嵐山の休日2011年04月08日 07時34分



 京都府向日市にある京都西教会に来てから、早くも10日が過ぎました。転任があった教会を一人で任されて、次から次へと新しいことをしなければならないので、なかなかブログを更新するゆとりがありませんでした。
 そんな慌ただしい中ですが、火曜日に休暇を取って、嵐山へ行って来ました ^^
 ここ京都西教会は阪急の東向日駅まで徒歩2~3分の近さです。東向日から阪急京都線で河原町方面へ2駅で桂駅、ここで阪急嵐山線に乗り換え、わずか3駅で嵐山に着きます。近くてビックリでした。
 桂川の河畔を少し歩いた後、まず天龍寺に行きました。



 しだれ桜が満開で、癒されました。



 天龍寺を出てから、清涼寺に向かいました。



 清涼寺では年に2回、2ヶ月ずつしか公開しない霊宝館をちょうど見ることができたので、その中にある国宝の阿弥陀三尊像をじっくり鑑賞しました。私はこの阿弥陀像に激しく魅かれました。霊宝館を出てからも、帰宅してからも、なぜ私はかくも激しく阿弥陀像に魅かれたのかを、考え続けました。信仰とは何か、宗教とは何か、仏教とは何か、仏像とは何か、人と仏像との間にはどのような霊的な相互作用が働いているのか、聖書には何故「偶像を警戒しなさい」(Ⅰヨハネ5:21)と書いてあるのか。とても良い考察ができました。もしかしたら、この考察が、京都における最大の収穫になるかもしれません。



 清涼寺の後は、化野の念仏寺に行き、帰りに嵯峨野の食事処でにしんそばを食べ、桂川の河畔で焼き竹の子を食べました(笑)



 おみやげに春限定の「おたべ」を買って帰りました ^^

 このブログを書き終わろうとしている時、朝のニュースで東北で大きな余震があったことを知りました。横浜にいたなら揺れですぐに分かったと思いますが、京都にいては全く分かりませんでした。

 揺れの圏外に来てしまったんだなということを感じています。

『神に失望したとき』2011年04月13日 09時00分

 「フィリップ・ヤンシーの本はいいよ!」と、複数の神学生が言っていたので、では私も読まなければと思い、まず2月に『この驚くべき恵み』を読みました。確かに、とても良かったので、それ以降、神学院の図書館からまとめてヤンシーの本を借り、立て続けに何冊か読みました。『祈り ― どんな意味があるのか』、『だれも書かなかったイエス』、『教会 なぜそれほどまでに大切なのか』。そして大地震の直後、どんな説教をしたら良いのか悩んだ時に、『神に失望したとき』と『痛むキリスト者とともに』を読みました。

 京都の教会に来て最初の祈祷会のお証しの時に、一人の方が、今度の大震災で信仰が揺らいでいるという話をされました。今回の大地震では、信仰を持つ者は誰でも多かれ少なかれ信仰が揺さぶられたことと思います。私も未だに100%納得した理解には至っていません。しかし、ヤンシーの『神に失望したとき』は自分の信仰を考え直すのに非常に役に立ったので、この信仰が揺らいでいると言う方にこの本をお貸ししようと思いamazonで取り寄せ、お貸しする前に自分でももう一度読み直しました。

 この本の良いところでもあり、悪いところでもあるのは、非常に情報量が多いということです。著者自身も様々な観点から「神に失望する」ということについて考察していますし、試練に遭って悩んでいる人の証言も複数取り上げられています。これらの証人の信仰も皆それぞれ違いますから、話が拡散気味であり、この本を読み終わった後、実はあまりスッキリ感はありません。結局のところ、自分の信仰の問題は自分で解決するしかないのです。しかしその時に、この本が提供する非常に多くの考察の材料が大変に役に立つことになります。

