がナアマンの心の鎧、つまり心の頑なさを次第に取り除いて行ってくださった。そうして7度目に身を浸したときに心の鎧が完全に取り去られると同時にナアマンの体は元どおりになったのだ、という話をしました。
 この時、私は心の鎧が取り去られたイメージとして、焼いた切り餅の例えを示しました。焼いた切り餅は、表面はパリパリですが、引張って表面が割れると、中の柔らかいお餅の部分が表面に現れます。この柔らかい部分が、聖霊を感じることができる柔らかい心です。聖霊がいくら空気のように私たちを取り巻いていてくださっても、心の表面がパリパリでは、その存在を全く感じることができません。
 さあ、これでやっとマルコ3章29節を理解する準備が整いました。藤本満先生の注解をもう一度引用します。

29節の「聖霊をけがす」とは「聖霊を冒とくする」ことで、その聖霊を冒とくする罪とは、イエスの言葉と行いを通して現れる神の救いの力と恵みを意図的・意識的に拒絶することである。人の子の働きを悪霊の働きとして拒むなら、人の子の罪を赦す権威は、その人の上に及ぶことはない。

 つまり、こうです。無意識のうちに心の表面がパリパリになってしまって聖霊を感じることができなくなっていて、その結果、神をけがすことを言ってしまっている場合には、その罪は赦され、神様が心のパリパリを取り去って聖霊を感じるようにしてくださる。しかし、意図的に心の表面を頑なにしてしまって聖霊を拒絶する者に対しては、神様はその表面のパリパリを取り去ってはくださらず、したがって、そのまま死んでしまえば、さばきにより、とこしえの罪に定められる、というわけです。お分かりいただけたでしょうか。永遠に赦されず、とこしえの罪に定められるとは、罰を与えられるというのではなく、ただ単に永遠に放置されるという意味なのです。イスラエルの初代王サウルのように、神に見放されるということです。
 聖霊を感じるには、心の表面がパリパリではダメで、柔らかくなければダメなのです。では、究極の柔らかさを持つ心とは何でしょうか。それが、ルカ1章41節でマリヤのあいさつに反応した、エリサベツの胎内にいたバプテスマのヨハネの心です。マリヤは既にイエスを胎内に宿していましたから、マリヤとイエスとは一体であり、マリヤがあいさつに来た時に、微弱ながらイエスの霊も放射されていたのです。マリヤは妊娠したばかりですから、イエスの霊は本当に微弱で、信仰が厚くて柔らかい心を持ったエリサベツにも感知できなかった。それを、胎内の子は感知して喜びおどったのです。そんな超高感度のセンサーを持っていたバプテスマのヨハネでさえ、ルカ7章20節では、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちは、なおほかの方を待つべきでしょうか」と言ってつまずいているのですから、ましてや私たちの聖霊への感受力は本当に微弱であると言うことができるのではないでしょうか。
 こんな私たちの心を神様に柔らかくしていただくには、この祈祷室の額に「祈祷不倦」とあるように、倦むことなく祈る、それも、ただ祈るのではなく、聖霊への感受性を高めるという意識を持って祈らなければならないと思います。

 ひとことお祈りいたします。
 天におられる父なる神様。
 きょうは、いろいろな聖書箇所を見てきましたが、最後に、エリサベツの胎内でバプテスマのヨハネがおどったことの解釈にまで、たどり着くことができたことを感謝いたします。
 私たちの聖霊に対する感受性には様々なレベルがあることです。このエリサベツの胎内のヨハネのような超高感度のものから、無意識のうちに心に鎧を付けてしまっているナアマン、そしてイエスが悪霊につかれているとした律法学者のように、聖霊をけがす者まで、実にさまざまです。現代を生きる私たちの環境は、この感受性を弱めるものに溢れていることを覚えることです。その中にあって、どうか神様、私たちの聖霊に対する感受性を高めて、あなたをもっともっと感じ取るものと変えてくださいますように、どうかよろしくお願いいたします。きょう、このような幸いな早天祈祷会の時を持つことができたことを感謝しつつ、主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン。

