光の三原色と三位一体の神論2014年10月08日 06時47分

 便乗とは軽薄だが、この際、青色LEDに便乗して、以前から温めていた三位一体の神を光の三原色に例える試みを、推進させてみようと思う。青・緑・赤の光から白色の光を作り出せることをマスコミが説明してくれているので、今ならわかってもらいやすいのではないかと思う。なお、以下の例えはヨハネの福音書の理解から得られることである。

 父・御子・聖霊の三位一体の神を青・緑・赤からなる白色光に例えてみたい。ふだん我々が感じている神は白色光である。この白色光を分光すると父・御子・聖霊の性質に分かれて見えるのである。ただし、ここまでの例えなら、私だけでなく多くの人が考えることであろう。面白いのはここからだ。

 預言者・イエス・使徒にはフィルターのような働きがあって、白色光の三位一体の神は預言者を通ると父だけが見えるようになる。同様にイエスというフィルターを通ると御子が見え、使徒のフィルターを通ると聖霊が見える(この場合の「見える」とは霊的に見えるという意味である)。

 ヨハネの福音書がわかりづらいのは、イエスが地上生涯のイエスだけでなく、預言者としても、復活後のイエスとしても、或いはまた御使いとしても登場している点にある(御使いというフィルターは預言者のフィルターともまた異なるのでなかなか興味深いが、ここでは深くは追究しない)。

 以上は単なる例え話であるので青・緑・赤の光が父・御子・聖霊のどれに対応するかまで考える必要は無いと思うが、あえて対応させるとすれば、エネルギーが一番高い青色の光が第一の位格の父、次にエネルギーが高い緑色の光が第二の位格の御子、三番目の赤色が第三の位格の聖霊ということになるであろうか。

『平和と聖書』2014年09月11日 06時47分

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日時:9月15日(月・祝)午後2時~
場所:沼津・千本プラザ
メッセージ:『平和と聖書』

お近くの方は、是非いらして下さい。

時間の荒野を放浪する私たち2014年09月06日 04時27分

 時間は人間の脳の中で組み立てられますから、時間が無いエデンの園にいたアダムが「善悪の知識の木」の実を食べたことで時間が有る世界に追放されたことは、人間がなぜ「流れる時間」の中で苦しんでいるのかを見事に描写していると思います。
 イエスを信じて永遠の命を与えられた者は、この「流れる時間」の苦悩からは既に解放されている筈なのですが、クリスチャンでさえ未だに苦しんでいます。これはモーセに率いられてエジプトから救い出されたイスラエルの民が、カナンに定住するまでの40年間を荒野の放浪で苦しんだ状況と似ているように見えます。十字架から二千年経った今、そろそろ「降り積もる時間」の中で安住すべき時が来ているのだと感じています。

「みことばの糸」の解き明かし2014年07月29日 06時30分

 前回の独言でみことばを蚕(カイコ)が吐き出す繭糸に例えたのは、みことばを聞く私たちが過去→現在→未来という線的な時間観に囚われているという含みがある。

 みことばの源泉の神の愛には時間が存在しないが、みことばの糸には人間の線的な時間が伴う。先に語られたみことばは旧く、後に語られたみことばは新しいと人間は判断するが、源泉においては過去・現在・未来が混然としている。それゆえ新約における旧約の預言の成就も不思議なことではない。

 イエス・キリストがみことばの糸を供給するのは霊的に十分に覚醒していない私たちでも神の愛のことがわかるようになるためであるから、神の愛のことが少しでもわかるようになったのなら、いつまでも線的な時間観の中にいるのでなく、過去も現在も未来も渾然一体となった神の愛の中にどっぷりと浸るべきである。

 神の愛に満たされ、線的な時間観の奴隷状態から解放されて自由になるなら、過去の恨みを未来の復讐で晴らす報復の連鎖からも脱却できるであろう。領土や領海を巡る争いも線的な狭い時間観と無縁ではない。人は狭い時間の中で相手よりも優位な位置に立とうと懸命になるが、神の愛の中では優劣は存在しない。

