実家、取り壊し中2012年08月02日 07時56分


 静岡の実家が老朽化して火災や地震での倒壊の危険があるので、中古のマンションを購入して、引越しました。この実家の土地は既に仮の売買契約を済ませ、更地にした後に正式に売却されます。

 先週から建物の取り壊しが始まるというので、私は先週の前半に静岡に帰省して来ましたが、まだ作業は始まっていませんでした。空っぽの家の中に入り、最後のお別れをして来ました。そして先週の後半に東京の兄が帰省した時には、窓ガラスや壁材、畳がはずされていたとのことで、写真を送ってくれました。

 幼稚園の頃から住み、高校を卒業して静岡を離れてからも盆暮れには帰省していた家が壊され、土地も人手に渡るのは寂しいですが、私も新たな再出発の時期にあることを強く感じます。

 今年のオリンピックで私は、メダルを取れなかった選手の無念の気持ちが今までのオリンピックよりも心に響いてきます。今大会で引退する選手も、次のオリンピックを目指す選手も、再出発のために今までの自分をいったんバラバラにして新たに組み上げて行くのでしょう。再出発する選手たちの健闘を祈りたいと思います。

広島・長崎の原爆の日を前に2012年08月05日 08時15分

 4月以降、私は教会の礼拝メッセージは新しく開設した教会のブログ(右欄のリンク)に載せるようにして、こちらには載せていませんでした。
 しかし、きょうの礼拝のメッセージは広島・長崎の原爆のことと絡めてありますので、こちらにも載せることにします。
 長文ですが、読んでみていただければ感謝です。

2012年8月5日伝道礼拝メッセージ

『神の子どもと悪魔の子ども』
【マタイ5:9/Ⅰヨハネ3:1~12】

 きょうは8月5日で、明日は8月6日です。そして、その3日後は8月9日です。8月6日と9日は言うまでもなく、広島と長崎に原爆が投下された日です。
 私は広島と長崎とでは、長崎の方に最初に行きました。大学1年生だった1978年、友達と九州旅行に行き、その時に長崎の原爆資料館にも行きました。ただ、その後は、長崎市には行けていないので、また機会を作って行かなければならないと思っています。
 私が広島の原爆資料館に初めて行ったのは、1985年だったと思います。そして、次に広島の原爆資料館を訪れたのは1995年でした。その後、広島へは数え切れないぐらい何度も行きましたが、なぜか原爆資料館には足が向かず、次に行ったのは、やはり10年後の2005年のことでした。
 この2005年は、それまでの自分とは大きく変わっていたことがありました。それは、私が2001年に洗礼を受けて、クリスチャンになっていたことでした。そして、この2005年の原爆資料館を見た時、それまでにない衝撃を受けました。
 それまでも、つまりクリスチャンになる前も、原爆という核兵器がもたらす被害の甚大さには衝撃を受けていました。しかし、2005年は、また別の衝撃を受けました。それは、人間がこんなにも巨大な悪に手を染め、悪を為し得るのだということに衝撃を受けました。それは2005年の夏のことでしたが、原爆資料館を出た私は木陰のベンチに座り、持っていた携帯用の小さな聖書を開きました。そして、マタイ5章9節を何度も読み返しました(この時持っていたのは新改訳聖書の第2版でしたが、ここでは第3版から引用します。)

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)

 それ以来、私は何度も広島に行き、原爆資料館を訪れました。1泊2日で広島に行った時などは、必ず2日とも原爆資料館に行きました。そうして私はもう何十回も原爆資料館を見学しました。そして、マタイ5:9の「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」とは、どういうことか、いつも気に掛けていました。いつも心のどこかに引っ掛かっていました。そして、このことが、私がそれまでの仕事を辞めて、牧師を志すことにつながって行ったのだと思っています。
 私はこの、マタイ5:9の
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」
は、分かるようで分からない聖句だと思っていました。何となく引っ掛かる、ちょっとした違和感のようなものを感じていました。
 その違和感とは何だったかと言うと、最近ようやく分かって来たのですが、それは私のこの聖句のとらえ方が間違っていたから違和感を感じていたようです。私のとらえ方とは、文字通り、額面通りにこの聖句をとらえることで、平和運動のように積極的に平和活動に取り組めば神の子どもと呼ばれるのだろう、というとらえ方でした。しかし、そうすると、平和運動のようなことをしていない人は神の子どもとは呼ばれないのか、ということになってしまいます。そのことを無意識に感じて、違和感を感じていたのではないかと思います。
 聖書には、イエス・キリストを信じれば、その人は神の子どもとされると記されています(ヨハネ1:12他)。ですから、別に平和運動に加わって、デモ行進をしたり、何か特別に平和のための活動をしなければ神の子どもになれないというわけではありません。
 では、このマタイ5:9の「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」は、どのように理解したらよいのでしょうか。