 それでは、どなたからでも構いませんので、導かれた方から、お祈りを始めていただけますよう、よろしくお願いいたします。

ただいまの体重はチルソク ^^2008年11月08日 11時35分


 好きだった筑紫哲也さんが亡くなられて、ちょっと重い気分なので、こういうふざけた日記はやめようと思い、昨日の英語の授業で行ったショート・デボーションの原稿をアップしたのですが、このアサブロは英語対応が全然できてなくて、単語の途中で改行されてしまうという悲惨な結果となりました。それで、手動でシコシコと改行作業をしたのですが、なるべく一行の単語数を多くしようとするために、なかなか上手く収まらないので、面倒くさくなってやめました(英語の文をアップしても自己満足だけで読んでくれる人は少ないでしょうし、日本語に訳す時間も惜しいので)。
 それで、筑紫さんの訃報に接する前から考えていた、この体重計の写真をやっぱり載せることにしました。神学院の生活を始める前は80kgありましたが、今は77kgまで落ちてきました。7/7のチルソクです^^ 
 ここでは毎日3食とも、神学院の食堂で作ってくださる食事を食べていて、野菜が多く肉が少なめなので、だんだん体重が落ちてきました。2年前から高血圧と糖尿病のグレーゾーンで月1回通院して採血・採尿検査をしていて、数値は悪いところだらけでしたが、神学院へ来てからは、ほとんどが標準値の範囲に収まり、ほぼ治りました。うれしいですが、あまりに健康的になり過ぎることに対する戸惑いもあります。このことは、いずれまた機会があったら書きたく思います。
 ところで、上の体重計には足が写っていませんよね。昨日、何も着ずに体重計に載ったら77.0kgだったので、チルソクでうれしくて写真を撮ろうとデジカメを持って載ったら、デジカメの重量が加わって77.2kgになっちゃいました(笑)
 それで、デジカメ無しで体重計に載り、降りてから表示が消えないうちに大急ぎで撮ったというわけです ^^;

佐々部映画と日本のキリスト教2008年11月09日 16時33分

 この両者はどこか似たところがあると、以前から思っていましたが、最近、『キネマ旬報』11月下旬号のBOX OFFICE日本を読み、自分の中でそのことが、だいぶ明確になってきたと感じています。
 まず、記事の見出しはこうです。
「明暗を分けた東映の2本」
 そして、公開後2日間の興行収入が好調だった『劇場版仮面ライダー電王ファイナル・カウントダウン』と低調だった佐々部監督の『三本木農業高校、馬術部』についての記事が書いてあります。佐々部ファンとしては、『仮面ライダー』と『三農、馬術部』とを並べて「明暗を分けた」とは何事ぞ!とムカッとして、「しょうもない記事書くな!」と言いたいところですが、キリスト教を伝道している者としては、いろいろと考えさせられる記事でした。
記事はこう書いています。

「作品の評判は決して悪いものではない。では、何がよくなかったのか。…
 ここではその理由を見出すことは出来ないが、…、ここまで厳しい結果を強いられるということは、作品の評価は別にして、観客にまず『観たいと思わせる何か』が稀薄であると言わざるを得ないのでは?」

