『日(陽)はまた昇る』考 ― 2009年05月05日 12時12分
次の日曜日の午後、深川教会の壮年会の勉強会で、旧約聖書の『伝道者の書』の3章、4章について20分程度の話をすることになっており、いま『伝道者の書』について、あれこれ思いを巡らしているところです。
さて、ある注解書に、ヘミングウェイの『日はまた昇る』の冒頭にこの『伝道者の書』の第一章の一部が引用されているとありましたので、さっそく文庫本を手に入れて見てみたところ、
「あなたがたは、みんな失われた世代ね」
― ガートルード・スタインの座談より
とある後に、
「日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。」
の第5節を含む『伝道者の書』1章の4節から7節までが引用されていました。「空(くう)の空」で始まる『伝道者の書』は読み方によっては人生の空しさだけが連綿と綴られている書であり、『日はまた昇る』は「失われた世代」の退廃的な生活が綴られています。
一方、和製の『陽はまた昇る』、これはいくつもの楽曲やテレビドラマ、また映画のタイトルにもなっていますが、これには再び立ち上がる力強いイメージがあります。
『日は…』の気だるさと『陽は…』の力強さ…、この違いは、いったい何なのでしょうか?
思いを巡らす中で、これは神を意識するかしないかの違いではないかと気付きました。『日は…』は神を意識しているものの、あまりに遠い存在であるために虚無的になってしまっている、一方、『陽は…』は、始めから神様など一切あてにしていないために自らを奮い立たせて力強くあらねばならない、というような構図になっているのではないでしょうか。
『日は…』は神を意識しており、『陽は…』は神を意識していない、それゆえ、一見すると両者の違いは非常に大きいように見えます。しかし、両者には神を身近に感じていないという共通点があります。
いま私は『伝道者の書』の勉強を通じて、改めて旧約の神の限界と新約の神の恵みの大きさを感じているところです。御子イエス・キリストがこの世に来てくださったことにより、神は私たちにとって、ずっとずっと身近な存在になりました。『日は…』も『陽は…』も、どちらもその素晴らしい恵みに与っていません。ああ、もったいない・・・
さて、ある注解書に、ヘミングウェイの『日はまた昇る』の冒頭にこの『伝道者の書』の第一章の一部が引用されているとありましたので、さっそく文庫本を手に入れて見てみたところ、
「あなたがたは、みんな失われた世代ね」
― ガートルード・スタインの座談より
とある後に、
「日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。」
の第5節を含む『伝道者の書』1章の4節から7節までが引用されていました。「空(くう)の空」で始まる『伝道者の書』は読み方によっては人生の空しさだけが連綿と綴られている書であり、『日はまた昇る』は「失われた世代」の退廃的な生活が綴られています。
一方、和製の『陽はまた昇る』、これはいくつもの楽曲やテレビドラマ、また映画のタイトルにもなっていますが、これには再び立ち上がる力強いイメージがあります。
『日は…』の気だるさと『陽は…』の力強さ…、この違いは、いったい何なのでしょうか?
思いを巡らす中で、これは神を意識するかしないかの違いではないかと気付きました。『日は…』は神を意識しているものの、あまりに遠い存在であるために虚無的になってしまっている、一方、『陽は…』は、始めから神様など一切あてにしていないために自らを奮い立たせて力強くあらねばならない、というような構図になっているのではないでしょうか。
『日は…』は神を意識しており、『陽は…』は神を意識していない、それゆえ、一見すると両者の違いは非常に大きいように見えます。しかし、両者には神を身近に感じていないという共通点があります。
いま私は『伝道者の書』の勉強を通じて、改めて旧約の神の限界と新約の神の恵みの大きさを感じているところです。御子イエス・キリストがこの世に来てくださったことにより、神は私たちにとって、ずっとずっと身近な存在になりました。『日は…』も『陽は…』も、どちらもその素晴らしい恵みに与っていません。ああ、もったいない・・・









最近のコメント