忙しい…2008年11月27日 13時48分

 寒くなってきてから、急に忙しくなってきました。
 広い敷地に掃いても掃いても落ちてくる落ち葉の掃除、10箇所以上ある灯油タンクへの燃料補給、複数の大型クリスマスツリーの準備、宣教師の先生方へのクリスマスカード書き、クリスマス行事のための聖歌隊(複数)のコーラス練習などなどが増し加わり、授業の宿題や説教の原稿作りなどをじっくり行う時間がなくなり、あせります。インターネットをゆっくり閲覧する余裕もなくなりました。
 ブログも間があいてしまいました。とりあえず、先週行った早天祈祷会の説教の原稿をアップします。

2008年11月19日早天祈祷会 原稿

 賛美歌をもってきょうの早天祈祷会を始めます。
 479番「遠き国や海のはて」を歌います。これは日本で関東大地震があった時、その震災に遭った日本を思って作られた歌ということです。きょうの説教に少しだけ関係しますので、歌ってみたく思います。

 ありがとうございました。
 では、きょうは、まず「エペソ人への手紙」の3章14節を開きたく思います。
 エペソ人への手紙3章14節から21節までを交代で読みましょう。14節は短い節ですので、すぐに皆さんの番の15節になりますから、遅れないように、よろしくお願いします。

「こういうわけで、私はひざをかがめて、
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 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」
ありがとうございました。
 この箇所は、何を隠そう、私が旧約・新約、聖書全体を通じて最も好きな箇所です。きょうは、後でお読みするルカの福音書1章の箇所も含めて、このイエス・キリストの大きな愛ということに、ご一緒に思いを馳せてみたく思っています。
 私たちは説教の中でキリストの愛というものを語るわけですが、限られた時間の中ではキリストの大きな愛のほんの一部しか伝えることはできません。それなら、非常に長い説教時間が与えられたなら、語り尽くせるのか、と言えば、もちろんそんなものではないということは、皆さんもよくご存知のことです。ですから、与えられた、限られた時間の中でその一部をしっかりと伝えるということで、もちろん良いのですが、そうではあっても、イエス様の愛はまだまだこんなもんじゃない、もっともっと雄大なものなのだということをも、暗に示せるような、この、「暗に」というところが案外味噌なのかもしれませんが、そのような説教でなければならない、と私自身は思っています。
 では、いったいその大きさはどれくらいなのかと言うと、「人知をはるかに越えている」ということですから、我々には分からないぐらい大きいのです。だったら考えても無駄じゃないか、ということにもなりかねませんが、そうではないんですね。私たちは想像力を広げる努力を常にしていないと、適当なところで満足してしまいます。そうすると、我々にとってのキリストの愛の大きさというのは、そこで留まってしまいます。人知を遥かに越えているということは、私たちの知りうる限界をいくら膨らませても、追いつくことはできない、だから我々は限界を設けないで常にその大きさがどれくらいなのかを追い求めていかなければならないと思います。

 では、ここで、ひむなるを一曲歌って神様を賛美しましょう。
ひむなる58番「おどろくほどの主の愛」を歌います。この曲は1節しかないので、2回歌いたく思います。よろしくお願いします。

 ありがとうございました。
 では、週番の兄弟にけさの早天祈祷会のためにお祈りをお願いします。

ありがとうございました。
では、きょうの聖書箇所は、
ルカの福音書1章26-38節です。

 きょうで私の当務は3回目ですが、なぜか3回とも早天なんですが、第1回目の当務の時は57節から80節まで、第2回目は39節から56節までを読みましたので、だんだん戻ってきていまして、きょうお読みするのは26節から38節までです。私のほうでお読みします。

「……」

 この箇所はクリスマスの時期になると、きっとどの教会でも良く読まれる箇所だと思います。私も2001年8月の第二聖日から高津教会の礼拝に出席し始めて、一度も休まずに出ていましたが、ずっと「ガラテヤ人への手紙」の講解だったんですね。(召天者記念礼拝や子どもの礼拝の時は別の箇所だったかもしれませんが、とにかくそれ以外は全部ガラテヤ書でした。)それがクリスマスの時期になったら急に、このイエス・キリストの誕生に関わる福音書からの説教に変わったので、非常に新鮮な印象を受けました。
 さて、きょう、まず目を留めたいのは、32節です。
「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」
 この神の御使いガブリエルの、生まれてくる子に「父ダビデの王位をお与えになります」という言葉は、後にバプテスマのヨハネと、また母であるマリヤ自身をも、つまずかせる原因になったのではないかと思います。

聖書引用①:バプテスマのヨハネ ルカ7章18節-23節
nイエス様はダビデのような王様になって人の上に立つような方と思っていたのに、貧しい人たちのように社会の最底辺にいる人たちばかり相手にしていて、一向に上に立つ気配がないために、バプテスマのヨハネはつまずきました。そして、母のマリヤも、