 中身は心に響く素晴らしく良いものなのに、知ってもらえず、劇場に足を運んでもらえない。この佐々部映画の悩みは、まさに日本のキリスト教の教会の悩みと同じものであると私には思えます。だからこそ応援のしがいがあり、私は両者を愛しつつ応援しているのだということもありますが、それにしても、佐々部映画も教会も、もう少し多くの人に来てもらいたいです。
 記事は、「観たいと思わせる何か」が稀薄であると指摘しています。では、仮面ライダーにはそれがあるのでしょうか。それがもちろんあるから多くの観客を動員できるのでしょう。そこで思い至るのが、精神年齢の低下という問題です。学校が休みの期間でもないのに、なんで仮面ライダーの映画にそんなに多くの観客が集まるのか私には到底理解できず、思い当たるのは、この精神年齢の低下ぐらいです。私だって『ポニョ』や『ゲゲゲ』を見ましたが、それは佐々部映画のような良質な映画との比較上、見ておきたいというだけで、良質な映画を見ずして子供向け映画だけを見に行くことは、あり得ないです。
 こう考えてくると、記事が言うような「観たいと思わせる何か」が『三農、馬術部』には稀薄なのではなく、きちんと濃厚に存在しているのに、日本人全体の中でそれを受信する能力が低下してしまっているのではないかという考えに至ります。『仮面ライダー』のそれは受信できるのに、『三農』のそれは受信できない。それは単に精神年齢の低下だけではない、もっと多くの問題を抱えていそうです。
 それらが何であれ、佐々部映画が発信するそれと、キリスト教が発信するそれとを、なかなか受け留めてもらえないということの根は同じところにあるのではないかと、思えてなりません。

風は己が好むところに吹く2008年11月11日 21時12分

 チル友のリーさんが勧めてくれた『その日のまえに』と『イエスタデイズ』をハシゴで見てきました。どちらも余命があとわずかの人を軸に話が展開します。見ながら思ったのは、どちらもヨハネ3:8の「風は己が好むところに吹く」(文語訳)みたいで、死を目前にしながらも、ある種の爽やかさがあって、重いテーマなのに重くなり過ぎずにとてもいい感じなのだけれど、その前後がないんだなあ、ということでした。その前後とは、「風は…」の前後の聖句にある、「新しく生まれる」ということです。「風は…」を含めた前後の聖句(新改訳)とは下記の通りです。

「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネの福音書3章7,8節)

 私が信仰を持っていなかった頃、「死」に対してどのようなイメージを持っていたかというと、はっきりとは覚えていませんが、「暗闇」ではなかったかと思います。死により意識は暗闇に包まれ、そこで全てが終了する。これは、私にとっては結構おそろしいことでした。死後も残る霊魂の存在を想定するにしても、確固たる裏づけがあるわけではありませんから確信は持てず、だから「暗闇」を思ったのだと思います。
 ただ、そうは言っても、私にとって自分の死はまだまだ遠い先のことと思っていましたから、信仰を持つようになったのは死後への恐怖からではなく、それまでに私を守ってくださっていた存在がキリスト教の神であったことに気付き、これからも守ってくださるであろうという確信から得られる、現世における心の平安の大きさゆえでした。そのような現世利益が私の入信のきっかけではありましたが、聖書をよく読むようになって初めて知った、「イエス・キリストを信じれば新しく生まれ変わり、永遠のいのちを持つことができる」という教えは、私にとってはまさに良いニュースでした。
 このように永遠のいのちを約束されている我々クリスチャンではありますが、この世での死を目前にすれば、私自身はやはり相当に動揺するだろうと思います。しかし、それでも詩篇23篇の「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」という御言葉は私にとっては強力な心の支えになるはずで、信仰に導いてくださった神様に心から感謝しています。
 それゆえ、死を目前にした人やその家族が信仰を持たないがゆえに心の動揺の嵐に激しく翻弄される様を描いた映画やドラマは、いつももどかしい思いで見ています。聖書を読み、永遠の命に思いを馳せる人たちがもっともっと増えることを願ってやみません。

