信仰の「カーリングのたとえ」2013年12月25日 22時13分

 クリスマスの日の今日、教会の近くの海辺をジョギング中に、信仰をカーリングに例えるアイデアが与えられました。
 下記のような感じです。

 信仰はカーリングにたとえることができます。
 カーリングの重要なポイントとして、①石をカール(回転)させることと、②氷をブラシでスイープする(こする)こととがあります。この二つのポイントを、信仰における①神は【過去・現在・未来】が混然一体となった永遠の時間の中にいると考えることと、②その永遠の時間観の中で祈ること、の二つのことの必要性を説明するのに用いることができます。
 カーリングの石をカールさせないなら直進しかしません。カールしない石の前の氷をいくらスイープしても進路を変えることはできません。カールさせるからこそ、スイープによって石が曲がるタイミングを調整することで目標の地点に持って行くことができます。私たちが信仰生活において祈るのは、この目標地点に到達したいからです。そのためにカーリングの選手が氷を一生懸命にスイープするように、私たちも一生懸命に祈ります。
 しかし、もし私たちが祈る時に【過去→現在→未来】という直線的な一方通行の時間観しか持たないなら、それはカーリングの石をカールさせないのと同じで、過去に投げた石の方向にそのまま未来に向かって直線的に進むだけです。私たちが祈るのは、そのまま直進したのでは願っている地点に到達できないから進路が変わって欲しいと願って祈るのです。その進路を変えるために石をカールさせることに相当するのが、【過去・現在・未来】が混然一体の永遠の時間観を持つことです。祈り手は、過去と未来とが絡み合う現在の中で一生懸命に祈ります。祈りに力があるのは神が【過去・現在・未来】が混然一体の永遠の中にいるからです。神が永遠の中にいるからこそ、祈りによって状況が変わって行きます。私たちが永遠の中にいる神に心を寄せて過去と未来の絡み合いの中でタイミング良く祈る時、今は目標の地点に向かっていなくても、やがて進路が変わって目標に向かって進んで行くようになります。

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