 私が感心しきりなのは、旧約聖書の「ヨブ記」をどう読んだらよいか、ということです。ヤンシーによれば、「ヨブ記」とは推理劇のようなものだということです。それで私は、『刑事コロンボ』を思い出しました(ヤンシーは『刑事コロンボ』には言及していません)。『刑事コロンボ』は予め視聴者に殺人の現場が明かされます。次いでコロンボが登場し、あれこれ悩みながら推理を展開し、ラストに至ります。「ヨブ記」も最初に読者に、なぜヨブが悩み苦しむことになるかのタネが明かされます。天上の神と悪魔とが賭けのようなことをしてヨブの信仰を試すことにするのです。何も知らない哀れなヨブは大変な苦しみの中を通ることになります。読者はなぜヨブが苦しむことになったかの経緯を知っていますが、当のヨブは知りません。『刑事コロンボ』と展開が何となく似ていますね。

 ヤンシーは時に宇宙規模での神と悪魔との闘いを語り、時に卑近な例を挙げます。個人的には宇宙規模の闘いについての考察が非常に勉強になりました。現在は古本しか手に入りませんが、大震災の中を通る日本人にとっては、とても参考になるお勧めの一冊です。

きょうは「最後の晩餐」の日2011年04月21日 09時15分

 今年のイースターは4月24日(日)です。
 イースターは、十字架で死んだイエス・キリストが復活したことを祝う日です。イースターの前の金曜日が十字架の日、その前日の木曜日が「最後の晩餐」の日です。
 今月の京都西教会の木曜の晩の祈祷会では旧約聖書のハガイ書の学びをしていますが、今夜はハガイ書を通して最後の晩餐について考えることにしました。
 説教を作っていて、私自身も本当に良い学びができたと思い、神様に感謝しています。
 このブログを読んでくださっている皆さんとも、私が今回新たに学んだことを、ご一緒にお分かちしたく思います。

2011年4月21日(木)祈祷会説教

「ハガイ書で深まる最後の晩餐の学び」

聖書箇所:旧約聖書・ハガイ書1:12-2:9

 受難週の木曜日は最後の晩餐の日です。今夜は最後の晩餐のことを思いつつ、ハガイ書の学びを続けていきたく思います。
 最後の晩餐の場面を意識しながら、ハガイ書を読むと、これは今回私も初めて気付いたことですが、ハガイ書で神がハガイを通してイスラエルの民に語る場面は、イエス・キリストが最後の晩餐で弟子たちに語る場面と、非常に雰囲気が似ているように感じます。
 イエス・キリストは「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)とおっしゃいましたから、ハガイ書の父なる神と最後の晩餐の御子イエスが似ているのは、当たり前のことかもしれません。父なる神はユダヤの民に対して、御子イエスは弟子たちに大きな愛を示したことが私たちには伝わってきます。しかし、似ているとは言ってもやはり両者は違います。父は父の愛を示し、イエスはイエスの愛を示しました。この違いから私たちはイエスがこの世に来たことが、どんなに素晴らしい出来事であったか、ということが分かります。

 このことを分かち合うために、まずは父なる神の愛が示されたハガイ書の今日の箇所を見ていきましょう。
 前回は、「【主】の宮を建てる時はまだ来ない」と言って、神殿の再建を中断したまま再開しようとしない民に対して、神が、「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。あなたがたの現状をよく考えよ」(1:4)と言い、「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう」(1:8)と言って民を叱咤激励したことを一緒に見ました。

 きょうの箇所は、その続きです。父なる神は、ハガイを通して、さらに、このように言いました。13節「わたしは、あなたがたとともにいる」
 神が共にいてくださる。これ以上、大きな励ましがあるでしょうか。私たちの教団の名前であるインマヌエルの意味も、「神は私たちとともにおられる」です。教団の名称にするほどですから、本当に大きな励ましであり、素晴らしい恵みです。
 この言葉により、民は大きな力を得ます。14節「【主】は、ユダの総督ゼルバベルの心と、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の【主】の宮に行って、仕事に取りかかった。」
 民は奮い立ちました。そうして、中断していた神殿の再建が再び始められました。それは第六の月のことでした。
 さて、これで奮い立った民が、あとは神が激励しなくても頑張り通したかというと、どうもそうではなかったようなんですね。
 一ヵ月後の第七の月に、神は再び民を励まします。2章4節、
「しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ」(2:4)