日韓教会協力会議2008年11月13日 09時39分

 聖宣神学院長の植木英次先生が火曜から金曜までの予定で日韓教会協力会議の御用で韓国出張されています。先生は長年海外で宣教師として務めておられ、国際感覚に優れており、私が神学院に来てからも、何度も海外出張しておられます。先々週はタイでの世界福音同盟の会議に出席されていました。韓国は初めてとおっしゃっていましたが、広い視野をお持ちの先生は日本代表の一員として適任と思われたことでした。先生が戻られてからのご報告が楽しみです。
 この植木先生の韓国での働きのために昨晩、聖宣神学院教会での祈祷会で皆で一緒に祈りました。まず、一人一人で祈った後で私が代表して祈るよう指名されましたので、植木先生が尊く用いられるよう、またこの日韓教会協力会議が祝され、実り多いものになるよう、お祈りしました。
 さて、けさ目覚めた時、まだ起床時間の5時半には早かったですが、日韓関係について祈るよう示されたので、いつもより少し早くウエスレー・チャペルに行き、祈りました。最近の祈祷室は外気温と同じくらい寒いですが、ウエチャは容積が大きいため中の空気は外気温よりは、ずっと暖かいので、最近は朝の個人の祈りは男子寮の祈祷室ではなく、このウエチャで捧げています。祈り始めてしばらくしてから、私が前の職場で予備教育を担当していた日韓プログラムの学生たちのためにも祈りたくなり、一人一人の顔と名前を思い出していたら、霊の激動を感じました。
 神様が私に対して具体的に何をせよとおっしゃっているのか、まだ分かりませんが、とりあえず、韓国語の聖書を毎日少しずつでも読み進めたく思い、始めました。だいぶ前にトライした時は三日坊主でしたが ^^; 今度はできるだけ続けたいものです ^^

『告知せず』2008年11月14日 19時55分

 佐々部監督のテレビドラマ『告知せず』が15日(土)21時よりテレビ朝日で放映されます。
http://www.tv-asahi.co.jp/kokuchisezu/

 是非ご覧ください。
 私も劇団巌流第二級の仲間と共に三鷹のルーテル学院大学で行われた撮影にエキストラとして参加してきました。撮影に使われた礼拝堂の中はなかなか趣があり、テレビ画面の中で、どのように映し出されるのか興味津々です。
 また随所で十字架が見られると思いますが、十字架の恵みが語られるのか否かも私の注目点です。
 この時間にお忙しい方は、録画してでも、ご覧ください^^
 よろしくお願いします。

十央子のための祈り2008年11月18日 00時23分

 恵みと憐れみに満ちた天の父なる神様。
 佐々部監督が演出したドラマ『告知せず』を見ることができたことを感謝します。
 視聴率も良かったとのことで、多くの人がこのドラマを見ることができたことにも感謝いたします。
 ガンで亡くなった十央子が何ゆえ、そのような名前を与えられたのかは存じ上げませんが、「十字架を中央に置く子」、即ち、「イエス様の十字架を常に心の中心に置く」という恵まれた名前が授けられていたことに感謝します。
 神様、どうか、この十央子を天国に引き上げてください。そして、もっと生きたいという気持ちを人一倍強く持っていた十央子に永遠の命を授けてください。
 私たちは、イエス・キリストを信じる者でなければ決して天の神の国に入ることはできず、永遠の命も得られないことを知っています。十央子は残念ながらイエス様への信仰を持っていませんでした。しかし、十央子はグアム島で十字を切り、一瞬ではありましたが、イエス様へ思いを馳せました。これだけでは全く足りないと思いますが、神様は憐れみ深い方です。十字架を中央に置く子という恵みにあふれた名前を持つ十央子を神様の特別の愛により、どうか天国へと引き上げてくださいますよう、切にお願い申し上げます。そして、誠至と涼には、しっかりとした確かな信仰を与えてください。二人ともキリスト教系の大学病院で働いていますから、神様の教えに触れる機会は多いと思います。どうか二人にイエス様を信じる心を与えてください。さらにまた、この祈りの言葉を読んだ人が、十字架を中心に置くとはどういうことかということを知ることができるよう、神様が導いてください。どうかよろしくお願いいたします。
 このドラマの製作に関係した方々、また、このドラマを見た全ての人々に神様の豊かな愛が注がれますよう、そしてイエス・キリストを信じ、永遠の命が得られる信仰へと導かれるよう、神様が憐れみの御手を置いてくださいますよう、よろしくお願いいたします。
 主イエス・キリストの御名を通して感謝してお祈りいたします。アーメン