みことばの源泉「神の愛」に浸ろう2014年07月29日 04時44分

『みことばの源泉「神の愛」に浸ろう』
~平和をつくる聖書の味わい方~

 「ことば」であるイエス・キリストの働きを、繭糸を吐き出す蚕(カイコ)の働きに例えてみたい。

 蚕は繭糸の原液を糸にして吐き出す。人間はその糸を拠り、布を編み、衣服等を作る。

 イエス・キリストは「神の愛」という源泉からみことばの糸を人々に供給する。人はそのみことばの糸を拠り、聖書という布を編み、聖書を題材にした本という衣服などの布製品を作る。そして人は、この服はデザインが良いとか悪いとか、着心地が良いとか悪いとか様々に論評し合ったりする。

 しかし、そもそもイエス・キリストがみことばの糸を供給し、聖書の記者たちが糸を拠り、聖書の編者が聖書の布を編んだのは、人々を「神の愛」の源泉に導くためではないのか。生まれながらの人間は霊的に覚醒していないので源泉の存在に気付くことができない。聖書が必要なのはそのためだが、イエス・キリストを信じて聖霊が注がれたなら、源泉の「神の愛」を感じることができるようになる。

 それゆえ聖霊が注がれて「神の愛」に気付いた者たちがすべきことは衣服を着て布地や衣服について論評し合うことではなく、裸になって源泉の湯にどっぷりと浸かることではないか。裸になってすべてを神の愛に委ねる時、私たちの心は平和で満たされる。従って私たちが作るべき布製品は衣服ではなく、温泉の入口の「のれん」である(笑)

神様は見えない?2014年07月18日 10時37分


 ご存知の方も多いと思いますが、テレビやエアコンのリモコンの赤外線は私たちの目には見えませんが、デジカメや携帯電話のカメラで撮影するとリモコンが発光している様子を観察することができます。

 つまり人の目には見えない赤外線もカメラという機械の目には見えています。逆に嗅覚などは機械よりも人の鼻の方が感度が良いと言われています。においを発する物質が人の鼻には見えているのですね。

 さて神様も人の目には見えませんが、人の霊的な目には見えます。ただし霊的な目は人によって感度が違いますから、神様が見える人と見えない人とがいます。毎日を忙しく過ごしていると神様はなかなか見えて来ないかもしれません。

 できれば毎日、最低でも週に1回は忙しさから解放されて静まる時を持ち、霊性を研ぎ澄ますことで、神様がよく見えるようになりたいと思います。毎週日曜日、お近くのキリスト教会はそのような時と場所を与えてくれるでしょう。

日本ができる最高の平和貢献2014年06月27日 08時09分

 日本が世界の中で出来る最高の平和貢献は聖書を究めることではないか。多くの日本人は聖書に馴染みがないので先入観なく聖書を読むことができる。聖書にはまだまだわからないことがたくさんある。これらが解明されれば平和に貢献できる。
 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教とのしがらみがほとんど無いのも日本の強みだ。

教会の役割2014年03月27日 10時41分

 「独居のお年寄りをさいなむ孤独感は地域を問わずに影が濃い。」というところに、地域の教会が果たすべき役割があるように感じています。

2014年3月27日(木)付「 天声人語」
 同じことのようでいて、順番しだいで印象が変わるから言葉はこわい。たとえば、人を評して「実直だが、仕事が遅い」と「仕事は遅いが、実直だ」ではずいぶん違う。いい言葉で締めてもらえば株は上がるし、悪い言葉なら逆になる▼ある意味、人の一生も似ていよう。功成り名遂げた人生でも、終わり方しだいで幸不幸の彩りは変わる。逆もまたしかり。老境に入って、ふさわしい尊厳を保つことは、人が生きるうえで疎(おろそ)かにできない▼52万人という数字が、きのうの紙面で目にとまった。特別養護老人ホームへの入居待ちのお年寄りだという。4年前より10万人増えて、より切実な「在宅で要介護3以上」は15万人を超す。困っている人が、終(つい)のすみかにたどり着けていない▼昨今は「待機」といえば児童だったが、じきに団塊世代が75歳を超えていく。家族や地域は揺らいで久しく、蓄え不足や病気など、それぞれに事情を抱えて老いを歩む。実らせてきた人生が、終幕の境遇で暗い印象に染まるなら、つらいことだ▼介護や医療ばかりではない。独居のお年寄りをさいなむ孤独感は地域を問わずに影が濃い。それが万引きやアルコール依存の温床にもなっている。思いがけず晩節を汚す人も、少なくないと聞く▼シェークスピアの劇にこんなせりふがあった。〈終わりよければすべてよし、終わりこそつねに王冠です〉(小田島雄志訳)。公助と共助と自助。生きることを支える網と人同士のつながりづくりが、待ったなしだ。