「強くあれ。仕事に取りかかれ」これも、力強い励ましの言葉ですね。そしてもう一度、
「わたしがあなたがたとともにいる」と、神はおっしゃってくださっています。さらに、5節では、「わたしの霊があなたがたの間で働いている」とおっしゃっています。

 これが父なる神がユダヤの神に示した愛です。「わたしの霊があなたがたの間で働いている」、ここから、非常に大きなことが分かります。父なる神と御子イエスとの大きな違いが分かります。父の愛は民族の単位、国の単位のものなんですね。一方、イエス・キリストの愛は一人一人に対するものでした。
 父の愛は国単位、民族単位で注がれたものです。7節、
「わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。」
 そして9節、
「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。わたしはまた、この所に平和を与える。」

 何と素晴らしい約束ではないでしょうか。ユダヤの民も、大いに励まされたはすです。しかし、結局、一時的には励まされても、すぐまたダメになってしまうのですね。このハガイ書の続きは、また来週見ることにしたく思いますが、旧約聖書とは、結局はその繰り返しなんですね。神の言葉により、一時は良くなるものの、すぐにダメになってしまう。民という単位で考えると、民とは楽な方に流されやすいと言えるのでしょう。

 すぐダメになってしまう民を救うため、最後の手段として父が送ったのが一人子のイエス・キリストでした。
 では、きょうの残りの時間は、イエス・キリストと弟子たちの最後の晩餐の時について分かち合って行きたく思います。きょう私は始めに、ハガイ書と最後の晩餐は似ていると感じると話しました。どこが似ているかというと、ふがいないユダヤの民を父なる神が諭すのと、なかなか悟らない情けない弟子たちをイエスが教えるのが似ています。どれだけ情けないかを(もちろんそういう私も情けないのですが)、ルカの福音書の最後の晩餐の場面で見てみましょう。ルカの福音書の22章です。
 まず19節と20節をお読みします。
「それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」
「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」

 パンとぶどう酒の聖餐の場面です。この聖なる食事が行われた場で、誰が一番偉いかという議論が起こったのです。24節、
「また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。」
 これがイエスとずっと一緒に付き従ってきた弟子たちの姿でした。イエスはそんな弟子たちに言いました。26節と27節、
「あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」

 このように、イエスは、へりくだることの大切さを弟子たちに教えました。ヨハネの福音書には、イエスが弟子たちの足を洗ったことが記されています。そこもご一緒に見てみましょう。ヨハネの福音書の13章です。13章1節、
「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
4節と5節、
「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」

 イエスは弟子たちよりも身を低くして、弟子たちの足を洗いました。父なる神の愛は上からの愛であり、御子イエス・キリストの愛は下からの愛とも言えるのではないでしょうか。
 ヨハネの福音書の最後の晩餐の場面はこのように、13章の、イエスが弟子の足を洗う場面から始まり、17章の祈りの場面まで、5章に渡って綴(つづ)られています。ページ数で言えば10ページ半であり、実にこの福音書の5分の1が、最後の晩餐の場面です。マタイの福音書が1ページちょっと、マルコが1ページ弱、ルカが約2ページなのと比べると、10ページ半という量がいかに多いかということが、よく分かると思います。

 日曜日の礼拝でも言いましたが、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙、ヨハネの黙示録のヨハネ文書は新約聖書の中では最も新しいもの、最後に書かれたものです。西暦で言うと、ほかの福音書やパウロの手紙などは、だいたい、紀元50年から70年までの間に書かれたものですが、ヨハネ文書は紀元90年前後から100年までの間に書かれたと考えられています。ヨハネの手紙については定かではありませんが、少なくとも福音書と黙示録が1世紀の終わり頃に書かれたのは、確実だと思います。ですから、ほかの新約聖書の文書が書かれてから約20年の間隔があって、ヨハネの福音書と黙示録が書かれました。ヨハネの福音書と黙示録は新約聖書を通じての神様から私たちへの最後のメッセージです。
 ヨハネの福音書がいったん閉じる20章31節には、この書が書かれた目的が書いてあります。
「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