良い○○とは2008年11月20日 16時03分

 先週の土曜日に放送されたドラマ『告知せず』で主演の渡哲也さんが勤務先の大学での講義の最後に昔話をする場面があります。
 昔、ある人に「いい医者になってください」と言われたので、「いい医者とはどんな医者ですか?」と聞き返したら、「患者の気持ちに寄り添える医者」と、その人は答えたそうです。ドラマの最後の方で、その「ある人」とは実は亡くなった奥さんだという種明かしがなされますが、このことは、すべての職業に当てはまることだろうと思います。
 信徒の気持ちに寄り添える牧師、生徒の気持ちに寄り添える教師、客の気持ちに寄り添える店主、ユーザーの気持ちに寄り添えるメーカー、国民の気持ちに寄り添える政治家、などなどです。
 では、なぜ「△△の気持ちに寄り添える○○」が「良い○○」なのでしょうか?それは、イエス・キリストが弱い立場の人の気持ちに寄り添っておられた方だからです。善悪の判断は我々に対して絶対的な権威を持つものを基準にしてなされます。戦前の日本であれば、天皇陛下のためになることが良いこと、その前の江戸時代であれば、お家のためになることが良いことで、お家のためにならないことは、悪いことでした。お家のためになることなら殺人も良いことでした。
 絶対君主がいない現代の日本においては、神の存在を信じていない人でも、実は知らず知らずのうちに創造主であられる神が我々に示した基準の下に善悪の判断をしているのです。有名なモーセの十戒がそうであり、イエス・キリストの教えがそうなのです。だから、イエス・キリストがご自身の行動で示した、弱い立場の人に寄り添うことが良いことなのです。
 そこに何が書いてあるのか知ろうが知るまいが、聖書は我々の善悪の判断の基準になっています。教会の礼拝では、説教を通じて聖書に何が書かれているかを易しく説明してくれます。
 日曜日には是非、もっともっと多くの方々に、教会に集っていただきたく思います。

忙しい…2008年11月27日 13時48分

 寒くなってきてから、急に忙しくなってきました。
 広い敷地に掃いても掃いても落ちてくる落ち葉の掃除、10箇所以上ある灯油タンクへの燃料補給、複数の大型クリスマスツリーの準備、宣教師の先生方へのクリスマスカード書き、クリスマス行事のための聖歌隊(複数)のコーラス練習などなどが増し加わり、授業の宿題や説教の原稿作りなどをじっくり行う時間がなくなり、あせります。インターネットをゆっくり閲覧する余裕もなくなりました。
 ブログも間があいてしまいました。とりあえず、先週行った早天祈祷会の説教の原稿をアップします。

2008年11月19日早天祈祷会 原稿

 賛美歌をもってきょうの早天祈祷会を始めます。
 479番「遠き国や海のはて」を歌います。これは日本で関東大地震があった時、その震災に遭った日本を思って作られた歌ということです。きょうの説教に少しだけ関係しますので、歌ってみたく思います。

 ありがとうございました。
 では、きょうは、まず「エペソ人への手紙」の3章14節を開きたく思います。
 エペソ人への手紙3章14節から21節までを交代で読みましょう。14節は短い節ですので、すぐに皆さんの番の15節になりますから、遅れないように、よろしくお願いします。

「こういうわけで、私はひざをかがめて、
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 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」
ありがとうございました。
 この箇所は、何を隠そう、私が旧約・新約、聖書全体を通じて最も好きな箇所です。きょうは、後でお読みするルカの福音書1章の箇所も含めて、このイエス・キリストの大きな愛ということに、ご一緒に思いを馳せてみたく思っています。
 私たちは説教の中でキリストの愛というものを語るわけですが、限られた時間の中ではキリストの大きな愛のほんの一部しか伝えることはできません。それなら、非常に長い説教時間が与えられたなら、語り尽くせるのか、と言えば、もちろんそんなものではないということは、皆さんもよくご存知のことです。ですから、与えられた、限られた時間の中でその一部をしっかりと伝えるということで、もちろん良いのですが、そうではあっても、イエス様の愛はまだまだこんなもんじゃない、もっともっと雄大なものなのだということをも、暗に示せるような、この、「暗に」というところが案外味噌なのかもしれませんが、そのような説教でなければならない、と私自身は思っています。
 では、いったいその大きさはどれくらいなのかと言うと、「人知をはるかに越えている」ということですから、我々には分からないぐらい大きいのです。だったら考えても無駄じゃないか、ということにもなりかねませんが、そうではないんですね。私たちは想像力を広げる努力を常にしていないと、適当なところで満足してしまいます。そうすると、我々にとってのキリストの愛の大きさというのは、そこで留まってしまいます。人知を遥かに越えているということは、私たちの知りうる限界をいくら膨らませても、追いつくことはできない、だから我々は限界を設けないで常にその大きさがどれくらいなのかを追い求めていかなければならないと思います。