 私は最近、この聖句は反対側から見たほうが分かりやすくなるのではないかと、考えるようになりました。反対側から見るとは、「神の子ども」ではなく、「悪魔の子ども」の側から見る、ということです。
 そして、「悪魔の子ども」の側から見たほうが、聖書の初心者にも分かりやすいものになるのかもしれません。きょうは伝道礼拝です。伝道礼拝の説教では、聖書の初心者にもなるべく分かっていただける話をしたいと心掛けています。
 ですから、戦争について考える機会の多い、この8月の伝道礼拝に、マタイ5:9の「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」について考えてみることにしました。

 私は思うのですが、一般の日本人の神を信じる本気度と、悪霊を信じる本気度を比べると、悪霊を信じる本気度のほうが、より強いのではないかと思います。
 日本人は厄年を強く意識すると思いますし、厄除けや厄払いも意識します。家を建てる時などは、神主さんにお祓いをしてもらったりしますが、これはその土地の神様に祝福されることを願うというよりは、災いやたたりが無いよう、厄除けのお祓いをしてもらう意味合いのほうが強いだろうと思います。
 縁起の悪さも、縁起の良さより強く意識されるだろうと思います。何かの行事を行うのに、仏滅の日は何としてでも避けようとするでしょう。それは大安の日に行事を行おうとする熱意よりも強いと思います。おめでたい行事は、できれば大安の日であればありがたいけど、大安でなくても、まあ仕方がない。しかし、仏滅だけは絶対に避けたいと思う日本人が多いでしょう。つまり、日本人は神仏による祝福よりも、悪霊による災いを、より強く意識していると言えます。ですから、神のほうは本気で信じていなくても、悪霊のほうは、かなり本気で信じているということになるのだと思います。
 私の母は「四」という数字を忌み嫌い、非常に気にします。私が子どもの頃、母が私たち兄弟にお菓子を与えてくれた時なども、お菓子を4個与えてくれるということは無く、たいてい3個か5個でした。私は4個だったら丁度良いのになと、よく思っていました。そういう親の考え方というのは子にも受け継がれるもので、私も4という数字はなるべく避けるようになってしまっていました。しかし、クリスチャンになってからは、神への信仰があれば、そんなこと気にしなくてよいことが分かり、4という数字からも解放されて気が楽になりました。