聖書引用②:マルコ3章21節と31節
  息子を心から信じているのであれば、マリヤはイエスを擁護すればよいと思うのですが、家族と一緒になって息子のイエスを連れ戻そうとしています。マリヤもやはり息子がダビデのような王様になると思っていたのに、一向にその様子がないので、わけが分からなくなってしまっています。

 余談になりますが、こういう所は、福音書が事実を記しているという信頼度を高める箇所だと思いますね。有名なところでは、例えばイエスが十字架上で死んで墓に葬られた後、墓が空っぽであることを最初に発見したのは女たちだったということです。当時、女性の地位は非常に低かったということですから、イエスの復活を人に信じてもらうためには、もっと社会的に地位の高い人を第一発見者ということにしたほうが、信頼性が高まるので、そのように作り変えることもあり得る話なのですが、福音書では、女性が発見したことになっている。だからこそ、福音書は信用できるのだという考え方があります。私もその考えには大いに納得するところです。ですから、このマルコ3章21節の記述にしても、イエスの信用度が落ちるようなことを、わざわざ書き記す必要はないと思うのですが、しっかりと書いてある。だからこそ、福音書の記述は信頼できると私は思っています。
 少し脱線しました。元に戻ります。ガブリエルはマリヤに、生まれてくる子に「父ダビデの王位をお与えになる」と告げました。このことがマリヤやバプテスマのヨハネをつまずかせる原因になったのではないかと述べました。
 じゃあ、御使いガブリエルはマリヤに正直に、神様があなたのおなかから生まれると告げるべきだったでしょうか。その場合は、あまりに畏れ多くて、ストレスがたまって、赤ちゃんを無事に産めないことにもなりかねないですね。ですから、ガブリエルはその辺を配慮して「父ダビデの王位」という人間レベルにとどめたのかもしれないですね。
 いずれにしても、神様が人間のおなかから生まれてくるということは、常識では考えられないことですから、信じろというほうに無理があると思います。神様から祝福されて大きな役割を託されたマリヤとバプテスマのヨハネでさえ、そうだったのですから、ましてそれ以外の一般人にとっては受け入れがたいことは当然のことだったと思います。
 今までの常識では考えられないことが唱えられた時の人々の反応というのは、いつの時代でもそうです。コペルニクスの地動説などは代表的な例だと思います。ちなみにコペルニクスは1473年に生まれて1543年に死んでいます。宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイが生まれたのがコペルニクスの死後約20年後の1564年ですから、新しい説が受け入れられるのには、本当に時間が掛かるものだと思います。
 もう二つほど例をあげさせてください。まず、大陸移動説を提唱したウェーゲナーという学者は、1880年生まれで、1912年に大陸移動説を提唱しましたが、受け入れられませんでした。単に海岸線の地形が似ているからとうだけでなく、アフリカ大陸と南米大陸の対岸で同じような化石が発見されるなど、様々な証拠があったのに、肝心の大陸移動のメカニズムを提唱することができなかったので、大陸移動説は受け入れられませんでした。そのメカニズムに関してウェーゲナーは何も提唱しなかったのではなく、いろいろなアイデアは出しているのですね。私も詳しいことは分かりませんが、地球の自転の力が大陸を動かすのだとか、そういうことを提唱します。そうすると、そのほうの専門家が計算する。すると、自転ではとても大陸を動かすだけの力を与えることはできないことがわかる。そんな具合です。結局、ウェーゲナーはさらなる証拠を求めてグリーンランドを探検中に遭難して死んでしまいます。1930年のことです。このウェーゲナーの大陸移動説が見直されるようになったのは、戦後になってプレート・テクトニクス理論などが出てきてからです。マントルがゆるやかに熱対流して、その上に載っている地殻も動き、その地殻のプレートがぶつかり合ったり沈み込んだりすると山脈ができたり海溝ができたり、地震が起こったりする。このプレートテクトニクス理論がかなりいろいろなことを説明できるということで支持されるようになり、大陸もその地殻の運動により移動するということでウェーゲナーの大陸移動説も再び光が当てられるようになったというものです。小松左京氏の小説を原作にした映画『日本沈没』も、このプレートの沈み込み運動を基にした話です。今では我々は大陸移動説を当たり前のように受け入れていますが、ウェーゲナーが死んでから30年以上たってから、ようやく認められたものです。