 では、ここで、ひむなるを一曲歌って神様を賛美しましょう。
ひむなる58番「おどろくほどの主の愛」を歌います。この曲は1節しかないので、2回歌いたく思います。よろしくお願いします。

 ありがとうございました。
 では、週番の兄弟にけさの早天祈祷会のためにお祈りをお願いします。

ありがとうございました。
では、きょうの聖書箇所は、
ルカの福音書1章26-38節です。

 きょうで私の当務は3回目ですが、なぜか3回とも早天なんですが、第1回目の当務の時は57節から80節まで、第2回目は39節から56節までを読みましたので、だんだん戻ってきていまして、きょうお読みするのは26節から38節までです。私のほうでお読みします。

「……」

 この箇所はクリスマスの時期になると、きっとどの教会でも良く読まれる箇所だと思います。私も2001年8月の第二聖日から高津教会の礼拝に出席し始めて、一度も休まずに出ていましたが、ずっと「ガラテヤ人への手紙」の講解だったんですね。(召天者記念礼拝や子どもの礼拝の時は別の箇所だったかもしれませんが、とにかくそれ以外は全部ガラテヤ書でした。)それがクリスマスの時期になったら急に、このイエス・キリストの誕生に関わる福音書からの説教に変わったので、非常に新鮮な印象を受けました。
 さて、きょう、まず目を留めたいのは、32節です。
「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」
 この神の御使いガブリエルの、生まれてくる子に「父ダビデの王位をお与えになります」という言葉は、後にバプテスマのヨハネと、また母であるマリヤ自身をも、つまずかせる原因になったのではないかと思います。

聖書引用①:バプテスマのヨハネ ルカ7章18節-23節
nイエス様はダビデのような王様になって人の上に立つような方と思っていたのに、貧しい人たちのように社会の最底辺にいる人たちばかり相手にしていて、一向に上に立つ気配がないために、バプテスマのヨハネはつまずきました。そして、母のマリヤも、

聖書引用②:マルコ3章21節と31節
  息子を心から信じているのであれば、マリヤはイエスを擁護すればよいと思うのですが、家族と一緒になって息子のイエスを連れ戻そうとしています。マリヤもやはり息子がダビデのような王様になると思っていたのに、一向にその様子がないので、わけが分からなくなってしまっています。

