新渡戸稲造『武士道』2011年01月05日 17時39分


 一昨日の1月3日に『最後の忠臣蔵』について書いた時、最後に

「『武士道』を書いた新渡戸稲造がキリスト教徒であったことからも分かるように、武士道とキリスト教は極めて近い関係にあるということを、この映画を見て改めて感じました。」

と書きました。実はこう書いた時は、直感的にそう思っただけで、だいぶ前に読んだ新渡戸稲造の『武士道』の内容はほとんど覚えていませんでした。というより、以前読んだ時は『武士道』は私には難しすぎて歯が立たなくて、途中で挫折していたというのが本当のところです。それで、「武士道とキリスト教は極めて近い関係にある」と書いてしまった後で、あれはもしかしたら書き過ぎではなかったかなと、ちょっと心配になりました。それで、書棚にあった岩波文庫の『武士道』(矢内原忠雄・訳)を久し振りで読み返してみました。

 感謝なことに、今回は以前に比べて遥かによく理解できました。以前は違いましたが、今は私もイエス・キリストという主君に仕える家臣だからです。

 そうして、武士道とキリスト教とが近い関係にあるという記述がある箇所を探してみると、ありました、ありました。少し書き出してみます。


「十七世紀の一名僧が諷して言える言に ―― 『平生何程口巧者(くちごうしゃ)に言うとも死にたることのなき侍は、まさかの時に逃げ隠れするものなり』と。また、『一たび心の中にて死したる者には、真田の槍も為朝(ためとも)の矢も透(とお)らず。』
 これらの語が我が国民をして、『わがため己が生命を失う者はこれを救わん』と教えし大建築者〔キリスト〕の宮の門に接近せしめているではないか。これらは、キリスト教徒と異教徒の間の差異を能う限り大ならしめんと骨折る試みがあるにかかわらず、人類の道徳的一致を確認せしむる数多き例証中の、僅か二、三であるに過ぎない。」(十二章 p.106)

「奉仕の教義に関する限り ―― 自己の個性をさえ犠牲にして己よりも高き目的に仕えること、すなわちキリストの教えの中最大であり彼の使命の神聖なる基調をなしたる奉仕の教義 ―― これに関する限りにおいて、武士道は永遠の真理に基づいたのである。」(十四章 p.120)


 新渡戸稲造は、真の武士・真のキリスト教徒は両者共に、精神的・霊的に一度死を経験して自己が死に、主のために生きるという新たな生を与えられた者であることを言っています。

 『最後の忠臣蔵』の武士・瀬尾孫左衛門は、主の大石内蔵助のために一度命を捨てた者であるが故に、可音を嫁がせるという使命を果たし終え、他に主のために働く事柄が無くなったなら、切腹するより他に選択肢はあり得なかったことになります。