 さて、この災いをもたらす悪霊というのは、宗教によって大きく異なるということはないように思います。日本人が考える悪霊と聖書に出て来る悪霊とは、そんなに大きくは異ならないと思います。悪霊ではなく、神のほう、日本人が考える神と聖書の神とは全く異なります。しかし悪霊のほうは、そんなには違わないと思います。
 では、悪魔はどうでしょうか。悪魔というのは、悪霊の親分みたいなものだと考えていただいて良いと思います。悪魔というと、何となく西洋的な臭いがしますから、悪霊は信じるけれど悪魔は信じないという日本人も、結構いるかもしれません。しかし、悪魔は存在します。私は悪魔の存在を確信しています。その理由は、一つには、悪魔に関する記述が聖書にちゃんとあるから、ということももちろんあります。しかし、広島・長崎を訪れて原爆資料館を見るなら、悪魔の存在を考えないわけにはいかない、というのが私が悪魔の存在を確信する大きな理由です。私の悪魔観は、原爆資料館に通ううちに、形成されていったと言って良いと思います。
 2005年、私がクリスチャンになってから初めて原爆資料館を訪れたとき、それまでとは違う衝撃を私は受けたと、きょう私は最初のほうで話しました。人間がこれほどまで巨大な悪に手を染め、為しうるのだということに衝撃を受けたと話しました。このような巨大な悪を人間が行ったことの背後には悪魔の存在を考えないわけにはいきません。
 私が原爆投下のどこに悪魔性を感じるかというと、単に原爆が甚大な被害をもたらす核兵器であるという点だけでなく、アメリカが原爆投下のために実に周到な準備を行っていた点にあります。
 アメリカは1945年の6月、最初の原爆投下の目標都市として小倉、広島、新潟を選びました。そして、これらの都市への爆撃機による攻撃を禁止しました。爆撃で建物を破壊してしまうと、その後で原爆を投下しても、原爆が実際に建物を破壊する力がどれくらいあるのか調べることができなくなるからです。新型爆弾の威力を見るために、このようなことをするのは冷静に考えれば当然のことかもしれません。しかし、その冷徹さは、温かい血が流れている人間のものではなく、悪魔のものです。
 周到な準備はそれだけではありません。アメリカ軍は、原爆と同じ大きさと重さを持つ模擬爆弾を作り、投下訓練を繰り返しました。この模擬爆弾はパンプキン爆弾とも呼ばれ、最初は海上で投下訓練をしていましたが、約50個が日本の全国各地に投下され、この模擬爆弾の投下だけで400名以上が死亡したそうです。何故そんなに投下のための練習が必要かと言うと、原爆の威力を最大限に発揮させるには、原爆は地上で爆発させるより、空中で爆発させたほうが、より効果的だからです。原爆を飛んでいる飛行機から投下して、目標地点の上空でうまく爆発させるためには、練習は欠かせなかったでしょう。また、原爆を投下した爆撃機は、すぐに反転して逃げなければ、大量の放射線を浴びてしまいます。そのために投下訓練が繰り返し行われました。
 そうした周到な訓練を経て広島に投下された原爆は、原爆ドームのほぼ真上の上空約600メートルで起爆して、核分裂反応が起こりました。
 この核分裂反応により強力な放射線の光が上空で放たれました。
 私が原爆投下を悪魔の仕業だと思う理由の一つとして、周到な準備を行ったことを、いま挙げましたが、もう一つの理由として、原爆が上空で光を放ったことを挙げたく思います。
 光は神の代名詞のようなものです。イエス・キリストは、「わたしは世の光です」と言いました。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)と言いました。この世が悪に満ち、暗闇であるのは、悪魔がこの世を支配しているからです。神の光は、この闇を照らして下さいます。原爆はこともあろうに、この神の代名詞である光を放って多くの人々を殺傷しました。まさに神を恐れぬ悪魔の仕業だと言えるでしょう。
 この強力な放射線の光は、地上で放つより、上空で放ったほうが、より広範囲の人々を殺傷することができます。ですから、アメリカは原爆を地上ではなく、上空で起爆させました。そして、この上空で起爆し、放射線を放った原爆は、次いで巨大な高温の火の玉を発生させて広島の街と人々を高温の熱線で焼き焦がしました。
 広島の原爆資料館にある被爆者の写真の中に、皮膚が着物の模様と同じ模様で焦げている写真があります。着物の黒っぽい模様の部分は、より多くの熱を吸収してその下にある皮膚を焼き焦がし、白っぽい部分の下の皮膚は無事でした。無事な部分があったことで、かえって熱線が皮膚を焼き焦がす威力の強さがわかります。爆心地の近くにいた人々の写真の髪の毛はみなチリチリになってアフロヘアのようになっていますが、それも熱線の影響が含まれるのでしょう。髪は黒くて熱線を吸収しやすいからです。
 そして、熱線の後には、火の玉からの強烈な爆風が建物や人々をなぎ倒して行きました。アメリカ軍は、この原爆の破壊力を調べるために、目標都市の爆撃を禁じて、建物を温存させていたのでした。
 またアメリカは原爆投下用の爆撃機だけでなく、観測用の飛行機も飛ばしました。軍事的に見れば、当たり前のことかもしれませんが、その冷徹さに、私は悪魔を感じないわけにはいきません。
 原爆という巨大な悪は、悪魔でなければ為し得ないと思います。そして、その悪魔の思惑通りに動いた人間は、悪魔の子どもです。

