10月31日早天説教原稿2008年11月03日 20時17分

おはようございます。
 インマヌエル賛美歌492番の「なにゆえ我さえ」をもって今朝の早天祈祷会を始めます。

 ありがとうございました。
 けさは詩篇は開かずに、マルコの福音書とルカの福音書を開くことにいたします。
 マルコの福音書は、今週の火曜日の晩祷でK先生に教えていただいた箇所で、もう一つのルカの福音書は前回のザカリヤの続きで、マリヤとエリサベツが交わっている箇所です。
 前回の早天では、ザカリヤの信仰について見ました。神の御使いの言葉を信じなかったために口がきけなくなってしまったザカリヤでしたが、その間、神を恨むようなことはなく、むしろ神との交わりを深め、バプテスマのヨハネが生まれて再び口がきけるようになった時、壮大な神のほめ歌を歌ったというお話をしました。
 この前回のザカリヤの話を終えた直後から、私は次のマリヤとエリサベツの交わりの箇所から、どんな説教ができるだろうかと思い巡らしをしてきました。しかし、なかなか説教の形が見えて来ませんでした。なぜなら、この箇所は霊的にかなり深い洞察が必要だろうという予測だけはつくものの、それだけに、その深いところまで掘り進めていくことが難しかったからです。しかし、幸いなことに加藤先生の晩祷がきっかけで、このマリヤとエリサベツの箇所をどう読み解いたら良いのかということが私なりに見えてきました。きょうは、そのことについてお話しします。
 それで、きょうはまずルカを開き、少しだけお話をして、次にマルコを開き、その後で両方を見ながら話を進めていくことにします。
 では、まずルカの福音書1章39節をお開きください。ルカの福音書1章39節から56節までを交代で読んでいきます。1章39節から56節までです。

「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。…
 …、マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。」

ありがとうございました。
いまご一緒に読んだ箇所で私が前回以来ずっと思いを巡らしていたのは、41節の、
「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。」
という箇所です。ここを霊的にどう感じ取るかは、自分にとって大きなチャレンジだと思っていました。そして、今回、私なりに理解することができたと思っています。ここをどう読み取ったかは、マルコの箇所を読んでからお話しします。
 それから、このルカの福音書では、46節、47節の、
「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」
という箇所の、46節の「たましい」と47節の「霊」の違いという点についても注目してみたく思います。私が納得したことを、うまくお伝えできるかどうかわかりませんが、できるだけ分かり易く、お話ししたく思いますので、よろしくお願いします。また、間違って解釈している可能性もあります。その場合には、どうか、後で指摘してくださいますようにお願いします。
 では、マルコの箇所を読む前に、ひむなるを一曲、ご一緒に賛美しましょう。
 ひむなる119番「私を祝して」。 ひむなる119番です。

ありがとうございました。
 では、ここで週番のF兄弟に、今日のこの早天祈祷会のためにお祈りしていただきます。

 では、マルコの福音書3章22節をお開きください。マルコの福音書3章22節です。22節から30節までを、私のほうでお読みします。

「また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、…
 このように言われたのは、彼らが、『イエスは汚れた霊につかれている』と言っていたからである。」

以上です。
 火曜日の晩祷でK先生に教えていただいた箇所は、28節、29節の、

「神をけがずことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者は誰でも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

というイエス様のみことばです。三位一体の同じ神様であるはずなのに、なぜ、ここでは聖霊だけ違うことが書いてあるのか。非常に分かりにくいですが、でももしその一部分だけでも理解できれば、聖霊についての理解がグーンと進むはずです。皆さんの中には、父・御子と聖霊の違いをかなりきちんと把握している方もいらっしゃるかもしれませんが、私はこれまでのところ、漠然としたイメージはあるものの、あまり分かっていませんでした。特に聖霊が難しかったです。でもK先生から大きなヒントをいただき、さっそくこの28節、29節を含む、さきほどお読みした箇所について調べてみました。
 参照した本は『新実用聖書注解』(いのちのことば社)で、マルコの福音書については藤本満先生が執筆しています。藤本先生によると

29節の「聖霊をけがす」とは「聖霊を冒とくする」ことで、その聖霊を冒とくする罪とは、イエスの言葉と行いを通して現れる神の救いの力と恵みを意図的・意識的に拒絶することである。人の子の働きを悪霊の働きとして拒むなら、人の子の罪を赦す権威は、その人の上に及ぶことはない。