 余談になりますが、こういう所は、福音書が事実を記しているという信頼度を高める箇所だと思いますね。有名なところでは、例えばイエスが十字架上で死んで墓に葬られた後、墓が空っぽであることを最初に発見したのは女たちだったということです。当時、女性の地位は非常に低かったということですから、イエスの復活を人に信じてもらうためには、もっと社会的に地位の高い人を第一発見者ということにしたほうが、信頼性が高まるので、そのように作り変えることもあり得る話なのですが、福音書では、女性が発見したことになっている。だからこそ、福音書は信用できるのだという考え方があります。私もその考えには大いに納得するところです。ですから、このマルコ3章21節の記述にしても、イエスの信用度が落ちるようなことを、わざわざ書き記す必要はないと思うのですが、しっかりと書いてある。だからこそ、福音書の記述は信頼できると私は思っています。
 少し脱線しました。元に戻ります。ガブリエルはマリヤに、生まれてくる子に「父ダビデの王位をお与えになる」と告げました。このことがマリヤやバプテスマのヨハネをつまずかせる原因になったのではないかと述べました。
 じゃあ、御使いガブリエルはマリヤに正直に、神様があなたのおなかから生まれると告げるべきだったでしょうか。その場合は、あまりに畏れ多くて、ストレスがたまって、赤ちゃんを無事に産めないことにもなりかねないですね。ですから、ガブリエルはその辺を配慮して「父ダビデの王位」という人間レベルにとどめたのかもしれないですね。
 いずれにしても、神様が人間のおなかから生まれてくるということは、常識では考えられないことですから、信じろというほうに無理があると思います。神様から祝福されて大きな役割を託されたマリヤとバプテスマのヨハネでさえ、そうだったのですから、ましてそれ以外の一般人にとっては受け入れがたいことは当然のことだったと思います。
 今までの常識では考えられないことが唱えられた時の人々の反応というのは、いつの時代でもそうです。コペルニクスの地動説などは代表的な例だと思います。ちなみにコペルニクスは1473年に生まれて1543年に死んでいます。宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイが生まれたのがコペルニクスの死後約20年後の1564年ですから、新しい説が受け入れられるのには、本当に時間が掛かるものだと思います。
 もう二つほど例をあげさせてください。まず、大陸移動説を提唱したウェーゲナーという学者は、1880年生まれで、1912年に大陸移動説を提唱しましたが、受け入れられませんでした。単に海岸線の地形が似ているからとうだけでなく、アフリカ大陸と南米大陸の対岸で同じような化石が発見されるなど、様々な証拠があったのに、肝心の大陸移動のメカニズムを提唱することができなかったので、大陸移動説は受け入れられませんでした。そのメカニズムに関してウェーゲナーは何も提唱しなかったのではなく、いろいろなアイデアは出しているのですね。私も詳しいことは分かりませんが、地球の自転の力が大陸を動かすのだとか、そういうことを提唱します。そうすると、そのほうの専門家が計算する。すると、自転ではとても大陸を動かすだけの力を与えることはできないことがわかる。そんな具合です。結局、ウェーゲナーはさらなる証拠を求めてグリーンランドを探検中に遭難して死んでしまいます。1930年のことです。このウェーゲナーの大陸移動説が見直されるようになったのは、戦後になってプレート・テクトニクス理論などが出てきてからです。マントルがゆるやかに熱対流して、その上に載っている地殻も動き、その地殻のプレートがぶつかり合ったり沈み込んだりすると山脈ができたり海溝ができたり、地震が起こったりする。このプレートテクトニクス理論がかなりいろいろなことを説明できるということで支持されるようになり、大陸もその地殻の運動により移動するということでウェーゲナーの大陸移動説も再び光が当てられるようになったというものです。小松左京氏の小説を原作にした映画『日本沈没』も、このプレートの沈み込み運動を基にした話です。今では我々は大陸移動説を当たり前のように受け入れていますが、ウェーゲナーが死んでから30年以上たってから、ようやく認められたものです。
あと一つの例として、私の金属材料の研究の師匠のK先生の研究について短く話させてください。先生は金属の変形理論の教科書には載っていない新しいメカニズムがあるということを示す実験結果を得て、新たに研究プロジェクトを興し、熱心に研究を推進しましたが、結局、信頼性のある新しいメカニズムを提唱できなかったために、信用してもらえませんでした。そうこうしているうちに、5年前に亡くなってしまい、今ではその新しい結果自体も従来の理論で説明できるということになってしまっています。私はそれが悔しくて細々とですが研究を続けました。しかし、全くの異端扱いで冷たい目で見られ続けました。それが、おととし、昨年あたりから、漸く何が起きているかが分かってきました。でも、相変わらずの異端扱いが続き、新しいことを人に認めさせることの難しさを、私自身も身を持って体験しました。