 ヨハネの福音書は、私たち読者がイエス・キリストを信じて永遠の命を得るために書かれたものです。イエスの生涯を時間順に正確に書き記したものではありません。神様は私たちにこの福音書を通じて語り掛けています。
 ですから、ヨハネの福音書全体の5分の1を占める最後の晩餐の場面も、イエス・キリストは弟子たちに対してというよりは、むしろ私たちに向かって語り掛けていると考えるべきでしょう。

 イエスはご自身が身を低くして弟子たちの足を洗うことで、私たちは人に仕える者でなければならないことを教えてくださいました。自分はあの人より偉いからあの人には仕えないなどと考えず、すべての人に仕えなければならないことを教えてくださいました。
 そして、新しい戒めとして、「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。
 また、ぶどうの木のたとえを使って、私たちがイエス・キリストにとどまっていることの大切さを教えてくださいました。イエス・キリストはこのようにおっしゃいました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」とイエスさまはおっしゃいました。この言葉を、ハガイ書の今日の箇所と比べてみると、旧約と新約の違いが、非常に良く分かると思います。
 神はハガイを通じておっしゃいました。
「わたしは、あなたがたとともにいる。わたしの霊があなたがたの間で働いている。」旧約では、神様はイスラエルの民族とともにいてくださいました。一つの民族と一緒にいてくださいました。
 ところが、これがうまくいかなかったんですね。人間というのは、それほどまでに罪深く、神様に反逆する性質を持っています。そんな私たちを神様は見捨てず、今度は一人一人に聖霊を送ってくださいました。最後の晩餐の席でイエス・キリストはおっしゃいました。

「わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(16:7)

 こうして、イエス・キリストは私たち一人一人に助け主である聖霊を送ってくださいました。助け主について、イエス・キリストはこのようにもおっしゃいました。

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」(14:26,27)

 イエスさまが私たちに与えてくださる平安は、世が与えるのとは違う、とイエスさまはおっしゃいました。これも、ハガイ書との関係で考えると、非常に理解が深まると思います。
 「世」というのは、日曜日の礼拝の説教でも言いましたが、英語では「world」であり、ギリシャ語では「κοσμοs(コスモス)」です。つまり、「世界」です。この世は悪魔が支配している、闇の世界です。ハガイ書のような旧約聖書の世界では、神が民族単位や国単位で一くくりにして共にいてくださるわけですが、どうしてもこの悪魔の世界と混じり合ってグチャグチャになってしまっているのではないでしょうか。その民族のいる空間が、純粋に神様だけで満たされている、というようには、なかなかならない、と思います。
 しかし、新約の時代の私たちは違います。私たちの体は、この世という闇の世界に身を置いているとしても、私たちの体の中心である心の奥底には聖霊がいてくださいます。光であるイエス・キリストがいてくださるのです。
 このことは、旧約と新約の時代の非常に大きな違いとして、しっかり理解しておく必要があると思います。
 ですから、神様と私たちの関係というのは、非常に個人的な関係なんですね。私たちは人々に伝道する時でも、このことを上手に伝えていく必要があると、今回、私はこの説教を作っていて、思わされたことであります。日本の多くの人々がイメージしている神様というのは、地域を守ってくれるとか、先祖代々の家を守ってくれるとか、共同体を守ってくださる神というイメージが非常に強いのではないかと思います。それは旧約の神観と良く似ています。でも、これは上手くいかないことは、旧約聖書で実証済みです。

 一方、イエス・キリストを信じる私たちと神との関係は、非常に個人的なものです。十字架に掛かって死に、復活して天に上ったイエス・キリストが一人一人に聖霊なる神を送ってくださり、私たち一人一人の内には聖霊が住んでいるのだということを、しっかりと認識しておきたく思います。
 最後の晩餐でイエス・キリストは、そのことを私たちに教えてくださいました。