ということです。ということは、聖霊の働きとは、神の救いの力が現れる働きということになります。蔦田直毅先生のやさしい教理問答集『信仰のカルシウム』には「聖霊のお働きは何ですか?」というQ&Aが8つも載っていて、かなりのページ数が割かれており、それを読んでも聖霊の役割は、神の働きを人間に直接に現す働きを担うことだということが分かります。その『信仰のカルシウム』にある、「聖霊のお働きは何ですか?」に対する8つの答えのうちのいくつかは次の通りです。

・世の人の罪を示されます。
・イエス様を信じる人を、新たに生まれさせてくださいます。
・信仰者を慰め、助け、導いてくださいます。
・わたしたちの心をきよめ、聖いものとしてくださいます。

などです。
 これらを見ると、聖霊とは私たちの最も近くにいてくださる存在ということが分かってきます。しかし、私たちは、イエス様も近くにいてくださるとか、自分の内に住んでくださるという言い方をします。ですから、近くにいてくださるというだけでは、イエス様と聖霊の違いが依然として分かりにくいです。したがって、なぜイエス様を冒とくしても赦されるのに、聖霊を冒とくすると赦されないとは、どういうことなのかということが、わかりません。
 このマルコ3章29節をどう理解したらいいのか、思いを巡らしていた時、私の目に留まったのが、ルカの1章46,47節の、「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」の箇所です。この「たましい」と「霊」とは、どのように違うのでしょうか。或いは、同じなのでしょうか。この箇所に目が留まったのは、本当に幸いなことでした。これは、先週、I兄弟が当務の晩祷で読んだロマ書の8章の中の16節、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」という箇所が気に掛かっていたからではないかと思います。
 このロマ書8章16節に「御霊ご自身が私たちの霊とともに」とあるということは、聖霊と私たちの霊は、似た性質をもっていると解釈できるのではないでしょうか。では、もう一つの「たましい」とは、どんなものでしょうか。英語で霊はspirit、たましいはsoulです。私はたましいとかsoulというと、固まりのようなものを想像します。ゲゲゲの鬼太郎に出てくるような人魂(ひとだま)を連想してくださっても構いません。それで、私は、霊はたましいから外側に向けて放射される気のようなものではないかと思い至りました。これは、ただの思いつきですが、実はこれがそれほど間違ってはいないことがわかりました。
 『キリスト教辞典』(いのちのことば社)によると、新約聖書における「たましい」はギリシャ語のプシュケー、「霊」はプニューマであり、途中の説明は省略しますが、大体においてプシュケーとプニュマーは同意語であり、新約においては両語はしばしば互換的に使用されているとのことです。しかし、あえて両語を区別しようとすれば、プニューマ(霊)は神の側に向いた人間の非物質的本質、プシュケー(たましい)は人間の側に向いた非物質的本質と言うことができよう、と書いてあります。たましいは人間側、霊は神側ということですから、私が描いた、霊はたましいから外側に向けて放射された気のようなものというイメージも、いい線をいっていると言えると思います。
 そうすると、おのずと聖霊の姿も見えてきます。なぜなら、神様は人をご自身の形として創造された(創世記1章27節)からです。父と御子はたましいのように、ある程度の固まりとしてイメージされ、聖霊は父或いは御子イエスから放射されたような存在というイメージです。
 そうすると、聖霊は空気のように常に我々のまわりにいてくださるということになります。わたしは、これが、かなり正解に近いのではないかと考えています。では、なぜ、すぐ近くで我々をとりまいていてくださる聖霊を、我々はなかなか感じ取ることができないのでしょうか。それは、我々が、頑なな心を持っているからです。
 先月の9月28日の聖日に、私は高津教会の礼拝で「心の鎧(よろい)を脱いだナアマン」という説教をさせていただきました。聖書箇所は第二列王記5章9節から14節です。ツァラアトに侵されたナアマンが、病気を治してもらおうとわざわざエリシャの家まで行ったのに、エリシャはナアマンに会おうとはせず、ただヨルダン川に身を7たび浸して洗えば治ると言ったことにナアマンは怒ってアラムへの戻ろうとしましたが、部下の進言を聞き入れてヨルダン川に7たび身を浸したら、エリシャのいう通りに体が元どおりになって、幼子のからだのようになったという話です。エリシャの家の前に行った時のナアマンはプライドの塊で、心にしっかりと鎧をつけていました。しかし、部下の進言を聞き入れてヨルダン川に身を浸すことにしたナアマンは少しだけ心の鎧をはずした。そして、ツァラアトに侵された身で、あまりきれいではないヨルダン川に身を浸すということは、非常に気持ちの悪いことであるから、ナアマンはその気持ちの悪さを我慢しながら神に必死になって祈ったに違いないと私は説教で話しました。そうして祈るうちに神様がナアマンの心の鎧、つまり心の頑なさを次第に取り除いて行ってくださった。そうして7度目に身を浸したときに心の鎧が完全に取り去られると同時にナアマンの体は元どおりになったのだ、という話をしました。
 この時、私は心の鎧が取り去られたイメージとして、焼いた切り餅の例えを示しました。焼いた切り餅は、表面はパリパリですが、引張って表面が割れると、中の柔らかいお餅の部分が表面に現れます。この柔らかい部分が、聖霊を感じることができる柔らかい心です。聖霊がいくら空気のように私たちを取り巻いていてくださっても、心の表面がパリパリでは、その存在を全く感じることができません。
 さあ、これでやっとマルコ3章29節を理解する準備が整いました。藤本満先生の注解をもう一度引用します。