永遠の中を生きるイエス2014年02月25日 09時58分

 ヨハネの福音書のイエスが永遠の中を生きていることを、人になかなか理解していただくことができていません。何故かと考えて、まだちゃんと説明していないことがあると気付きました。イエスが永遠の中を生きていることを示す重要な聖句は、
「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)
です。

 イエスは、また、
「わたしはその方(父)から聞いたことをそのまま世に告げる」(8:26)
「ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」(8:28)
「わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話している」(12:50)
と言いました。

 ヨハネの福音書のイエスは以上のように、父と一つであり、且つ父が言う通りのことを話しています。これらの事柄と、背後に「旧約の時代」が重ねられている事とを考え合わせると、モーセやイザヤやエレミヤなどの預言者が聖霊の働きによって語った父のことばは、実はイエスが語ったということになります。

 永遠の中を生きる父と一つのイエスはエレミヤの口を通して、
「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼす牧者たち」(エレミヤ23:1)
と嘆くと同時に、
「わたしは、良い牧者です」(ヨハネ10:11)
と言っています。このようにイエスは父・御子・聖霊の三位一体の神として複数の時代を同時に生きています。

人類は何故ヨハネの福音書の多重時間構造に気付かなかったのか?2014年02月24日 11時37分

 『東京難民』を観るための平塚遠征は、いろいろ用事があって明日になる予定です。

 さて、今朝のtwitterでのつぶやきを以下にまとめます。「人類は何故ヨハネの福音書の多重時間構造に気付かなかったのか?」の問題の重要性が広く認識されるようになるまで、粘り強く広報活動を続けたいと思います。

 ヨハネの福音書は「イエスの時代」に「旧約の時代」と「使徒の時代」を重ねた多重時間構造を持つ。人類が何故この構造に気付かなかったのかの解明は平和実現に貢献すると思う。従って私一人が無い知恵を絞るのでなく、人類全体で考えるべきだ。この問題の重要性がわかってもらえるまで地道に頑張ろう。

 ヨハネの福音書の多重時間構造の例①:9章の「盲人の開眼」の背後には旧約の善王ヨシヤの時代の「律法の書の発見」と使徒の時代の「パウロの開眼」がある。例②:8章の「悪魔」(44節)の背後には旧約の悪王マナセ・アモンの時代の「悪行」と使徒の時代の「ステパノやイエス信者への迫害」がある。

 ヨハネの福音書の多重時間構造の例③:7章でイエスが大声で宣教したことの背後には旧約のヒゼキヤ王の時代のイザヤの預言と使徒の時代の五旬節の聖霊降臨がある。逆に並べたが、例①~③のように背後の「旧約の時代」と「使徒の時代」は時間順に並んでいる。人類は何故この構造に気付かなかったのか?

 人類がなぜヨハネの福音書の多重時間構造に気付かなかったのか?要因の一つはマタイ・マルコ・ルカとヨハネは同類の書であるという強烈な思い込み。しかしマタイ・マルコ・ルカはイエスの地上生涯を描き、ヨハネは永遠の中を生きるイエスを描いたのだから全く違う。天動説と地動説ほどの大きな違いだ。

 マタイ・マルコ・ルカの福音書は地球に、ヨハネの福音書は宇宙に例えることができる。マタイ・マルコ・ルカと同じ地球の視座からヨハネの宇宙を眺めるから天動説になってしまう。イエスがいる旧約の時代・イエスの時代・使徒の時代・現代が一体の永遠という広大な時空に私達読者も身を置く必要がある。

 宇宙サイズのヨハネの福音書を、マタイ・マルコ・ルカの福音書と同様の地球サイズにしか捉えていなかったのは、人類の思考回路に何か重大な欠陥があるからではないか。だから人類は互いに愛せず戦争を繰り返すのではないか。この重大な欠陥の究明に人類が英知を結集するなら世界は平和に向かうだろう。