思わぬ贈り物2011年04月26日 08時52分

 昨日、新しいノートPCが届きました。

 きょうの午前はそのPCにソフトをインストールしたりしながら、古いPCとの違いを実感したく思っています。この日記はまだ古いPCで書いているのです ^^; このPCは本当に遅くてイライラします ^^

 新しいPCを買うことにしたのは、思わぬ贈り物があったからです。

 話は一ヶ月前にさかのぼります。こちらに来て、引継ぎをした時に、現金も引き継ぎました。さて、この現金をどうしたものか、思案しました。1、2ヶ月後に次の先生に引き継ぐまでタンスに入れて保管して、万一盗まれでもしたら大変です。銀行口座に入れるのが一番良いのですが、自分の口座に入れて自分のお金とゴチャゴチャにするわけにもいきませんし、かと言って短期しか滞在しない予定の京都で新しい口座を作るのも面倒そうです。

 それで、3年前までマンションのローンの支払いに使っていた口座のことを思い出しました。3年前にマンションを売却してローンを解約した時にほとんど空っぽにしたはずだから、それを完全に空っぽにしてから、預かった現金を入れようと思いました。それで、その通帳はちゃんと持って来ていたので銀行へ行って、まず残額がどれくらいあるか記帳しました。そしたら、意外や意外、ちょっと良いノートPCが軽く買えるぐらいのお金が入っていました。ビックリでした。マンションのローンを解約してしばらくしてから、お金を借りていた金融機関から払い戻しがあったのでした。

 そんなお金があったとは、全然知らずにこの3年を過ごしていましたので、私にとっては思わぬ贈り物でした。それで、ここのところ、この古くて遅いPCにずっとイライラしていたので、思い切って新しいのを買うことにしました。古いPCもまだ使えないことはないですが、何せCドライブのハードディスクの容量が小さくて困ります。もうほとんど余裕がないのに、ネットにつなぐと勝手にセキュリティ関係のアップデートのファイルを自動更新で取り込んで来るので、困ります。使っていないソフトやデータを消しても、すぐにまた一杯になってしまいます。自動更新を停止したはずなんだけど、いまだに勝手に新しいファイルを取り込んで来ます(笑)。

 きょうからは、快適なPC生活を送ることができるでしょうか?それとも、新たなトラブルを抱えることになるのでしょうか^^; OSの7はもちろん初めてですし、Officeも2003までしか使ったことがないので、使い方が分からなくて、もっとイライラするかもしれませんね(笑)

『阪急電車』2011年04月26日 18時40分


 『阪急電車』を阪急電車で梅田に行って観て来ました(笑)
 帰りには、梅田芸術劇場の前にも行って来ました ^^
 デジカメがなくて携帯で撮ったら、こんな小さくなっちゃいました。
 スミマセン。



 梅田を歩いたのは、2年半前の10月の初めに佐々部監督演出の舞台『黒部の太陽』の初日公演を梅田芸術劇場で観て以来のことでした。

 思えば2年半前、この『黒部の太陽』を観た翌日から神学院で神学生としての本格的な寮生活を始めたのでした。昨日まで梅田を歩いていた男が、翌日からは許可を得ないと外出できないという厳しい寮生活に突入したのですから、最初の半年は本当に苦しかったです。そんな事を、梅田をブラブラしながら思い出したりしました。

 『阪急電車』は良い映画でした。目の端から涙がちょっとだけ流れる、その泣かせ加減が私にはちょうど良い塩梅で、楽しむことができました。宮本信子さんが良い味を出していました。最後の方では『眉山』の宮本さんを思い出しました。

 私は『阪急電車』の登場人物のような方々に、ぜひ教会に来ていただきたいと思いました。そして、私たち教会で奉仕する者は、そのような方々が来て下さった時、「また来たい」と思っていただけるような教会にしていかなければならないと思ったことでした。