29節の「聖霊をけがす」とは「聖霊を冒とくする」ことで、その聖霊を冒とくする罪とは、イエスの言葉と行いを通して現れる神の救いの力と恵みを意図的・意識的に拒絶することである。人の子の働きを悪霊の働きとして拒むなら、人の子の罪を赦す権威は、その人の上に及ぶことはない。

 つまり、こうです。無意識のうちに心の表面がパリパリになってしまって聖霊を感じることができなくなっていて、その結果、神をけがすことを言ってしまっている場合には、その罪は赦され、神様が心のパリパリを取り去って聖霊を感じるようにしてくださる。しかし、意図的に心の表面を頑なにしてしまって聖霊を拒絶する者に対しては、神様はその表面のパリパリを取り去ってはくださらず、したがって、そのまま死んでしまえば、さばきにより、とこしえの罪に定められる、というわけです。お分かりいただけたでしょうか。永遠に赦されず、とこしえの罪に定められるとは、罰を与えられるというのではなく、ただ単に永遠に放置されるという意味なのです。イスラエルの初代王サウルのように、神に見放されるということです。
 聖霊を感じるには、心の表面がパリパリではダメで、柔らかくなければダメなのです。では、究極の柔らかさを持つ心とは何でしょうか。それが、ルカ1章41節でマリヤのあいさつに反応した、エリサベツの胎内にいたバプテスマのヨハネの心です。マリヤは既にイエスを胎内に宿していましたから、マリヤとイエスとは一体であり、マリヤがあいさつに来た時に、微弱ながらイエスの霊も放射されていたのです。マリヤは妊娠したばかりですから、イエスの霊は本当に微弱で、信仰が厚くて柔らかい心を持ったエリサベツにも感知できなかった。それを、胎内の子は感知して喜びおどったのです。そんな超高感度のセンサーを持っていたバプテスマのヨハネでさえ、ルカ7章20節では、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちは、なおほかの方を待つべきでしょうか」と言ってつまずいているのですから、ましてや私たちの聖霊への感受力は本当に微弱であると言うことができるのではないでしょうか。
 こんな私たちの心を神様に柔らかくしていただくには、この祈祷室の額に「祈祷不倦」とあるように、倦むことなく祈る、それも、ただ祈るのではなく、聖霊への感受性を高めるという意識を持って祈らなければならないと思います。

 ひとことお祈りいたします。
 天におられる父なる神様。
 きょうは、いろいろな聖書箇所を見てきましたが、最後に、エリサベツの胎内でバプテスマのヨハネがおどったことの解釈にまで、たどり着くことができたことを感謝いたします。
 私たちの聖霊に対する感受性には様々なレベルがあることです。このエリサベツの胎内のヨハネのような超高感度のものから、無意識のうちに心に鎧を付けてしまっているナアマン、そしてイエスが悪霊につかれているとした律法学者のように、聖霊をけがす者まで、実にさまざまです。現代を生きる私たちの環境は、この感受性を弱めるものに溢れていることを覚えることです。その中にあって、どうか神様、私たちの聖霊に対する感受性を高めて、あなたをもっともっと感じ取るものと変えてくださいますように、どうかよろしくお願いいたします。きょう、このような幸いな早天祈祷会の時を持つことができたことを感謝しつつ、主イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします。アーメン。

 それでは、どなたからでも構いませんので、導かれた方から、お祈りを始めていただけますよう、よろしくお願いいたします。