 では、ここから、非常に大切なことについて考えてみます。私たちは、まさか自分では原爆を製造したり使用したりすることはないだろうと思います。すると、自分は悪魔の子ではない、と思うでしょうか。恐らくそう思うでしょうね。まさか、自分が悪魔の子どもであるとは思わないでしょうね。
 では、悪魔の子どもではない自分は神の子どもでしょうか。きょうは伝道礼拝ですから、このメッセージは、まだ神様への信仰を持っていない方が対象です。まだ神様への信仰を持っていませんから、神の子どもとも違います。
 そうすると、自分は神の子どもでもないし、悪魔の子どもでもない、どちらでもない、ということになります。果たしてそうでしょうか。霊的なものを一切信じない人は、そう考えても良いでしょう。この世には、霊的なものは一切、存在しない。神の霊も、悪霊も存在しないのだと固く信じているのでしたら、自分は神の子でもないし、悪魔の子でもない、と考えても良いでしょう。
 しかし、多くの日本人は、悪霊の存在をかなり本気で信じています。ですから、神社へ行ったり、神主を呼んだりして、お祓いをしてもらいます。つまり、霊的な存在を信じています。その場合、まさか自分がその悪霊の子どもだとは思わないでしょうね。自分が、そんなチンピラみたいな悪霊の子どもであるはずがないと思うでしょう。事実、その通りです。私たちは、悪霊の子どもではありません。
 では、悪魔の子どもについては、どうでしょうか。悪霊の子どもでないなら、自動的に悪魔の子どもでもない、ということになるでしょうか。悪魔は、悪霊の親分のようなものです。この世の闇の世界を支配しており、原爆投下のような巨大な悪も平気で行うような存在です。皆さんは、自分は、その悪魔の子どもではないと言い切ることができるでしょうか。私たちは、あまりにも巨大な悪の中に飲み込まれてしまっていて、分からなくなっている、ということはないでしょうか。悪魔の悪さはあまりに巨大なので、自分は悪魔の子どもにされてしまっているのに、そのことに気付いていない、ということはないでしょうか。
 悪魔は悪霊の親分ですから、悪霊レベルの私たち人間から見れば悪魔の悪は人間の想像を絶する巨大な悪です。ですから、「自分は『悪霊』は信じるけれど、『悪魔』は信じない」という人がいたら、私は、そういう人は、悪魔の悪の大きさをあまりに低く見積もっていると思います。そういう人は既に悪魔に支配されていて、目が曇らされているということができると思います。悪魔に支配されているということは、悪魔の子どもになっているということです。

 実は、私たち人間は、「神の子ども」であるか、「悪魔の子ども」であるかの、どちらかでしかありません。神の子どもでもないし、悪魔の子どもでもない、ということはありません。必ず、どちらかの子どもになっています。もし、この世の霊的な存在を一切信じないのであれば、神の子でもないし、悪魔の子でもないと思っていただいても良いと思いますが、もし少しでも霊的な存在、神の霊や悪霊を信じるのであれば、自分は神の子どもであるか悪魔の子どもであるかのどちらかだ、と信じなければなりません。そして、神を信じない者は、全員が悪魔の子どもです。
 神を信じると言っても、八百万の神を信じていても、やはり悪魔の子どもです。悪魔がこの世を支配している力は強大ですから、万物を創造して万物を支配している神しか、悪魔を打ち負かすことはできません。小さな神社の神様程度では、悪魔の力に、とても太刀打ちすることはできません。神社でお祓いをしてもらえば、小さな悪霊なら去って行くかもしれませんが、巨大な悪を支配する悪魔の力から逃れることはできません。
 しかし、イエス・キリストを信じるなら、神は私たちを強大な悪魔の支配から守ってくださいます。イエス・キリストは、天にいる神とともに、万物を創造し、万物を支配しています。イエス・キリストはそのような絶大な力を持つ神ですから、悪魔の強大な力にも打ち勝つことができます。
 新約聖書のヨハネの手紙第一3章8節を見てください。新約聖書の468ページです。

「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」(Ⅰヨハネ3:8)

 私たちは、原爆を製造して投下するほどの巨大な罪は犯していないかもしれませんが、小さな罪はたくさん犯しています。もし、自分は罪を犯していないという人がいたら、それは、その人が悪魔に支配されていて、悪魔に目を曇らされているために、分からなくなっているだけです。悪魔は巧妙に策略をめぐらしますから、私たちは知らないうちに罪をたくさん犯しているのに、ぜんぜん気付いていません。原爆のような巨大な悪でさえ、多くのアメリカ人は悪いことをしていないと悪魔に思い込まされているのですから、小さな悪のことで私たちの目をあざむくことなど、悪魔にとっては、簡単なことです。
 神の子が現れたのはそのような悪魔の仕業を打ち壊すためです。この8節にある「神の子」とは、神の子イエス・キリストのことです。そして私たちは神の子イエス・キリストを信じると、私たちもまた神の子どもとされます。
 9節に、「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません」とあります。私たちはイエス・キリストを信じると、神の子として、新しく生まれ変わります。それが、「神から生まれる」ということです。