あと一つの例として、私の金属材料の研究の師匠のK先生の研究について短く話させてください。先生は金属の変形理論の教科書には載っていない新しいメカニズムがあるということを示す実験結果を得て、新たに研究プロジェクトを興し、熱心に研究を推進しましたが、結局、信頼性のある新しいメカニズムを提唱できなかったために、信用してもらえませんでした。そうこうしているうちに、5年前に亡くなってしまい、今ではその新しい結果自体も従来の理論で説明できるということになってしまっています。私はそれが悔しくて細々とですが研究を続けました。しかし、全くの異端扱いで冷たい目で見られ続けました。それが、おととし、昨年あたりから、漸く何が起きているかが分かってきました。でも、相変わらずの異端扱いが続き、新しいことを人に認めさせることの難しさを、私自身も身を持って体験しました。
 こういう科学の世界でこうなのですから、信仰に関しては、なおさらそうなのではないでしょうか。ですから、私はイエス様がどういうお方か分からなかった人が多くいたということは、至極当然のことと思っています。不信仰な言い方を敢えてすれば、イエス・キリストが神であり、また人でもあるということを信じている我々のほうが、不思議と言ってよいかもしれません。我々を信仰に導いてくださった神様の愛の大きさは本当に計り知れないほど大きいということです。でも、きょうのこの早天の最初に述べたように、計り知れないものが、一体どれくらいのものなのかということを、できるだけ知る努力をしたほうが良いと私は考えます。
 そこで、この人知を遥かに越えたキリストの愛というものを推し量るヒントに、もしかしてなるかもしれないことを、少し述べさせていただきます。これは私流のとらえ方ですから、皆さんに押し付けるものではありませんが、参考になればと思い、話します。
 いま地球上で暮らしている、何十億人という人々の一人ひとりについて神様はご存知かということについて考えるとき、皆さんはどう思われるでしょうか。私の場合は、何しろ神様は人知を遥かに越えた存在ですから、ご存知なんだろうなと思います。そうして、安心感を持つことができます。しかし、確信を持って、そう思えるのは、自分の目線が地上にある時です。旅行で飛行機に乗って窓から地上を見下ろした時などは、私は、かなりの不安にかられます。本当に神様はこの地上の人間の一人ひとりについてご存知なのだろうかと。飛行機の窓から見る地上は、高度にもよりますが、だいたいにおいて、大きな建物なら何とか見えますが、普通サイズの家などでは小さすぎて全然わかりません。その見えないほどに小さな無数の家の中で暮らす、もっと小さな我々のような者の一人ひとりを本当に見ていてくださるのだろうか、ものすごく不安にかられます。でも、何しろ神様は人知を遥かに越えた存在だからと、今度も自分を言い聞かせようとしますが、地上の時のような安心感は持つことができません。すると、地上で得られる安心感とは何でしょうか。ははあ、それが聖霊の働きなのだなと、合点がいった私です。飛行機に乗って天から地上を見下ろしても、しょせんは人間ですから、神のことなど分かるわけもなく、神の心など考え始めると、いたずらに不安が増すだけです。しかし、地上では違うのです。
 こうして私は、三位一体とは、どのようなこととか、人知を遥かに越えたキリストの愛というものを、ほんの少しだけ分かったような気でいます。でも、これはほんの一面的な理解の仕方ですから、もっともっと理解できるようになりたいです。このように求め続ける姿勢がきっと大事なのではないかと思います。
 さてここで、もう一度御使いガブリエルがマリヤに告げた言葉に目を留めたく思います。
 当時、ローマ帝国の圧政下にあったイスラエルの民にとっては、ダビデ王のような自分たちの王を持つことは大きな望みだったはずです。つまり、御使いガブリエルがマリヤに告げた、生まれて来る子が神により父ダビデの王位を授かるというのは、まさにイスラエルの民が望むレベルのことを、そのまま予告したものだと言えると思います。しかし、神様が実際にイスラエルの民にしてくださったことは、それよりも遥かに優る素晴らしいことでした。もし、イスラエルの民が神としてのイエス・キリストを受け入れれば、自分たちの王を持つことなど、神は簡単にかなえてくださったのではないでしょうか。しかし、イスラエルの民はイエス・キリストを受け入れなかったために、自分たちの王も得ることができなかったのです。
 このように神様は私たちが望む人間レベルのものより、もっともっと大きなものを授けてくださる用意をしていてくださるお方です。しかし、我々は人間レベルのことしか考えが至らないので、神様がせっかくくださろうとしている大きな恵みを逃してしまっていることが往々にしてあるのではないでしょうか。
 それゆえに、我々は、人知を遥かに越えたキリストの愛に思いを馳せる努力をし続けていかなければならないのではないかと思います。

 最後に、もう一度、「エペソ人への手紙」3章の17,18,19章を一緒に読んで、メッセージを閉じたく思います。

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」

一言お祈りいたします。
天におられる父なる神様
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主イエスキリストの御名を通して、感謝してお祈りいたします。

それでは、導かれた方から、順次お祈りをしていただけますよう、
お願いします。