聖書の中の広大な時空2012年06月12日 07時01分

『焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書~』(3)
3.聖書の中の広大な時空

 神の御子イエス・キリストについての、よくある誤解に、
  × 御子は二千年前の約30年間生きていた
  × 御子は二千年前から永遠の未来までを生きている
があります。しかし、正解は、
  ○ 御子は永遠の過去から永遠の未来までを生きている
です。御子は初めからいる方であり、万物を創造しました。聖書には次のように書かれています。

 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」(ヨハネの福音書1章3節)
 「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています」(コロサイ人への手紙1章17節)

 御子イエスは宇宙を創造し、永遠の時間の中を生きています。そして聖書の中には、この途方もなく大きなスケールの時間・空間が広がっています。
 ですから聖書を読む時には、天体望遠鏡や電子顕微鏡を使って宇宙や極微の世界の広大さを覗くのに似た、ワクワク感を楽しむことが出来ます。

 「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」(エペソ人への手紙3章17-19節)

 私は学生時代に『荘子』の内篇が大好きでした。大鵬が九万里の高さに舞い上がり、飛翔する姿をワクワクしながら想像していました。しかし、聖書のスケールの大きさは、それを遥かに上回るものでした。
 そのことを知ったのは、20年後の40代になってからでしたが、聖書の中に広がる広大な時間・空間を私が好んで思い浮かべるのは、私が『荘子』を愛読していたからかもしれません。
(続く)

ヨハネのメイキングビデオとパンフレット2012年06月08日 09時40分

『焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書~』(2)
2.ヨハネのメイキングビデオとパンフレット

 ヨハネの福音書は不思議な書き出しで始まります。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネの福音書1章1節)

 この不思議な書き出しは、実はこの福音書は舞台裏も楽しめるようになっていることを教えてくれている重要な案内板です。ヨハネの福音書は、舞台の表側だけから鑑賞しても十分に大きな恵みが得られますが、舞台裏の動きも併せて鑑賞したなら、さらに大きな恵みが得られるようになっています。映画のDVDに例えるなら、本編と併せて、メイキングビデオの特典映像をも観るなら、より深くその映画のことが分かるようになるのと同じと言えるでしょう。

 また、映画館で売っているパンフレットを読むなら、さらにその映画についての情報を得ることができます。この、ヨハネの福音書のパンフレットに当たるのが、「ヨハネの手紙第一」です。この手紙の書き出しは次の通りです。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──」(ヨハネの手紙第一1章1,2節)

 この手紙の序文には、イエス・キリストが「いのちのことば」であり、「永遠のいのち」であることが、明確に書いてあります。そして、ヨハネの福音書もまたイエス・キリストが「いのちのことば」であり、「永遠のいのち」を持つことを書いています。しかし、それはヨハネの福音書を舞台裏から観なければ分からないようになっています。

 ヨハネの福音書はパンフレットの情報を参考にしながらメイキング映像をも併せて観るなら、本編を7倍楽しく観ることができます。(7という数字は思い付きですので、特に意味はありません ^^)
(続く)

焼かれなかった小羊2012年06月01日 09時51分

 きょうから新しい読み物を、このブログで始めることにします。タイトルは、『焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書~』です。

 聖書を読んだことがない方にも、聖書の世界の面白さを味わってもらえるような読み物を目指したいと願っています。そして、この読み物を通じて聖書について学んでいただくことができたなら最高です。難しいかもしれませんが、目指す所はそこですので、何はともあれ、よろしくお願いします。


『焼けなかったロゴス ~舞台裏から観たヨハネの福音書~』(1)

1.焼かれなかった小羊
 「焼かれなかった小羊」の「小羊」とは、イエス・キリストのことです。新約聖書では、イエス・キリストは小羊に例えられています。イエスが十字架に掛かる頃までの旧約聖書の時代、イスラエルの人々は牛や羊を犠牲のいけにえとして、神殿の祭壇に捧げていました。そして新約聖書ではイエス・キリストが小羊として十字架に掛かり、旧約の時代を終焉させたとみなされています。

 旧約の時代に動物をいけにえとして神に捧げた目的は細かく言えばいろいろありますが、大雑把に言うなら、本来なら人間が死んで神に詫びなければならないところを動物を身代わりにした、ということです。これを新約の時代に当てはめるなら、本来なら私自身が十字架に掛からなければならなかったところを、イエス・キリストが身代わりになって十字架に掛かったということです。

 しかし、いけにえの動物と十字架のイエス・キリストとでは、大きく異なることがあります。それは、いけにえの動物は焼かれましたが、十字架のイエス・キリストは焼かれなかったということです。いけにえの儀式は犠牲の動物が焼かれて完了しますが、十字架上のイエスは焼かれていないのに「完了した」と言いました(ヨハネの福音書19章30節)。

 では、イエス・キリストは焼かれなかったのかと言えば、実は「ことば(ロゴス)」としてのイエス・キリストは火中に投げ入れられました。しかし、ロゴスは焼けませんでした。このことは、おいおい書いて行くことにします。

 ヨハネの福音書を舞台裏から観ると、面白いことがたくさんあります。この連載ではそれらについて書いていきますが、ほとんどは従来言われて来なかったことだと思います。この、舞台裏から聖書を観る面白さを、ぜひ皆さんにも味わっていただけたらと思います。
(続く)