「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。
そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。」(Ⅰヨハネ3:9,10)

 10節に、「そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします」とあります。この聖書のことばより、私たちは「神の子ども」か「悪魔の子ども」かのどちらかであることが分かります。
 「神の子ども」と「悪魔の子ども」の中間とか、「神の子ども」でもないし「悪魔の子ども」でもない、ということはあり得ません。必ず、「神の子ども」か「悪魔の子ども」かのどちらかです。
 そして、ヨハネの手紙は次のように続けます。

「義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。」(Ⅰヨハネ3:10)

 「義を行わない者」とは、正しいことを行わない者ということです。そのような者は神から出た者ではありません。つまり、そのような者は、悪魔の子どもである、ということです。兄弟を愛さない者もそうです。兄弟を愛さない者も悪魔の子どもである、ということです。兄弟を愛さない者は、平和を愛さない者です。平和を愛さない者は、悪魔の子どもです。

 平和を愛さない者は悪魔の子どもです。
 ここで、もう一度、マタイの福音書5章9節について考えてみたく思います。
 「平和をつくる者は幸いです。その者たちは神の子どもと呼ばれるから。」というのは、今言った、「平和を愛さない者は悪魔の子どもです」の裏返しであると考えれば、わかりやすいと思います。イエス・キリストを信じて神の子どもとされている者は、すでに兄弟を愛し、平和を愛し、平和をつくる者とされています。わざわざ平和運動のデモ行進に参加しなくても、平和をつくる者とされています。
 人は皆、生まれた時は悪魔の子どもです。しかし、イエス・キリストを信じれば生まれ変わって神の子どもとされます。そして、イエス・キリストを信じなければ、悪魔の子どものままでいます。
 八百万の神を信じていても、小さな悪霊は追い払うことができるかもしれませんが、悪魔の強大な悪の力に打ち勝つことは、残念ながらできません。平和をつくる側の者になることはできないのです。
 ぜひ多くの方々にイエス・キリストを信じていただき、悪魔の子どもから、神の子どもに新しく生まれ変わっていただきたく思います。そして、共に平和をつくる、幸いな者とされたく思います。
 平和を考える機会の多いこの8月に、多くの方々が悪魔の支配から脱することが出来るよう願い、お祈りしています。

広島にて2012年08月06日 19時29分


 昨日、広島に入り、今朝は式典に参加しました。5年ぶり、2度目です。初めて参列した5年前は参列者は何時ごろ集まり始めるのか、全然分からなかったので、とにかく早く行こうと思い、朝の6時には会場に入り、並べられていたパイプ椅子に座りました。

 今回はもっとゆっくり会場に入り、パイプ椅子にも座らずに会場の右側の通路から立って式典を見ました。5年前、パイプ椅子に座った時は、周りをキョロキョロできず、会場全体の様子が今一つ分からなかったので、今回は会場全体の様子を見たいと思ったのです。

 5年前は平和に貢献したいという気持ちはあっても、どうしたら良いか分からないでいました。5年後の私は分かっています。そのための確信を得るために広島に来ました。来て本当に良かったです。

 午前中は平和公園の中で過ごし、午後はホテルに戻って執筆予定のヨハネの福音書についての本の構想を練りました。この本の構想は、ここ1カ月ぐらい、ずっと考えていますが、なかなか固まらずに難儀しています。しかし、だいぶ方向性が見えて来ました。いま考えているタイトルは次のものです。

 『核時代のヨハネ福音書の神学 ― 「命」と「滅び」の2次元の時間の中を生きる私たち ―』

【2012.8.15編集】

千羽鶴2012年08月09日 13時43分


 広島の平和公園の原爆の子の像の横の、折り鶴コーナーに川崎市立高津中学校から捧げられた作品があったので、思わず写真を撮りました。高津に住んでいた13年間が妙に懐かしいです ^^