 こういう科学の世界でこうなのですから、信仰に関しては、なおさらそうなのではないでしょうか。ですから、私はイエス様がどういうお方か分からなかった人が多くいたということは、至極当然のことと思っています。不信仰な言い方を敢えてすれば、イエス・キリストが神であり、また人でもあるということを信じている我々のほうが、不思議と言ってよいかもしれません。我々を信仰に導いてくださった神様の愛の大きさは本当に計り知れないほど大きいということです。でも、きょうのこの早天の最初に述べたように、計り知れないものが、一体どれくらいのものなのかということを、できるだけ知る努力をしたほうが良いと私は考えます。
 そこで、この人知を遥かに越えたキリストの愛というものを推し量るヒントに、もしかしてなるかもしれないことを、少し述べさせていただきます。これは私流のとらえ方ですから、皆さんに押し付けるものではありませんが、参考になればと思い、話します。
 いま地球上で暮らしている、何十億人という人々の一人ひとりについて神様はご存知かということについて考えるとき、皆さんはどう思われるでしょうか。私の場合は、何しろ神様は人知を遥かに越えた存在ですから、ご存知なんだろうなと思います。そうして、安心感を持つことができます。しかし、確信を持って、そう思えるのは、自分の目線が地上にある時です。旅行で飛行機に乗って窓から地上を見下ろした時などは、私は、かなりの不安にかられます。本当に神様はこの地上の人間の一人ひとりについてご存知なのだろうかと。飛行機の窓から見る地上は、高度にもよりますが、だいたいにおいて、大きな建物なら何とか見えますが、普通サイズの家などでは小さすぎて全然わかりません。その見えないほどに小さな無数の家の中で暮らす、もっと小さな我々のような者の一人ひとりを本当に見ていてくださるのだろうか、ものすごく不安にかられます。でも、何しろ神様は人知を遥かに越えた存在だからと、今度も自分を言い聞かせようとしますが、地上の時のような安心感は持つことができません。すると、地上で得られる安心感とは何でしょうか。ははあ、それが聖霊の働きなのだなと、合点がいった私です。飛行機に乗って天から地上を見下ろしても、しょせんは人間ですから、神のことなど分かるわけもなく、神の心など考え始めると、いたずらに不安が増すだけです。しかし、地上では違うのです。
 こうして私は、三位一体とは、どのようなこととか、人知を遥かに越えたキリストの愛というものを、ほんの少しだけ分かったような気でいます。でも、これはほんの一面的な理解の仕方ですから、もっともっと理解できるようになりたいです。このように求め続ける姿勢がきっと大事なのではないかと思います。
 さてここで、もう一度御使いガブリエルがマリヤに告げた言葉に目を留めたく思います。
 当時、ローマ帝国の圧政下にあったイスラエルの民にとっては、ダビデ王のような自分たちの王を持つことは大きな望みだったはずです。つまり、御使いガブリエルがマリヤに告げた、生まれて来る子が神により父ダビデの王位を授かるというのは、まさにイスラエルの民が望むレベルのことを、そのまま予告したものだと言えると思います。しかし、神様が実際にイスラエルの民にしてくださったことは、それよりも遥かに優る素晴らしいことでした。もし、イスラエルの民が神としてのイエス・キリストを受け入れれば、自分たちの王を持つことなど、神は簡単にかなえてくださったのではないでしょうか。しかし、イスラエルの民はイエス・キリストを受け入れなかったために、自分たちの王も得ることができなかったのです。
 このように神様は私たちが望む人間レベルのものより、もっともっと大きなものを授けてくださる用意をしていてくださるお方です。しかし、我々は人間レベルのことしか考えが至らないので、神様がせっかくくださろうとしている大きな恵みを逃してしまっていることが往々にしてあるのではないでしょうか。
 それゆえに、我々は、人知を遥かに越えたキリストの愛に思いを馳せる努力をし続けていかなければならないのではないかと思います。

 最後に、もう一度、「エペソ人への手紙」3章の17,18,19章を一緒に読んで、メッセージを閉じたく思います。

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」

一言お祈りいたします。
天におられる父なる神様
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主イエスキリストの御名を通して、感謝してお祈りいたします。

それでは、導かれた方から、順次お祈りをしていただけますよう、
お願いします。