奥義への道2011年08月28日 05時54分

 いま月に1回、母教会の高津教会に近況報告の手紙を書いています。今月はこんな手紙を書きました。

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 いつもお祈りいただいていることに、心より感謝いたします。

 私が初めて高津教会を訪れたのは2001年8月12日でしたので、今年の8月でちょうど10年になりました。それで、今回の報告はこの10年に絡めて何か書くのが良いだろうと思い、この10年間のことにいろいろと思いを巡らしていたところ、一つ興味深いことに気付きました。それは、そもそも聖書は教会に行かなければ分からないように書かれているようだ、ということです。

 聖書は教会の説教で解き明かしてもらわなければ、なかなか理解できないことを私たちはもちろん良く承知していますが、どうやらこれには聖句の裏付けがあるようなのです。マタイの種まきのたとえの箇所には、こう記されています。

「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」(マタイ13:11)

 つまり、教えを真剣に求めてイエスの所に来る者には聖書を理解することが許されていますが、ただ単に興味本位だけで聖書を開く者には理解が許されていないようなのです。私のこの10年間を振り返ってみても、独学で聖書が学べるようになったのは、ようやくここ1,2年ぐらいのことで、それまでは教えてもらわなければ全く理解できませんでした。

 10年前、高津教会を訪れる以前にも私は韓国人に聖書を読むように盛んに勧められていたので、聖書をめくってみたことは何度もありました。しかし、何が言いたいのか、さっぱり分かりませんでした。それは、高津教会に通うようになってからも同じでした。説教で聞いた箇所は理解できても、それ以外の箇所は自分で読んでも理解できませんでした。今ようやく独学でも理解できるようになったのは、聖書の全体像が分かってきて、聖書自身が各部分について私に教えてくれるようになったからです。知識が断片的な間は、聖書は分からないようになっているのですね。分かるためには、へりくだって教えを求める心でイエスに近づかなければなりません。それが「教会に行く」ということだと思います。

 2001年8月12日、初めて高津教会を訪れた私の心を捕えたのは、信仰に熱心になればなるほど逆に心が神から離れる恐れがあるという逆説でした。パウロもガラテヤ書も律法主義も何も知らない私でしたが、この逆説に引かれてもっと「知りたい」と思い、教会に通い続けるうちにやがて「教わりたい」になり、その年のクリスマス礼拝で受洗しました。

 聖書に何が書かれているか知りたいと思っている日本人は多いはずです。しかし、教会に足を運んで教わりたいというほどではないでしょう。「聖書を知りたい」が「聖書に教わりたい」になった時、教会の敷居が少しぐらい高くても足を運んでもらえるのではないかと思います。私のこれからの教会でのご奉仕で、地域の人々が「聖書に教わりたい」と思うようなことを、どうしたら提供できるのか。それを考えることが非常に重要であろうと気付かされました。今回、この報告がきっかけで新たな気付きが与えられて感謝です。

 今後ともお祈りをどうかよろしくお願いいたします。