 きょうはテレビで長崎の平和祈念式典を見ました。この式典の最後にいつも歌われる 「千羽鶴」って、詞も曲もいいですね。心にしみます。

「千羽鶴」 作詞・横山鼎
一、
 平和への誓い新たに 緋の色の鶴を折る
 清らかな心のままに 白い鶴折りたたみ
 わきあがる熱き思いを 赤色の鶴に折る

二、
 平和への祈りは深く 紫の鶴を折る
 野の果てに埋もれし人に 黄色い鶴折りたたみ
 水底に沈みし人に 青色の鶴を折る

三、
 平和への願いを込めて 緑なる鶴を折る
 地球より重い生命よ 藍の鶴折りたたみ
 未来への希望と夢を 桃色の鶴に折る

 未来への希望と夢を 虹色の鶴に折る


 私も広島の平和公園で折り鶴を折りました。式典が始まるまでの間に台も何もない所で立ったままで折ったので、あまり上手に折れていませんが、鶴を折っている間は不思議と心が和みました。

佐々部ネット~PART2~2012年08月11日 09時39分

 佐々部監督の日記は、先月 sasabe.netが閉鎖されてから読めなくなってしまっていましたが、ブログとして復活しました。感謝です。早速、ブックマークしましたよ ^^

 http://sasabenet2.blog.fc2.com/

 facebookは私も少し首を突っ込んでみたものの、どうも合わないので、最近は時折見に行く程度で、書き込みはやめてしまいました。

 「一粒のタイル」は地道に続けて行きたく思いますので、よろしくお願いいたします。

ヨハネの2次元の時間観2012年08月16日 09時19分


 ヨハネの福音書の時間観を図にしてみました ^^

 私としては、ヨハネの福音書の理解を助ける強力な図であると自画自賛していますが、問題は他の人に分かってもらえるかです ^^;

ヨハネの2次元の時間観(2)2012年08月16日 10時00分


 もう一丁いきます。

 ヨハネの福音書の表舞台で目立つ二元論(信じる/信じない、光/闇、命/滅び、etc.)と舞台裏に隠された時代の多重構造(旧約の時代/イエスの時代/使徒の時代)とは、時間を2次元に拡張することで、表裏が一体となります。

 物理学の美しさを見るようで、うっとりします ^^ が、問題は他の人に分かってもらえるかです ^^;

NHK「最期の笑顔」2012年08月17日 23時43分

 NHKスペシャル「最期の笑顔 ~納棺師が描いた 東日本大震災~」を観ました。すごい番組だと思いました。ご遺族が、よく取材に応じて下さったなと思いました。それだけ、この納棺師さんに感謝しているのだなと思いました。この納棺師の女性も本当にすごい人だなと思いました。すごい、すごい、とあまりに語彙が貧困ですが、どう表現したら良いか分からないくらい、すごい番組だと思いました。感動しました。

 映画の「おくりびと」は実話に基づいているとはいえ、フィクションとして観ましたが、今夜のNHKスペシャルは本物のドキュメンタリーですから、本当に深い感動をいただきました。感謝です。

 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0817/

8月20日を忘れずにいたい2012年08月22日 20時08分

 毎年8月6日、9日、15日には平和のために祈り、また、「私を平和のために用いてください」と祈っていますが、これからは8月20日も忘れずにいて、毎年8月20日にも同じ祈りを捧げたいと思います。
 
 今朝の祈りの時、旧約聖書のミカ書を読むように示されたので開いて読んだところ、次の箇所に目がとまりました。

 「人よ。何が良いことなのか。
  主は何をあなたに求めておられるのか。
  それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって
  あなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ書6章8節)

 20日にシリアで亡くなられた山本美香さんは神と共に歩むことができた方ではないかと思いました。山本さんがどれだけ聖書を読んでいたかはわかりませんが、マタイ25:40ができている人だと思いました。

 「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25章40節)

 マタイ25:40ができる人とは、空腹な人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、旅している人を泊まらせ、裸の人に着る者をあげ、病気や牢にいる人を訪ねることができる人です。これは行為というよりは心が問われているのだと思います。最も弱い人々にどれだけ心を寄せることができるかが、問われているのだと私は思います。山本さんはそれを戦地で行うことができた人であり、神と共に歩んだ人だと思いました。

 私の役割は、「神と共に歩む」とはどういうことかを多くの人々に分かりやすく伝えることだと思います。マタイ25:40だけが神と共に歩むことではありません。「神と共に歩む」とはどういうことか、聖書に基づいて説き明かすこと、それが私が平和のために用いられる、ということだと思いますから、そちらに向かって加速して行きたく思います。

すっきり2012年08月30日 09時32分


 静岡の実家が解体されて更地になり、人手に渡りました。

 さあ、私もまた新しい一歩を踏み出さねば。

「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2:19)